たった一つの欠け

 「しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。
 律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。
 なぜなら、「姦淫してはならない。」と言われた方は、「殺してはならない。」とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。
 自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行ないなさい。」(ヤコブ2:9-12)

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 ルターが「藁(わら)の書」と言ったという、ヤコブ書。
 ルターが何故そう言ったのかを、私は知らない。
 ただ、私もこれを「藁の書」だと思う。
 たとえて言うなら、ノイズが多すぎるのだ。
 上の引用箇所では意図的に、9節、それから12節を加えている。これらがノイズだ。
(端的に、意味不明と言っていいと思う。)

 そのノイズの中から。
 「律法全体を守っても」、いや、アダムの肉を持つ人間としてそんな人はいないのだが、まあ仮定のお話として措いておく。
 「一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです」。
 ここに律法の本質、その究極の正しさ、完璧さが現れている。
 たった一つの欠けですら、それは欠陥品と扱われて、その人は全てにおいて罪深い。
 律法群が提示する義や完全さにどれだけあこがれても、そのようなわけで、その律法を行うことによってはけっして義と認められない。
 このことについては、「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)とあるとおりだ。

 そしてこのことは、何故イエスがわざわざ我々と同じアダムの肉をまとって世に来られたのか、ということにつながってくる。
 天使(天の御使い)として来られてもよかったのではなかろうか。
 天の使いなのだ。「私が救ってあげよう」で、みな信じるではないか。
 だが、それでは「救う」ということについて、何の意味も持たない。
 神が卑小なアダムの肉をまとわれたことにこそ、「救い」のはじめがある。
 そこには、たった一つの欠けで壊れる義とは異なる義がある。

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