羊飼いイエスの声

 「イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。
 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:25-28)

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 イエスの羊はイエスの声を聞き分ける。
 ほかの羊たちは、ほかの人の声を聞き分けるだろう。
 イエスを知るイエスの羊は、イエスの後を付いてあの狭い道に入ってゆく。
 この狭い道は入り口が見あたらず、入ろうと思って入れるものではない。
 ところが、イエスは羊たちを、いつの間にかにこの狭い道へと導いてゆく。
 道のりは険しく苦しいが、イエスは自分の羊たちを先導し続ける。
 一方で、ほかの羊たちは広い道をにぎやかに歩いている。道の両脇には見せ物小屋や土産屋などが立ち並んでいる。

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[一版]2019年 1月13日
[二版]2021年 1月 9日
[三版]2023年 2月26日

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私たちを奪う者

 「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」(ヨハネ10:28-29)

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 十字架と復活の御子イエス、その御子を介して御父と和解した私たちは、この囲いの中にいて、ほかのだれかからも奪い去られることがない。
 このことを異なる角度から見ると、奪う者が存在するということである。
 この奪う者とは、どのような者であろうか。マタイ伝で荒野のイエスを誘惑した悪魔のような存在だろうか。
 しかしそれではわかりやすくて多くの人は見抜いてしまうだろう。そうなると、私たちは、それとは気づかぬうちに奪う者に与しているのかもしれない。
 「日本ほど暮らしやすいが生きづらい国はない」、このような一文をネットで読んだ。これは日本に限ったことではないとは思うが、物は十分に手に入るのにどうしたわけか生きづらいという葛藤がわかりやすく表現されていてありがたかった。奪う者の囲いとは、たとえばこうした物質主義がそうだろう。
 生まれたときから疑うことのなかったこれら奪う者の存在に、イエスは聖書を通して気づかせてくれる。そして、断絶してしまった御父の囲いへの道筋を、イエスは十字架と復活によって切り拓いた。私たちも、気づくとこの狭き道を歩むことになる。

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イエスの羊

 「イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。
 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:25-27)

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 信仰とは、信じるものではなく信じさせられるものである。
 イエスの羊に属している者が、否応なしに信じさせられる。
 「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます」とイエスが言うのは、それ以外の羊はイエスの声を聞き分けることができず、どの声も同じに聞こえることを指す。もっと言うと、どれがイエスの声なのかを峻別できない。
 しかし、イエスは目の見えない者を見えるようにする神である。私もかつてはイエスの声を聞き取れない者であったが、イエスのわざによってイエスの声を聞き分けることができるようになった。
 イエスの羊に属している人がどのくらいの多さなのかは御父しか知らないことだが、救いはどこまでも他力であり、私たちができることといえば祈り願い待ち続けることに尽きる。

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いのち捨てる権威、いのちをもう一度得る権威

 「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(ヨハネ10:17-18)

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 十字架と復活、その予告。
 ただ、イエスの話しているこのことを理解できる人はいなかった。

 イエスは十字架を、御父の命令であると説明する。
 具体的には、罪人の救いという命令である。
 罪人を救うために、律法に照らして何の罪もないイエスが極刑を受ける。
 そして、「自分のいのちを再び得」ることで、身代わりに背負った罪を処分する。

 これは救いの型であり、イエスがはじめて切り開いた狭き道である。
 恵みによってこのイエスの道に入り込んだ罪人は、苦しみの果てに死んだのち、イエスと同じくいのちを得る。
 このときはじめて上のイエスの言葉を了解できる。
 自分の経験してきたものそのものだからである。

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[一版]2011年 2月12日
[二版]2019年 1月 6日
[三版]2020年11月23日
[四版]2023年 2月19日

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間違いのある神

 「イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。」(ヨハネ10:6)

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 イエスのしたたとえ話は、どうも理解されなかった。そこでイエスは話を仕切り直す。
 受肉した神イエスは、間違うこともあるのである。
 間違うこともある神、というよりもそれは肉を持つ者の不完全さのあらわれなのだろう。
 まして、アダムの肉の子孫である私たちが間違いひとつないということがあるだろうか。

 私にしても、今までどれだけの間違いをし続けてきたことだろう。どれだけ多くの人を傷つけ、悲しませたことだろう。
 それにもかかわらず、周りからどれだけ許され続けてきたことだろう。
 だが私には、どうしても許すことのできない人が1人いる。
 こんな私の大きな間違い、どうにもならなさも、イエスは理解してくださる。肉の不完全さを身をもって体験した神なのだ。
 そして完全な存在である復活のイエスは、ただ恵みによって私を救ってくださった。
 上に書いてきたことからして、私が救いに預かるような者とは到底言えないにもかかわらずである。

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[一版]2017年 5月 7日
[二版]2019年 1月 5日
[三版]2020年11月22日
[四版]2023年 2月12日(本日)

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いのちを捨てた牧者がわたしたちにいのちを得させた

 「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:9-11)

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 多分羊飼いという職種は、局面によっては羊のためにいのちを落とすこともあると思う。
 しかし、イエスという羊飼いは、私たちのためにすすんでいのちを捨てたのである。
 単に私たちを守るためではなく、「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つため」に、イエスはすすんでいのちを捨てた。
 イエスという門をくぐった人は、与えられたいのちの素晴らしさを実感する。

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