白く塗った墓

 「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、
 あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」(マタイ23:27-28)

---

 私の内側は、偽善と不法でいっぱいだ。
 それは、昔も今も変わらない。
 殺人に姦淫に、数え上げたらきりがない。
 何に照らしてそのように判断するのかというと、律法に照らして、特にイエスの律法に照らしてである。
 山上の説教でイエスが示した律法解釈の前に、偽善者でない者、不法のない者など、ただの一人もいなくなってしまう。
 偽善と不法でいっぱいであることが胸にすとんと落ちたときの衝撃は、いまだに言葉に表すことができない。
 しかし、この「すとん」によって初めて自らの罪深さというスタートラインに立つのである。

 イエスはこれから十字架に架かって、自らの肉を処断する。
 その処断は御父によって認められ、死んだイエスは復活する。
 このイエスの肉の処断を恵みによって信じることができれば、その人は罪赦されて「いのち」を賜る。
 罪がなくなるのではない。赦されるのである。
 であるから、汚らしい内側を隠そうと外側を白く塗ったくって装っても何の解決にもならない。
 汚らしい内側そのものが、十字架と復活の主イエスへの信仰によって救済されるのである。
 私の内側は、偽善と不法でいっぱいだ。それは、昔も今も変わらない。

---

[一版]2010年 8月15日
[二版]2013年12月27日
[三版]2016年 9月24日
[四版]2018年 6月30日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

天の御国をさえぎる者

 「しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。」(マタイ23:13)

---

 パリサイ人批判のマタイ23章より。
 律法学者、パリサイ人とは、当時の宗教的指導者層。

---

[一版]2010年 8月 9日
[二版]2018年 6月24日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

自分を高くする者は低くされ

 「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」(マタイ23:12)

---

 若い頃、何一つできないくせにプライドだけは三人前だった。
 周り中からさまざまな形で叩かれた。
 しかし、こんな自分をくじいたのは、実は御父だったのだ。
 くじかれた自分は、イエスを介した和解を経て、こんどは御父が支えてくださるようになった。

---

 健やかな一日をお祈りします!
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

聖書の力

 「その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問して、
 言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない。』と言いました。……
 すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」
 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」(マタイ22:23-24,28-29)

---

 支配者階層サドカイ人がイエスに議論をふっかける。
(ちなみにサドカイ人が引用した律法は申25:5。)

 聖書というのは、力である。御言葉の力だ。
 「初めに、ことばがあった。」(ヨハネ1:1)というところの「ことば」なのである。
 その力とは、死者をも生き返らせる、それほどのものだ。
 このような力を持つものを、私はほかに知らない。

 だから、聖書の言葉を観念的にもてあそぶだけで、のみならず他人に議論をふっかけるサドカイ人を、むしろ同情する。
 かわいそうなやつだなあ、と。
 イエスが言うように、とんだ思い違いをしている。
 支配者階級にまでなって、聖書のなんたるかが全く分からない。もっとも、だからこそ支配者階級になれたのだろう。

 恵みによって聖書のことばが否応なく飛び込んでくると、この聖書の力がその人のうちに発揮される。
 上でけなして書いた支配者階級の連中にも、チャンスはある。
 それも膨大にある。

---

[一版]2010年 8月 1日
[二版]2016年 9月 4日
[三版]2018年 6月20日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

招待される者、選ばれる者

 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。
 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。
……
 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。
 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』
 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。
 ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。
 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22:2-3,7-14)

---

 王子結婚の披露宴のたとえ。

 招待していた人々、すなわちモーセの座を占めていた人々は、ふさわしい人々ではなかった。
 そこで王様は、通りに出て誰彼構わず招き、宴会場はいっぱいになった。
 このように、非常に多くの者が招待される。
 誰でも招かれ、宴会場に入ることが出来る。
 モーセの座の人々にしても、もとから招待はされていた。

 ところがその宴会場の中に、礼服を着ていない者がいた。
 王子結婚の披露宴なのであるから、彼の非礼は明らかである。王様の怒りは当然だ。
 しかも彼は、礼服を着ない理由について、言い繕うことすらしない。
 このような彼は、招待されはしてもそこにふさわしい者ではないことが明らかなので、放り出されてしまった。

 このたとえ話の中で、礼服非着用の彼が選びから真っ先に除外された理由は、比較的理解しやすい。
 では、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」とあるのは、何によって選ばれるのであろうか。
 それは、ただ恵みによってである。
 そしてもう一つ、その恵みを祈り待ち続けることが必要だろうと思う。
 礼服非着用というようなぞんざいな姿勢では、やはり恵まれないのだろう。

---

[一版]2010年 7月30日
[二版]2013年12月22日
[三版]2016年 8月28日
[四版]2018年 6月17日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「家を建てる者たち」と「見捨てた石」

 「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』
 だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」(マタイ21:42-43)

---

 「家を建てる者たち」と「見捨てた石」との関連について。

 この当時は、パリサイ人やサドカイ人が「家を建てる者たち」、すなわち祭事を一手に仕切っていた。
 自分たちが神の御心に沿っていると思いこみ、たとえば安息日警察なども買って出る(それこそ何の権限があるのだろうか)。
 そのような彼らから罪人呼ばわりされた取税人や遊女、彼らが「見捨てられた石」だ。
 家を建てる者からすら見捨てられる立場の方が、自身の内面を見つめて罪を見いだし、その罪を悔いる機会が多いことは明らかである。少なくとも、安息日警察のように他人をあげつらってばかりいるよりは、ずっと悔い改めの機会は多い。
 そして神の国は、悔い改めない人よりも悔い改める人のものであり、取税人たちはその神の国の礎の石なのである。

 これは2000年前のことなのだろうか。
 そうではない。
 「家を建てる者たち」あれば「見捨てられた石」あり、そしてその「見捨てられた石」こそが神の国の実を結びうるのは、今に至るまで変わらない。
 神の国の実を結ぶために大切なことは、悔い改めに至ることだからである。

---

[一版]2013年12月21日
[二版]2018年 6月16日(本日)

・今回この記事を改版するに当たって、2011年に起きた大津中2いじめ自殺について調べました。
 現在も民事訴訟が続いているのですが、加害者の一人は2017年12月に行われた口頭弁論で「リアクションやエンターテインメントを求めていた」と答えています。
 まったく耳を疑うほかないのですが、自分の内面を見つめることができない、それどころか見たくもない、こういう人が一定数いるのは確かなことで、彼らは人を傷つけても平気なのです。
 こういう人を避けろと言うよりかは、こういう人々のおかげで自分の内面を深めることができるという気もします。悩みのないところには、気づきもありません。

 礎の石となった被害者のご冥福をお祈りします。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

神の国と世知

 「ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。
 兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。
 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。
 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。
 というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」(マタイ21:28-32)

---

 イエスと祭司長たちとの論争より。

 イエスは彼らに告げる。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。」
 大ベテランの祭司長よりも、聖書にはずぶのしろうとの取税人の方が先に神の国に入っているというのだろうか。

 取税人や遊女達は、自分の行ないの悪さ、つまり律法を守れてなどいないことに胸を痛めていたであろうし、また、日頃周り中からも責められ続けられていただろう。
 その彼らは、真っ先にバステスマのヨハネに救いを求めたのである。
 一方で、祭司長たちはヨハネを信じなかった。
 というより、主に政治的理由からヨハネを無視しただろう。自分の地位や立場が脅かされかねないのだ。
 彼らの政治的言動は、上の聖書箇所の少し前にも見られる。

 「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません。」と言った。」(マタイ21:25-27)

 この祭司長は、神や神への信仰のことなど、頭の片隅にもない。
 さらに言えば、彼にとって神とか神への信仰とは、出世栄達の手段でしかないのかもしれない。
 自分が律法に到底かなわない存在であるとは、想像すらできない。ここが、取税人達との最も大きな違いである。

 救われるためには、自分が神の律法を何一つ守れていないということに気付く必要があり、それが救いの第一歩である。
 なぜなら、この気づきなしには、救いの必要そのものがわからないからである。
 「私は罪人です」と言う人は数多いが、頭だけの理解など何の役にも立たない。
 神の律法に照らして自分が罪人であることがすとんと胸に落ちたときに、その罪による苦しみが芽生えてくる。取税人や遊女達はそうだった。ここが第一歩なのである。

 大ベテランの祭司長は、今もってして罪が分からず、それどころかよけいな世知ばかり身に付いてしまった。「わかりません」という満点の回答を言ってのける信心というのは、実は気の毒な人なのかもしれない。

---

[一版]2016年 8月21日
[二版]2018年 6月10日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

動かしたいものは何か

 「翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
 弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」
 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。
 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(マタイ21:18-22)

---

 いちじくの木を呪うとたちまちにして枯れてしまうとは。
 そしてこのイエスは、「もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。」と言う。

 しかし私たちは、信仰に至る際に、自分の中の大きなものがごろりと動いたことを知っている。
 それは、たちまち木が枯れるよりも、山が海にはいるよりも難しかったことだ。
 イエスの十字架に死んでイエスの復活に預かるということは、これだけの大きな動きが伴う。
 私たちは罪赦され、救いに預かったのだ。

 そうすると、私たちは何を祈り求めればいいだろうか。
 山が海にはいることだろうか、木がたちまち枯れることだろうか。
 だが、そのようなことができたら何になるのだろう。
 それよりも、一番大切なこと、大切な唯一のことを祈り求めるのである。
 イエスも何でも与えると約束している。

---

 健やかな一日をお祈りします!

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

イエスの宮清め

 「それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21:12-13)

---

 イエスの宮清め。

 御父にお参りをする宮という聖なる場所には、捧げ物の商人たちであふれていた。
 彼らは御父にお参りをするのではない。お参りの便宜のための商売をしている。
 イエスは彼らを追い払う。それも「強盗の巣」という強い表現で彼らを非難する。

 私たちの内側にも宮はある。
 しかしその宮は、およそ宮としての体をなしていなかったり、あるいは、もう、宮の存在に気付きもすらしないかもしれない。
 イエスの宮清めは、そのような私たちの宮を清めてくれる。私たちの宮を宮として立て直す。
 ここでいう宮とは、聖霊の住み処のことである。
 だから、上の聖書箇所でのイエスの宮清めとは、恵みによって私たちに起こることをあらかじめ示したものなのである。

---

 健やかな一日をお祈りします!

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )