正餐

 「すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。
 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」(ヨハネ6:52-55)

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 昔日読んだドイツ流儀の教理書に、上の聖書箇所はイエスが正餐式を制定した下りだ、という解釈が載っていて、それを目にした私は二度とその本を開くことはなかった。

 イエスの肉を食べ、血を飲む。それは実は、確かに正餐なのだ。
 ただ、毎月(毎週)執り行われる儀式としての正餐式とは、全く異なる。
(それには別の意味がある。)

 このイエスの肉を、どうすれば食することができるのだろう。
 その肉は、極刑の十字架の上で、どうにでもできるようにさらされた。
 むち打たれ、また釘で打たれて、イエスの血はしたたっている。
 イエスの血肉は、ゴルゴダの丘で食べて飲むことができるのである。

 この十字架は、人間の肉と同じ肉を処罰し、またそれがよみがえるという過程を通して、罪にがんじがらめにされた人間の肉に神が罪の赦しを与えるためのものである。
 肉による罪からの解放、これが「いのち」であり、よみがえりである。
 「わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます」。
 神の恵みによるこの罪の赦しに与るとき、私たちはこのゴルゴダの丘に立っている。
 その丘でイエスの十字架を前にし、その血肉をいただく。
 これが真の正餐である。
 定期的に行われる儀式とは異なって、ただ一度きりの通過点なのだ。

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[付記]
 本日の記事は、2009年1月17日付記事に筆を入れたものです。

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神に教えられる

 「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
 だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
 わたしはいのちのパンです。
 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:45-51)

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 イエスは仰る。「またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」。
 イエスは「世のいのち」のために、自らの肉を与える。
 肉をまとった神、その肉をささげて、「世のいのち」に供する。

 どのようにして供するのかというと、十字架でのいけにえということだ。
 イエス御自身が極刑を受け、この肉を処断された。
 そして神はこのイエスを復活させ、肉に赦しを与えられた。
 このイエスの道が、人々を救う道なのだ。
 私たちも、イエスのようにアダムの肉を十字架で処断されて、そして赦されて復活するのである。

 この赦しは、「マナ」とは全く何の関係もない。
 今イエスは、パンを目当てに追ってきた群集を相手に話されているが、彼らが欲しいのはあくまで空腹を満たすマナにすぎず、それはイエスが与えようとする「いのちのパン」とは全く異なる。
 だからイエスは、この群衆に仰る。
 「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます」。
 群集はイエスのところに来たのではない。
 パンのありかを探しに来ただけだ。
 ところが、恵みによって「神によって教えられる」とき、その人はおのずとイエスのもとに駆けつける。
 十字架が、字面をはるか超えてはっきり了解できたからだ。
 もちろんイエスは、彼を受け入れる。

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[付記]
 本日の記事は、
  [一版]2007年11月19日
  [二版]2009年 1月 5日
  [三版]2010年 3月22日
  [四版]ほんじつ
 その都度、筆を入れました。

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終わりの日に

 「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。
 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」(ヨハネ6:38-40)

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 「終わりの日」とは、終わりの日のこと。
 その日、全ての人間が集められ、2つの集団に分けられる。
 例えばマタイ25:31-46。

 イエスはその日に「子を見て信じる者」をよみがえらせる、そのように約束する。
 「子を見て信じる」とはすなわち「いのち」であり、イエスはご自身を信じることの出来た人に永遠のいのちを与えてくださる。
 この約束を遙かに眺めて困難な今の日々を歩んでいくこともまた、イエスを信じてこそである。

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[付記]
 今日の聖書箇所には「そのまま」の事がそのまま書いてあるので、かえって書くことがありません。聖書の引用だけでいいくらいだと思いました。

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いのちのパン

 「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」
 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。
 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6:31-37)

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 イエスと群集との、全くかみ合わない会話。

 群集が欲しいのは、どこまでも腹を満たすパン、要するにマナである。
 ところがイエスが世に来て与えたいと思っているのは、そのようなものではない。
 それをイエスは「いのちのパン」と呼んだ。
 「わたしがいのちのパンです」。

 マナは食べると無くなってしまうので、なくなれば再び天から降ってくるのを待つよりほかない。
 今ここでイエスと言い合っている群集もそうで、施しを得たら、ただ次の施しを求めるしかない。
 これではいつまでたっても自分で食っていけない。
 だが、それができるだけのものを与えてくれるのが「いのちのパン」である。

 この「いのちのパン」は食物ではない。
 だが、それを「食する」ことによって、食べていけるだけの力を得ることができるようになる。
 その力を「いのち」といっていい。
 だから「わたしに来る者は決して飢えることがな」いと、「いのち」を下さるイエスは言っている。
 それは全くの自力でなんでもできる、ということでは全くない。
 「わたしは決して捨てません」とあるように、かえって神の御力に常に依っているのである。
 「いのち」宿す人には、捨てられていない、というのがあるはずだ。
 イエスを信じる人というのは、「いのちのパン」を食したそのような人々のことである。

 一方で群集についてイエスは、「あなたがたはわたしを見ながら信じようとしない」と言っている。
 イエスを目の前にしても、全く「見えない」。
 見えないから、無くなる食物であるマナを求めてしまう。
 だが、そんな彼らの中にも、あるときイエスが「いのちのパン」という本来の姿に見えてくる人が出てくる。
 それが神の御恵みなのであり、「父がわたしにお与えになる者」はそのとおりにたぐり寄せられて、「いのちのパン」に預かるのである。

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[付記]
 本日の記事は、2009年1月4日付記事に筆を大幅に入れたものです。

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『いのち』のための働き

 「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(ヨハネ6:26-29)

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 五千人の給食にあずかった群集は、もっとパンが欲しくてイエスを探し当てる。

 食べる(生活する)、ということはとても大切だ。
 だが、それよりも大切なことがある。「いのち」を頂くことだ。
 恵みによって「いのち」が与えられれば、食べるための働きも、おのずとできるようになる。

 「いのち」が与えられるための働きとは何であろう。
 それはイエスを救い主、神の子と信じることに他ならない。
 「信じる」というとかなり違って、より正しくは「信じさせられる」のである。
 「信じざるを得ない」と言い換えてもいい。
 だから、これは大変な働きになる。
 承服させられるのだから。
 この「信じさせられる」とは、神のわざ、神からの恵みである。
 その過程で、私たちは大変な働きをいやいやせざるを得なくなるだろう。
 それが、「いのち」が与えられるための働きである。

 誰もが恵まれ得るのである。行ないではない。
 給食にあずかった五千人も、わざや身分によってパンにありつけたわけではない。

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『イエス』の誕生

 「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:13-17)

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 どこの誰とも分からぬイエスという男に、ヨハネがバステスマを授ける。

 イエスは肉をまとった神であり、その肉には罪が宿っていない。
 律法を完全に守り行うことのできるお方だ。
 そのイエスがバステスマを受けると名乗り出て、ヨハネの方が驚いてしまう。
 バステスマというのは、罪を悔い改めるためのものだ(マタイ3:11)。
 すると、イエスは罪を宿していないのにもかかわらず、バステスマを受ける。
 そうすることで人間と同じようになられたのである。

 私たちが知っている十字架と復活のイエス、恵みによって「いのち」を与えてくださるキリスト・イエスは、まさにこのバステスマの時にお生まれになられた。
 いわゆる公生涯のはじまりである。

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訴えているのはモーセ

 「わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。
 もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。
  しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」(ヨハネ5:45-47)

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 モーセが私たちを、私たちの肉を訴え続ける。
 律法によって、訴え続ける。

 モーセが書いたことは御神にとって正しいことだ。
 だからモーセを信じる。
 だが、そのモーセは私たちの肉を訴え続ける。
 どこまでいっても肉は肉なので、律法の要求を全うできない。

 そうしてモーセは、肉をゆきづまりにまで追い込む。
 そうなったら、罪なき肉を十字架につけて復活されたお方が救ってくださる。
 これがイエスの道であり、苦しみなしの救いはない。

 律法を守り行おうとすることそれ自体は、だからとても大切だ。
 ただ、救いは恵みによる。
 「あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」、イエスのいのちのことばは、律法の先にある。

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みことばをとどめる

 「また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。
 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネ5:38-39)

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 聖書には、イエスが救い主であること、すなわち「いのち」のことが記されている。
 だが、いくらこれを読んでみても、それだけではイエスのことも「いのち」のことも見えてこない。
 恵みによってみことばが与えられ、それが私たちの内にとどまると、イエスがキリストであるとはっきり分かってキリストと御父を信じざるを得なくなる。
 そうなると目から鱗が取れて、聖書のどこにでも「いのち」があふれていることに喜びを見出すことができるようになる。

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証言

 「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについて証言する方がほかにあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。
 あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。
 といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。
 彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。
 しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。
 また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。」(ヨハネ5:31-37)

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 イエスがキリストであると納得させる証言について。
 なぜそのようなことを取り上げるのかというと、「あなたがたが救われるため」、ただこの一点においてのみである。

 「わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります」。
 ひとつは、わざ。
 このヨハネ5章冒頭では、病人を癒している。
 次の6章では、五千人の給食。
 こういった数々のわざは、普通の人にはけっしてできず、神でなくてはできない事柄だろう。
 ところが彼らときたら、こうした数々のわざを間近にしても、なおイエスをそうと認めようとしない。
 それに、イエスのわざと言えば、なんといっても十字架と復活である。
 十字架と復活こそ証言なのである。

 もう一つの証言、「わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます」。
 この証言は、今現在も引き続き響き渡っている。
 聖書という書物の存在がそれで、神はもっぱら、この聖書を通して語りかけ、証言する。
 私は新改訳第二版を用いているが、第三版でも新共同訳でも口語訳でも、ことこの点にかけては全く変わることはないはずだ。
 何故かというと、神の語りかけというのは、古代言語の訳出や日本語としての表現という些末なことがらなどはるかに突き抜けて、時が来るとその人の中にいやおうなく入ってくる性質のものだからである。
 そのとき、イエスがキリストであるという、これ以上疑いようのない証拠が与えられて、信ぜざるを得なくなる。
 そしてその時、十字架と復活の証言が分かって救われる。
 誰が救い主が、明白に分かったのである。

 その意味では、聖書というのは「信じる」のではなく、「信じざるを得なくなる」類のものだろう。

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[付記]
 本日の記事は、2008年1月26日付の記事を加筆修正したものです。

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聞く者は生きる

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」(ヨハネ5:24-25)

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 イエスのおことば。「死からいのちに」移る。
 ここに言う死とは、死体のことではなく、生身でありながら罪のために死んでいる人と解する方が自然。
(聖書は生身の人間を救うためのメッセージなので。)

 アダムの肉は、その肉ゆえに律法を遵守できない罪人であり、その罪のために死んだ状態にある。
 しかしイエスの言葉によって御父を受け入れるとき、十字架のイエスはその人の罪を赦して「いのち」を与える。
 罪赦されたので「さばきに会うことがな」く、その人は神によって生かされる。
 律法によって死んでいた者が、復活のイエスによって死からいのちへと移る。

 そのためには、「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる」というプロセスが必要になる。
 イエスだけが御父への門である(「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」ヨハネ14:6)。
 だから、イエスからイエスの言葉を聞く以外の方法では御父を受け入れることはできない。
 このブログもまた、読んで直接どうなるということはなく、イエスから聞く(それも直接)以外には、「いのち」への道はないのである。

 「死人が神の子の声を聞く」。
 聖書を通して、復活のイエスが私たちに「ことば」を与えてくださるのである。
 それは恵みによる。行ないではない。
 その恵みを待ち望むならば、その人はイエスの約束通り救われる。
 「求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」(ヨハネ16:24)。

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