新しい歩み

 「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」(ローマ6:4-5)

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 「キリストの死にあずかるバプテスマ」。
 これを受けると、キリスト同様極刑の死に葬られ、そしてよみがえる。
 それは、よみがえって新しい歩みを踏み出すためである。
 この新しい歩みをするためには、どうしても十字架刑に定めるための律法が必要になってくる。
 律法が肉を罪と断罪し、その罪ゆえに死を、それも極刑の死を免れない。
 その十字架の死こそ、復活にどうしても欠かせないものなのだ。
 キリストと全く同じところを通るためである。

 新しい歩みとは、頂いたいのちを動力源として歩む、ということである。
 罪深い肉というかつての動力源から、切り替わったのだ。

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ひとりの人の不従順、ひとりの人の従順

 「こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。
 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」(ローマ5:18-19)

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 引き続き、アダムの違反とキリストとの関連について。

 ひとりの人アダムはもともと、神と共に生きていた。
 善悪を知らない無垢さであったから、裸を恥ずかしいとも思わない(創2:24)。
 ところがそのアダムは、善悪の知識の実、神から禁じられていたその実を食してしまう。
 これがひとりの人アダムの違反であり不従順である。
 食した彼らは裸を恥ずかしがる(創3:7)。
 つまり、善悪を知ってしまったことで罪性に気付かざるを得なくなってしまった。
 そして全ての人間に罪とその既決である死が入り込んでしまう。
 モーセに神が律法を授ける前からそうであったから、律法を授けられてからはなおのこと、律法がいやがうえにも人間の罪性を意識させるように働いた。

 しかし、神は御子イエスを、ひとりの人としてこの世にお遣わしになられた。
 この人は神の子であるにもかかわらず、極刑である十字架に架かるために来られた。
 すべての人が受けるべき極刑の身代わりとなって、多くの人にいのちを与えるためである。
 そのことが、ひとりの人イエスの神への従順であった。

 この十字架という義は、よみがえりという形ではっきりする。
 その十字架とよみがえりを恵みによって信じることがかなうならば、その人は義と認められていのちを得る。
 私たちは義と認められたにせよ罪深い身であることに変わりはないから、神と共にいたアダムのようになることは今はできない。
 だが、その私たちはキリスト同様よみがえり、第二のエルサレムでアダムの楽園を回復するのである(黙21:3-4)。
 このことは、ひとりの人の従順への信仰がもたらすことである。

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ひとりの人イエス・キリスト

 「また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。
 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」(ローマ5:16-17)

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 ひとりの人、アダム。
 彼は神の警告(創2:17)に反して善悪の知識の実を食してしまった。
 その違反が罪とされ、アダムに死が入り(創3:19)、そして彼の子孫であるすべての人が死の支配下に入ってしまった。

 だが、ひとりの人イエス・キリストという恵みが、死の支配下から解放し、永遠のいのちの支配の下へ置いてくださる。
(イエスは私たちと同じく肉を持つひとりの人だったのであり、そのひとりの人が十字架に架かるのである。)

 たったひとつの違反によって罪と定められてしまった頃は、もう終わった。
 私たちには、実に多くの違反がある。自力ではリカバーのしようもない。
 だが、ひとりの人イエスの十字架を信じる神の恵みが、その信じる人を義と認めてくださる(義認)。

 この義認によって違反が消えるのわけではなく、それらの違反が存在することにかわりはない。
 だが違反がそのままであっても、信仰によって神はその人を義と認めらて下さるのである。
 これが新しい契約であり、永遠のいのちの支配という約束である。

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罪と死

 「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)

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 ここでいう「ひとりの人」は、アダムのこと。
 最初の人アダムは、罪を犯してしまう。
 その罪によって、神は人は死ぬものとしてしまう。

 「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創3:19)

 アダムの罪の肉とその結果である死は、このアダムの子孫である全人類に広がった。
 だから人は、その肉の存在そのものが罪深い。
 私たちは、律法に照らしてその罪深さを知ることはできる。
 だが律法は、その罪深さを救うものではない。秩序体系なのだ。

 この罪深さから人を救うのが、キリストの十字架と復活への信仰である。

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身代わりの愛

 「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:8-10)

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 アダムの肉を持つ罪深い人間は、それゆえ神の怒りの下にある。
 しかし、そのさなかに神の愛の手が差し伸べられた。
 私たちの肉の身代わりとして極刑の処罰を受けたキリストの十字架である。
 この十字架を信じることのできた者は、自身の罪深い肉が処理されて義と認められる。
 キリスト同様に、復活するのである。
 神の愛とは、このことを指す。

 義なるお方はただお一人、神だけである。
 人はみな不義であり、罪深いことにかわりはない。
 ただ、それにもかかわらず義と認められるか認められないかが、決定的に異なるのである。
 義と認められて神と和解するとき、神の怒りから救われ、イエスの永遠のいのちに預かる。

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患難と栄光

 「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ローマ5:2-4)

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 なぜ私たちは、患難さえも喜び、忍耐を重ねるのだろう。

 私たちは十字架のイエスを信じることによって、「恵み」とパウロが言うところの場に導き入れられた。
 その私たちは、「神の栄光を望んで大いに喜んで」いる。
 この神の栄光への望みこそ、信じる者にとっての唯一の望みなのである。
 その望みというのは、確信と言い換えてもいい。
 また、「神の栄光」とは、要するにその日のことだ。
 その日については、イエスが異なる言い方で繰り返し言及している。

 信仰によってその栄光を確信しているとき、患難さえも喜び、忍耐を重ねて練達してゆく。
 そしてその先に、はっきりとした希望を見いだす。
 その日は近い、そんな希望だ。
 患難がその証拠なので、その患難が喜ばしい。

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神との平和

 「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5:1)

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 人は本来、神との関係性の中にのみ存在していた。
 だが、アダムの違反によって、その関係は破綻してしまう。
 神はそのアダムを、園から追い出してしまうのだ。

 ところで、この神-人という関係性の中で、神が絶対的に上位であり、人は絶対的に下位だ。
 その絶対的上位にある神がアダムの違反によってお怒りであるならば、人はがたがた脅え続けるしかない。
 だが、和解が神の方から差しのばされた。
 神の子イエスが罪深い人の身代わりに十字架に架かって下さったこと、それが和解を勧める神の手である。
 この和解を信じることができるならば、神と人との関係には平和が宿り、そこに怒りは存在しない。
 キリストとの出会いによってもたらされた信仰は、その人をこの園へと導く。

 こうして、信じる者にとって世界とは神との絶対的二者関係に収束されてしまう。
 なぜなら、神はこの世界そのものだからだ。
 もちろんその人は、神にひざまずく立場であり続ける。
 平和を得たからである。

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[付記]
 本日の記事は、今年2008年4月6日付の記事を大幅に修正したものです。

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信じる、ということ

 「しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。
 すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:23-25)

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 「彼の義とみなされた。」の「彼」とは、いわゆる信仰の父アブラハム。

 御子イエスがなぜ人となられてこの世に来られたのか。
 それはただ、その肉を十字架という極刑で処分してしまうためである。
 およそ全ての人間の罪深いアダムの肉は、身代わりにイエスが自ら処分なされた。
 そしてその処分は、神がこのイエスに復活の栄光をお与えになることによって、承認が下された。

 アブラハムが信じたものは、100歳の自分と90歳の妻サラとの間に子供ができるという約束であった。
 一方、私たちが信じることは、私たちを救うがためにイエスは死んだがよみがえったということである。
 どちらの方が、たやすく信じることができるだろうか。
 信じるということは、神の恵みがあってこそなのである。
 信じる、というよりは、信じさせられる。
 そしてそのように信じることができた者は、義と認められる。
 すなわち、罪をおおわれて神と和解するという救いを得る。

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不敬虔な者を義と認めてくださる方

 「働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(ローマ4:4-5)

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 人間は誰一人、神の義という事柄についてなんの働きもしていない存在である。
 どの人も神の目には不義に映る、そんな不敬虔な存在にすぎない。

 そのような「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じる」ならば、それはただ神の恵みによってである。
 私たちの救いというのは、「不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じる」ということに要約される。
 信じるためには、自分が不敬虔であること、罪人であることがわかっていることが大前提としてある。
 そんな罪人がキリストの故に神に認められると信じることができるのならば、そのことによって「義とみなされる」。

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律法と信仰

 「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3:31)

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 律法、それは神の完全な秩序のことである。
 「あなたの父と母を敬え」。
 「殺してはならない」。
 これらの文字は、その秩序を支える、いわば屋台骨だ。

 これらのものをどこまでも遵守しようと続けると、ある一点で破綻する。
 その破綻は、イエスの山上の説教あってのことだ。
 行ないは、つまずくのである。
 このつまずきのさなかに十字架のイエスが見えるとき、その人はよみがえっていのちを得る。
 このイエスを信じる信仰によって、神によって義と認められたのだ。

 この信仰の原理も、神の完全な秩序の屋台骨だ。
 そのとき律法は一点一画もすたれておらず保たれており、むしろ信仰の原理が律法をさらに補強し、それを確立するのである。

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