ただ神によって

 「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:9-13)

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 イエスは「すべての人を照らすそのまことの光」として、世に来られた。
 すべての人を照らすにもかかわらず、「ご自分の民は受け入れな」い。

 しかし、中には「この方を受け入れた人々」が現れる。
 「その名を信じた人々」だ。
 彼らは、血筋柄信じることができたというわけではない。
 つまり、アブラハム以来の血統によって信じたのではない。
 また、「肉の欲求や人の意欲」、つまり、信じたくて信じることができたわけでもない。さらに、信じるために何かを行うことで信じるに至るわけでもない。
 実に、「ただ、神によって生まれたのである」。
 すなわち神の恵みである。

 この恵みなしには、「まことの光」をはっきりと見ることのできる目は閉じられたままだ。
 「ご自分の民は受け入れな」いのも、道理である。
 割礼によってではなく、神の恵み、すなわち聖霊によってのみ、目は開かれる。
 ちなみに聖書の登場人物の中では、サウロ(パウロ)が典型例だ(使9:3-19)。

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