信仰義認

 「それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。
 人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ3:26-28)

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 いわゆる「信仰義認」。

 「信仰」とは、「行ない」にとって代えられた原理である。
 つまり、神から義とされるのは、律法の遵守によってではなく、「イエスを信じる者を義とお認めになる」ことによる。
 「行ない」は他人よりもよりよく遵守している、という比較の世界になってしまい、それが「誇り」を生む。
 ところが、「信仰」は、あるかないかのどちらかしかない。
 そしてそれは、自分の努力によってなどではなく、恵みによって与えられたものなので、誇ろうにも誇りようがない。

 このように、恵みにより与えられて誇りようのない「信仰」が、その人を罪深い肉から解放して「いのち」を与えるのである。

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公にされているイエスの十字架

 「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:25-26)

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 十字架のイエスは、神をなだめる供え物として、神ご自身が公にされた。
 神は、御自ら公にされた御子イエスの十字架をもって、そのイエスの肉を処分することを通して神の義を現された。
 救いについての契約を新たに立てたことに、神の義がある。
 このイエスの十字架を信じることができれば、私たちは義と認められる。
 この、信じることのできる恵みこそ、新しい契約である。

 繰り言になるが、十字架のイエスは既に公にされ続けている。
 そしてこの十字架のイエスは、その人の救いのためには、供え物としていつでも神にその肉を捧げようとしておられる。
 そのイエスへの信仰によって、私たちは義からは程遠い存在であるにもかかわらず、義と認められて救われるのである。
 それが神の側から示された、新しい救いの道である。

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[おことわり]
 本日の記事は、2008年9月16日付の記事に加筆を施したものです。

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値なしの義

 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

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 すべての人が罪を犯している。罪の下にいる。
 人間はアダムの肉をもっている。
 それゆえ、神の御目に正しい(義しい)とは映らず、神の御前にはすべての人が罪深い( sin )。
 何をやったから罪だ( guilty )というよりも、そもそも罪深い(sin)存在としか神には認めていただけない。
 「義人はいない」のである。
 それゆえ、この絶対的な存在である神から、栄誉も栄光も受けるには私たちははるか程遠い。

 だがここに、この悲惨な状況に置かれた人間を救う救いの手が、しかも神の方から差し伸べられた。
 それが、「キリスト・イエスによる贖い」である。
 イエスは、御自身もお持ちだった肉を十字架につけて処罰して死に、三日目に神によって復活する。
 それは、このイエスを信じる私たちのアダムの肉が神によって赦されるための、救いの御技だ。
 私たちは、この十字架のイエスを信じることによって、神の御前に義とされて、罪赦される。

 では、「信じる」とはなんだろうか。
 それは、「神の恵みにより」はじめて得られる営みだ。
 その神の恵みには、対価は全く要求されない。
 「価なし」である。
 いけにえもおこないも要求されない。
 値なしにもかかわらず神はその人を恵んでくださり、十字架のイエスを信じる信仰に進ませてくださる。
 人はその信仰によってのみ、義と認められて神と和解できる。

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[付記]
 ほんじつの記事は、2008年9月15日付記事を書き直したものです。

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御霊による心の割礼

 「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ2:28-29)

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 断っておくと、ユダヤ人とか割礼というものは2000年前固有の問題であり、今に至る普遍的なものではない。
 それでも上の聖書箇所を取り上げるのは、「文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼」だからだ。

 信仰とは、身に割礼を施そうとか、文字(律法)を守ろうと、自分で信じ行う類のものではない。
 「御霊による、心の割礼」、すなわち、神から与えられて、有無をも言わさず信じさせられるのが信仰だ。
 大切なのは、この心の割礼である。
 だが、この心の割礼は、文字には依らず、御霊による。
 すなわち、人間の行いや努力によって得られるものではなく、神の主権によっていただくものであり、これを恵みという。

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神のさばきと信仰

 「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。」(ローマ2:16)

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 福音が、なぜさばきの行われる日を言及するのだろうか。
 それは、神のさばきなしには、神を畏れさせることはできず、したがって人々は好き勝手に振るまうので、虐げられる人々が救われないからだ。
 だから、神のさばきは、神を待ち望む者にとっては福音なのである。

 では、神は何を基準にさばかれるのであろうか。
 ロマ書2章だけを見ると、古い約束である律法のように見えるが、3章まで含めて読むと信仰の有無が基準であることが明らかである。
 旧い約束はイエスと共に十字架に屠られ、よみがえったイエスを信じる信仰が新しい約束の基準となった。
 いわゆる信仰義認なのであるが、ここで問われることは、では信仰とは何か、ということである。
 信仰とは、信じることではない。
 神によって信じさせられることである。復活のイエスが出会って下さることである。

 「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」(ガラテヤ6:17新共同訳)

 焼き印は自分自身で押すものではない。承認のしるしとして押されるものだ。

 神がさばく(さばかない)という基準は、信仰による。
 そして信仰とは、恵まれて与えられたものなのだ。

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[おわび]
 前回の記事で、聖書箇所が抜け落ちてしまいました。
 ローマ2:4-5でした。

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神の慈愛があなたを悔い改めに導く

 「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」。
 また、「あなたは、かたくなさと悔い改めのない心」の持ち主である。

 一見意味を取りづらいが、主語が違うというだけのことで、「神は」あなたがどうであっても、そのあなたを半ば強制的に悔い改めへと導いて回心させて下さる。
 一方、「あなた」が自身のわざでどうあがいても、かたくななことには変わりなく、その「あなた」が自力で悔い改めることは不可能なことだ。

 その「悔い改めのない心」の持ち主であるあなたが、神の慈愛によって悔い改めに導かれるというのが、正に恵みなのである。

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神の怒り

 「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1:18-20)

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 「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正」については、その結果どうなったかということが、26節以降に書かれている。
 長いので省略するが、聖書の目的を考えると省略すべきではない。
 つまり、そこに書かれている長い責め文句を、少しでも読み手に反応させたくて書かれている。
 ちっとも反応しない人には、反応しなかった報いがある。

 さて、アダムの肉を持つ人間は、アダムの肉ゆえ、神の規範である律法を全うすることができない(ローマ3:20)。
 それゆえ、全ての人間が神の怒りの下に置かれている。
 その怒りは「御怒りの日」(ローマ2:5、参/マタイ24:2-36)に結実し、その日まで神は怒りを忍耐しておられるにすぎない。
 上に書いた「反応しなかった報い」とは、この日のことだ。
 そのように神が怒りを忍耐されている間も、「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、(以下略)」(ローマ1:29)であり続けたし、ますますそうするようになった。
 すべての人が神を知った上でそうするので、すべての人が神の怒りの下にある。
 言い換えると罪の下にある。

 しかし、「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」(ローマ2:4)とあるように、寛容な神は、この罪人を救おうと御子イエスをこの世にお送り下さった。
 この御子イエスの十字架と復活を信じる者は神との間の平和を回復し、義ではないにもかかわらず義であるとみなされる。

 神の忍耐がいつまでなのか、千年後なのか2時間後なのか、これが誰にも分からない(参/マタイ24:36)。
 その、いつまでなのか分からないうちに、恵まれてイエスを信じることができれば、それ以上幸いなことはない。

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福音について

 「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。」(ローマ1:16-17)

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 福音とはなんだろうか。
 それが、イエス・キリストに関することであることは間違いない。
 私は福音を、このイエス、人間の肉はあっても律法に照らして何一つ欠けたことのないイエスが、それにもかかわらず極刑に処せられ、にも拘わらずそのわざが承認されて三日目に復活した、この流れが福音であると思っている。
 私たちの肉は罪深いのだが、罪のない肉を処罰したイエスの十字架を信じるとき、罪に死んでいのちに復活する。

 「福音のうちには神の義が啓示されて」、とある。
 福音とは単なる物語などではなく、それを通して「神の義が啓示され」るものである。
 その神の義、神の正しさとは、私たちのような罪深い者を、本来は神の御前に不義である私たちを、恵みによって御子イエスを信じるが故にお赦し下さり義と認めてくださることに顕れた。

 まず、神の義が啓示される。
 すると、福音書での物語の主人公に過ぎなかったイエスとの出会いがある。
 そして、このイエスと出会った以上、私たちは信じざるを得ず、そして信じ続ける。「義人は信仰によって生きる」のは、結果論にすぎない。
 このように、神の義が「信仰に始まり信仰に進ませる」以上、主権は神にあり、私たちは常に受け手に過ぎない。
 それが恵みである。
 人間の側に主権がある「わざ」とは全く異なる点だ。
 福音とは、「わざ」による義認から恵みによる義認になったという契約の変更も含まれている。
 その変更は、イエスの十字架での身代わりのわざによってである。

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割礼

 「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」
 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。
 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」(ガラテヤ2:19-3:2)

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 割礼という儀式は、アブラハム99歳のときの神からの仰せ(創17:10)が始まりである。
 割礼によって、その人は神と契約関係に入る。
 ところが、その大切な割礼は、パウロに言わせると、それを受けるとキリストとは無関係になる、そういうものなのだという。

 旧約時代、人々はみな割礼を受けた。
 だが、割礼を受けた人の中で誰か救われただろうか。
 神に油注がれたごく少数の例外を除いて、救われることはなかった。
 救われなかった典型が、伝道者の書(コヘレトの書)を書かざるを得なかったソロモン王だ。
 そして、預言によって示されて誰もがキリスト(メシア)を待ち望むようになった。

 罪深い私たちの肉と同じ肉をまとった御子イエスが世に来られ、その肉を処断するために十字架に架かられた。
 その処断、罪のあがないが認められて、イエスは復活する。
 この復活のイエスをキリストと信じるとき、その人は、イエスのこの道程と全く同じ道程を歩むことによって罪が贖われ、救われる。
 「神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました」というのは、だからもっともなことだ。
(「つけられました」は、現在完了形。)
 救いについての新たな道程である十字架にイエスがつけられたことを信じる私たちは、律法に死んでいるのである。

 そうすると、律法に死んでいる私たちにとって、かつて神との契約として行っていた割礼という儀式は、イエスの十字架ゆえに免除される。
 そもそも罪は、神の律法によって規定される。
 だが、もともとその律法を守りきれない私たちのその罪がイエスの十字架と復活によって赦されたのであるから、割礼についてももちろん同様である。

 踏み込んで書くと、新約時代の割礼とは、「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示され」るということなのだ。
 それで、「ああ愚かなガラテヤ人」となってしまう。
 彼らは、復活のイエスに出会っているはずだ。
 にもかかわらず割礼を受けようとする。
 本当に復活のイエスと出会っていれば、迷わないと思うのだが。

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[お断り]
 ほんじつの記事は、2008年1月16日の記事に大幅に加筆したものです。

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因果律と恵み

 「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
 近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」(ヨハネ9:1-8)

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 シロアムの池で生来の盲目をイエスによって癒された男。
 彼を便宜上、「シロアム男」と呼ぼう。
 シロアム男は、何故癒されたのだろうか。
 そもそも、何故イエスの目に掛かったのだろうか。

 シロアム男が熱心な信心を持っていたとは思えない。
 いくつかの律法を知りキリストの到来を待っている、そんな当時のこの地でのごく普通の人々と同様だったろう。
 彼は祈りもせず、生活のために物乞いをしている。

 「○○したから癒された」というのは、シロアム男には全くない。
 強いて言えば、無礼な弟子たちが指さして、「こいつの目が見えないのは罪のためか」と、これまた無礼なことをイエスに尋ねたこと、これによって、イエスが神のわざをシロアム男に顕された。
 やはり、シロアム男自らの力や意志によってイエスに振り向いていただき癒された訳ではなく、どこまでも、「自分で○○したから癒された」というのはない。
(こういう人々はヨハネ福音書に際だって多い。)

 「神のわざ」とは、このようなものだ。
 罪のために死んでいる人間に「いのち」を与える救いも、全く同様である。
(ちなみに、救いこそ唯一のみわざで、癒しはしるしにすぎない。)
 「自分で○○したから救われた」という因果ではない。
 イエスが一方的に来てくださって、救ってくださる。
 因果律から完全に外れた世界だ。
 神のみわざは、ただ恵みによる。

 シロアム男に戻ると、目を癒された彼はもはや物乞いをしない。
 目が見えようが物乞いをする人はたくさんいるだろう。
 だが彼は、もはや物乞いをしない。
 「神のわざ」が働くと、このように「いのち」に満たされるようになる。

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[おことわり]
 ほんじつの記事は、2008年1月1日付の記事に筆を加えたものです。

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