裏切り

 「みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。
 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。
 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(マタイ26:21-24)

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 この社会に身を置いていると、さまざまな辛いことが襲ってくる。
 わけても、裏切りほど辛いことはないのではないか。
 予め分かっていたであろうイエスですら、「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」とまで言っている。
 であれば、裏切りにあったときの私たちの辛さはどれほどのものであろうか。

 しかし、まさに「義のために迫害されている者は幸い」なのだ(マタイ5:10)。
 私たちは救われたい。不義な存在ではあっても、義と認められたい。
 このような私たちに数々の試練が襲ってくるというのは、イエスがそうであったのと同じだから、当然といえば当然だ。
 もしもこのような試練がないとしたら、それはむしろ御父から見放されているのではないか。

 イエスに話を戻すと、血に彩られた十字架の道を拓く歩みが、この弟子の裏切りによってまさに今始まったのである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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香油女

 「さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」
 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(マタイ26:6-13)

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 イエスに香油を注いだ女性の名は不明だ。
 それなのに、福音の伝わるところ、この女性のしたことも伝えられ、それが彼女にとっての記念になるとイエスは言う。

 ところでイエスは、すべての人々の無理解の中にいた。
 だが「香油女」、彼女は唯一、イエスを理解していた。
 イエスがキリストであり、多くの人々を救う十字架の道にいよいよ就くのだということを。
 それで、「埋葬の用意をしてくれた」。
 香りで死臭を消すための、まさに埋葬用の香油だ。
 あのバステスマのヨハネですら、イエスを疑ったのだ。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」(マタイ11:2-3)と。
 それだからこそ、「香油女」は唯一イエスを理解していたと、福音の伝えられるところどこでも、語り継がれるのである。

 一方弟子たちは、「この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」とやっている。
 これは義憤というやつで、単に香油の高価さに目が惹かれているだけだ。
 取税人といい遊女といいこの弟子たちといい、こういう人々が分からないながらも救いを求めてイエスに付き従っていた。
 イエスは彼らをけっして拒まない。
 分かるときが来るからだ。
 早いか遅いか、それは分からない。
 イエスは言う。「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」(マタイ20:16)。

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[一版]2007年 7月31日
[二版]2008年 8月21日
[三版]2010年 9月 5日
[四版]2014年 1月 1日
[五版]2016年10月23日
[六版]2018年 7月29日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!
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信仰と行ないについて

 「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
……
 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」(マタイ25:34-40より抜粋)

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 善をなそうと行うときには、既に偽善に陥っている。
 天に行きたいからというので善をなそうというのであれば、むしろそれは悪だろう。
 天に行きたいから病人を見舞うとき、その人の気持ちは病人に向くのか、天に向くのか。
 どちらでもない。自分自身に向いている。
 自分についてのそろばん勘定をしているだけだ。

 一方で、「正しい人たち」は、善をなしたという自覚がない。
 それはいつもの営みにすぎないのである。
 食べさせ飲ませ、ということは、そうしようと思ってやっていて、相手に気持ちが向いている。

 この両者は何が違うのだろう。
 端的に、信仰の有無である。
 信仰というのは、イエス・キリストから与えられるものである。
 だから、あるかないかのどちらかしかない。サウロ(パウロ)がわかりやすい。
 あるかないかなのだから、信仰には成長という概念がない。信仰が強い(弱い)ということもない。
 イエスとの出会いという恵み、これが信仰のすべてである。
 そろばん勘定ばかりしている人が、どうして御国に行けるだろうか。
 だが、これら偽善者であっても、律法によって罪に気づいて、その罪深さにもんどり打つ果てにイエスと出会ったならば救われて、もはや、そろばん勘定で行動することもなくなる。
 律法が養育係なのは、確かにそうなのだ。

 行動をすることが信仰なのではない。
 信仰によって行動が変わるのである。

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[一版]2016年10月16日
[二版]2018年 7月22日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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持たざる者が持てる者に

 「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」(マタイ25:29)

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 上の「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、…」には、述語がない。
 何を持つ(あるいは持たない)ことを言っているのだろうか。

 持っている者は、単に持っている以上に、好循環が起こっている。
 述語をカネと仮定してみれば、このことは分かりがいい。
 多額のカネを運用すれば、リターンもでかい。その好循環である。
 述語を今度は「いのち」とすれば、「いのち」ある者は、その喜びゆえにますます喜びが大きくなってゆく。好循環が起こるのである。
 それに対して、そうでない者は、どんどんすり減ってゆく。
 あたかもデフレ経済のようで、縮小してしまう。
 述語が何であれ、この好循環というのはあまり起こることではない。
 大体の人は、持たざる者の側だと思う。

 では、この「いのち」のじり貧状態から脱する方法はあるのだろうか。
 そのためには、私たちはまず、自分の魂がじり貧であると自覚する必要がある。
 何によって自覚できるのだろうか。神の律法によってである。
 自分の肉がいかに罪深いものであるか、この気づきがスタートラインになる。
 求める者には恵みによってイエスが出会ってくださり、罪赦されて「いのち」が与えられる。
 このとき、持たざる者が持てる者に変わるのである。一瞬にして、くるりと変わる。

 ソロモン王はこの点において、偉大なる反面教師である。
 物質的なものばかり追いかけているうちに、唯一の大切なものを完全に見失ってしまった。
 ソロモン王が伝道者の書(コヘレトの手紙)で訴えているのは、もっぱら自身の虚しさなのだから、ここに持たない者が陥った究極の悪循環を見ることができる。

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[一版]2016年10月10日
[二版]2018年 7月16日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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待ち続ける忍耐

 「ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
  しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」(マタイ25:6-13)

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 約束通り、ついに花婿が来た!
 賢い娘は花嫁を迎える準備が出来ていた。しかし、愚かな娘は出来ていなかった。それも全くできていなかった。
 この愚かな娘らは祝宴に入れてもらえず、「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」と宣告されてしまう。

 復活のキリスト・イエスは、「いのち」というプレゼントを携えて私たちのもとにおいで下さる。 ただ、いつ来られるのかが分からない。
 愚かな娘たちは、買い出しになど行ってしまった。
 何が大切なことなのかが分からなかったのだ。
 待ち続けることが大切なのか、ともしびという形式が欠けることが大切なのか。
 ともしびが消えていても、イエスが来たときに花嫁がそこにいること、これがただ一つ大切なことではないか。

 だからこそ、罪の赦しに飢え乾いている私たちは、恵みを待ち続けること、待ち続ける忍耐が求められる。

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[一版]2010年 9月 4日
[二版]2013年12月29日
[三版]2016年10月 9日
[四版]2018年 7月14日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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偽善者について

 「ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、
 その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、
 そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。
 そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ24:48-51)

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 主人のいいつけを守らず、それどころか好き放題やらかしている悪いしもべ。
 「思いがけない日の思わぬ時間に帰って来」た主人にばれて、「その報いを偽善者たちと同じに」される。
 悪いやつと偽善者とが同じ扱いなのである。

 では、この偽善者とはどういう存在だろうか。
 ひとことで言うと、表と裏が違いすぎたり、建て前と本音がかけ離れていたりしている人とでもいえばいいだろうか。
 ところが、表と裏であれ、建前と本音であれ、これら両面は本質的には同じなのだ。
 それは「抜け目なくやってやる」ということで、建前と本音を器用に使い分ける。嘘も平気だ。
 我らがパリサイ人もそうであったし、近代資本主義下のこの競争社会でも数多い。
 したたかといえばしたたかなのだが、一方で彼らは自分の内面を見つめるということがないのではないか、どうもそのような気がする。自分の内面を見ることはそら恐ろしいと思っている人にも何人か会ったこともある。
 そして自分の内面を見つめることがないのであれば、他者の気持ちを分かろうとする回路もまたないだろう。

 だから、彼ら偽善者は意図して、または意図せずに、人々に害悪を及ぼす。
 悪についての自覚そのものがないのだから、先の悪いしもべよりもなおさらたちが悪い。
 上の聖書箇所には「その報いを偽善者たちと同じにする」と書かれているが、偽善者についてはいうまでもないことだ、というニュアンスの突き放し方だ。
 そして実をいえば、この偽善者とは、かつての自分のことだ。
 人の気持ちなんてまるで分からなかったし、考えもしなかった。平気で人を傷つけていた。
 こんな自分であっても、御父は忍耐強く待ち続けていてくださったのだ、これを神のあわれみと言わずしてなんと言えばいいのだろう。
 主人が帰ってくるまでの間に、あとの者が先になる(マタイ20:16)喜びが多くあるに違いない。

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 健やかな一日をお祈りします!

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いなずまが東から出て西にひらめくように

 「さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。
 だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。
 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。」(マタイ24:25-27)

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 イエスの黙示より。

 このイエスの黙示は、終末についてのことと個人的なこととが重なり合っているように思う。
 このうち終末については、書く何かを自分は持ちあわせていない。
 しかし、「人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです」とあるのは、イエスが私たちを訪れる時のこととして、全く確かなことだ。
 温かい飲み物を差し上げる時間すらないし、第一そのようなおもてなしのことなど、私たちの頭には上りもしないだろう。

 この訪れはいきなりということはなく、予兆がある。
 苦しみがかなり長く続くことが、その予兆だ。
 しかも、かつてなかった程の耐え難い苦しみが続く。
 私たちはこの十字架上で苦しみ抜き、その果てにイエスに出会って、イエス同様復活するのである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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