ヨブ記のすごみ

 「あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。
 あなたには神のような腕があるのか。神のような声で雷鳴をとどろき渡らせるのか。」(ヨブ40:8-9)

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 昨日私は、「雅歌」や「伝道者の書」は卒業した旨をしたためた。
 そのようにしてあれこれ頭の中の整理作業をしていってきらめきが一層まばゆいほどだった書物、それはヨブ記だった。

 ヨブ記。
 もう、書き出しからして私は読みたくもない書物だった。
 「ウツの地」(1:1)、ここで既にして気が滅入る。
 それでも意地で読んでみても、何度読んでもさっぱり訳が分からない。
 何人かの人物が登場するのだが、ヨブも含めたどの人の言っていることも一理あるように思えて、するとこの書物は何を言いたいのかが、ますますさっぱり分からなかった。

 さてここで、ヨブ記のプロットを記す。

1章:幕開け
2-31章:四人の友との「とんちんかんなやりとり」
32-37章:エリフ乱入、滔々と「説教」
38-41章:ひとりぼっちのヨブに神が容赦なく「メッタ斬り」
42章:ヨブの「悔い改め」、そして幕引き

 引用聖句は、上に書いた神の「メッタ斬り」の箇所、その中でも、これが際だって情け容赦ないと思える箇所を選んだ。
 この厳父・神と対峙して、一体誰が耐えられようか。
 繰り言になるが、この神の「メッタ斬り」シーンで、ヨブはひとりぼっちだ。

 一方、四人の友と「とんちんかんなやりとり」をやっている頃のヨブは、やりとりが進むほどかえってかたくなになってしまう。
 一箇所だけ取り上げると、「ヨブはまた、自分の格言を取り上げて言った。」(27:1)。
 「自分の格言」。
 「言われれば言われるほど、かえって自説が出てきて、それをけっして曲げない」、そんな恰好だろうか。

 そしてヨブも、「一点」、そこで、「悔い改め」に至る。
(その「一点」は、行間に現れている。)
 この「一点」に至るまでの、その長いこと長いこと……。
 長くとも「一点」に至るということを綴った書物、それがヨブ記であり、一言一言の解釈それ自体というのはどうでもよい、今の私はそう理解している。
 「たったひとつのこと」を説明するがための大部作、それがヨブ記である。

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[付記]
 本日の記事は、2006年9月17日付第一の記事を大幅に修正したものです。

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富と物質と快楽の果て

 「私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すために池も造った。
 私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。
 私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。
……
 私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。
 私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。
 しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」(伝2:4-11)

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 この伝道者の書(コヘレトの言葉)の作者は、ソロモンだろう。 「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。」(伝1:1)を、私はほぼ額面通りに受け入れている。
 彼は、知恵のある人だった。
 知恵によって国を興隆させ、「ソロモンの栄華」(マタイ6:29)にまで至った。
 だが、そこでおぼれてしまい、妻700人、そばめも300人などという王様に堕してしまう。
 さくじつ「マモニズム」という語句を用いたが、聖書の中でソロモンほどマモニズムを地で行った人もいないだろう。
(註:アラム語で「富」を「マモン」という。)
 そしてソロモン没後、栄華を極めたイスラエル王国は、あっという間に瓦解して南北に分裂する。
 これらのことは、史書に記されている。

 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」(伝12:1)

 この箇所に至っては、老ソロモンの絶望感に満ちた叫びという感すらある。
 ソロモンはダビデと違って、神に頼まずもっぱら自らの知恵に頼って成功してしまった。そこでおぼれてしまって、あれこれマテリアルでこころ満たそうとするのだが、やはりどこにも満足など見いだはせず、遂に神を見いだすことが叶わない老いた自らに思い至る。
 彼は自分の父ダビデが神を見いだして幸いだったのを見てきているので、「あなたの創造者を覚えよ」という言葉は、より切実なだろう。
 「俺のようにだけはなるな! お前は神を見いだせ、それもできるだけ早く!」、そのような絶叫のように聞こえるのは私だけだろうか。

 ダビデはなにしろ、あれだけ波瀾万丈の人生、その一生を、神と共に歩んだ。
 というよりか、幾度も裏切りに会うダビデは、神に頼るほかなかった。
 そして神を見いだしたダビデ。
 対して天下太平、繁栄の浮き世の中でマモニズムに身をやつし、気付くと神をついに見出せず、絶望的に叫ばざるを得なくなったソロモン。
 裏切りに次ぐ裏切り、周り中皆が敵、そのさなかにあって孤独から程遠かったであろうダビデ。
 対して、1000人の女、あまたの部下、子どもたちの中に囲まれ、孤独の極みを痛感したであろうソロモン。
 「何の喜びもない」、この言葉は、ずしりと重い。

 この「伝道者の書」(コヘレトの言葉)という書物は、マモニズムに首をつっこんでもそこには見事に何もない、ということがはっきりと了解できれば「ご卒業」、そういう類の書物だと思う。
 そして「卒業」できるかどうかが、大きな分水嶺なのである。

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[付記]
 ほんじつの記事は過去2回出した記事を、更に加筆修正したものです。
   初出   2006年 9月16日
   二回目  2007年 7月21日(大幅に修正)
   三回目 (今日)        (小修正)

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罪赦されるとき

 「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」(1ヨハネ1:8-10)

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 「罪はない」という人は、人間である以上ひとりもいない。
 なぜなら人間は、善悪の知識の実を食した違反者アダムを先祖とするからである。
 アダム以来、この罪深い肉は脈々と続いている。

 では、その罪は何によって罪と分かるのだろうか。
 それは、「神のみことば」、律法によってである。
 その律法をさらに厳格に解釈したのが、キリストの山上の説教だ。
 たとえば、次にあるとおり。

「 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:43-44)

 「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。」という律法に照らすとき罪とされなくとも、キリストの「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」に照らすと、間違いなく誰もが罪とされる。

 そういうわけで、「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いて」いる。
 罪を自ら認めることによってのみ、神はその罪を赦して下さる。
 罪を認めるということは、アダムの肉の全体を見てしまうということであり、すなわち死ぬことだ。
 罪に死ぬことによって初めて、罪赦される。
 これがキリストの切り開いた道なのである(参/ローマ6:7)。
 そうすると、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」を行い通すことができないと分かったがゆえに、そのことが赦される。

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希望についての説明

 「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。
 ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。」(1ペテロ3:15-16)

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 「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意」。
 私は、ある一点のところで、この弁明にどうにもつまずいてしまう。

 私たちは信仰によって救われ、この救い主キリストとともに天にいるという希望を持っている。
 その信仰は、キリストの十字架そして復活を信じることによって得られたものだ。
 私たちの罪深いアダムの肉が、受肉したキリストを釘付けにする十字架によって処罰される。
 そして、キリストの復活と同様、処罰された私たちはよみがえる……。
 この処罰とよみがえりのはざま、ここを全く説明できないまま、今日までこのブログを書き続けている。
 おそらく言語化できない事柄なのだろう。

 ただ、聖書には、このはざまの痕跡がいくつか残されている。

 「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:24-25)

 この行間に、そのはざまを見いだすことができる。他にはヨブ42:5-6もそうだ。探せばまだまだあるだろう。
 ただ、今のところ私はこのはざまを、直接言葉では説明できないのである。

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[おことわり]
 ここのところあまりコンディションがよくないので、ときどきお休みを頂くと思います。ご了承下さい。湿度の高さがこたえます。

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忍耐と自由

 「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(1ペテロ2:20-25)

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 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。」、「そのため」というのは文脈上、「善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶ」を指す。
 逆説的かも知れないが、召されることによって、かえって忍耐が必要になる。
 だが、その忍耐を見ておられる公平なお方がおり、最後の日にそのことがつまびらかになる。
 ペテロによれば、上に書いた忍耐はキリストの足跡に従っている結果である。

 そのキリストの十字架は、「私たちが罪を離れ、義のために生きるため」に、「私たちの罪をその身に負われました」。
 そのように身代わりになって下さったお陰で、私たちは罪意識からいやされて自由になった。

 かつて私たちは好き勝手自由わがままに自分の力を頼りになんでもやろうとしていたものだが、今はキリストという「たましいの牧者」の下に帰って、より大きな自由を味わっている。

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死者だった私たち

 「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」(1ペテロ1:3-4)

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 上に引用した1:3(前半)について、1年ほど前、この一文は福音の全てだと記した(こちら)。
 今、目を通しても、その思いは変わらないし、書きたいこともそう変わらない。

 ひとつ付け加えるとすれば、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ」たのであるが、「私たち」は新たに生まれたのであって、それ以前は死者だったのだ。
 では、死者だった「私たち」は、いつ新たに生まれるのであろうか。
 よみがえったキリスト、十字架に死に、死者の中から復活されたキリストと出会ったときである。

 「新たに生まれる」とは、元気いっぱいとか、いきいきとか、そういう健康雑誌の見出しやタイトルに登場するような状態とは、全く違う。
 神と和解し罪赦され、その神の方を向いている状態である。
 また逆に、死者とは、神の怒りの下にあって、神から離れている状態である。
 この死から生への切り替えは、復活のキリストとの出会いによってのみ、行われる(回心)。

 そのときに、目には見えない「天にたくわえられている」不朽の資産が、はるか天に見えてくる。

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律法の違反者

 「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。
 なぜなら、「姦淫してはならない。」と言われた方は、「殺してはならない。」とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。」(ヤコブ2:10-11)

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 行いを強調するヤコブ書より。

 律法というのは、行い集とでもいえばいいのだろうか。
 こういう行いをしなさい、あるいは、このような行いはしてはならない。
 なかでも、引用聖句中にある「殺してはならない」は、十戒の中にある戒めだ。

 イエスが世に来られて、山上の説教をなされた。
 そして次のように教えられた。
 「 『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)
 この基準で行おうとすると、ただの一人も「姦淫してはならない」を行い通すことができない。
 また、引用聖句中にも「姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者」になるのだ、とある。
 つまり、律法というのは、満点をけっして取ることができない問題集のようなもので、満点を取って義とされるということがありえない。

 そうすると、すべての人が律法の違反者なのだ。
 ただ、自分は律法の違反者だと腑に落ちる人、落ちない人、そもそも気付かない人の三者が存在する。
 腑に落ちた人は、律法によって死んだ人である。
 満点など到底取れない、自分はこんなにも罪深い……、と。
 この律法による死に気付かせてくれたのがイエスであり、その山上の説教だ。
 このイエスは、全ての人の罪をその肉に負う十字架によって死に、神によってよみがえる。
 それと同じく、律法に死んだ人はイエスのつけてくださった道筋に従って、よみがえる。

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罪との戦い

 「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。
 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。
 「わが子よ。
 主の懲らしめを軽んじてはならない。
 主に責められて弱り果ててはならない。
 主はその愛する者を懲らしめ、
 受け入れるすべての子に、
 むちを加えられるからである。」
 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
……
 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12:4-11 途中略)

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 ヘブル書の著者は、「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」と、「あなたがた」に対して書いている。
 著者は罪との血みどろの戦いをくぐり抜けてきた、一方で、これを読んでいるあなた方は……、そういうニュアンスだろうか。
 では何故、そもそも罪と戦う必要があるのだろう。

 というより、罪との戦いとは、私たちが真の利益を受けるために神が課す「懲らしめ」なのである。
 だが戦おうと思って戦いに突入する類のものではなく、神がそれを課すので血みどろになって罪と戦わざるをえないと言えばいいのだろうか。
 その神の懲らしめを受け、死んでよみがえり、「平安な義の実」を結ぶ地点へと至る。

 誰もがこの道程を歩むわけでは、多分ない。
 すべては神の恵みによってなのだ。
 そうすると、ある人がただ恵みによって、懲らしめの鞭を受けるということになる。
 ハッピーが恵みでアンハッピーが懲らしめ、という単純な話ではない。
 恵みの故に神の懲らしめを受け、そしてそのことはただ一度きりだ。
 キリストもただ一度、神にあって十字架という懲らしめをお受けになった。
 そして神はキリストを復活させる。
 復活のキリストには、もはや以前の肉はない。
 そういうわけで、この罪との戦いはキリストの道、その恵みなのである。

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さばきと十字架

 「それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(ヘブル9:15-28)

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 数日前、「二度目の十字架」というタイトルの記事を書いた(こちら)。
 上の聖書箇所も、二度目の十字架のありえなさについて書かれている。

 そもそもキリストが肉をまとって世に来られたのは、「多くの人の罪を負うため」である。
 十字架によって、その背負った罪なる肉の処理が完了させ、復活という形でその処理が認められたことを示された。
 処理済みだから、「ご自分を幾度もささげることは」ありえない。意味がないのだ。
(そこが人間の大祭司職とは決定的に異なる点である。)
 復活のキリストは、今は天高いところにおられる。

 ところで、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」という厳然たる決まりがある。
 このさばきは、どちら側に行くか、ということを裁くものである。
 何に基づいて裁かれるのだろうか。
 義であるか、不義であるか、であろう。
 キリストへの信仰は、肉の罪深さに赦しを与え、その人を義と認める(不義であるにもかかわらず、義と認められる。)
 義と認められた人は、もはや死後のさばきについて恐れずに済む。これが救いである。
 そのキリストへの信仰とは、十字架による罪の処理が完了したことを信じることである。
 そうすると、その人は復活のキリストに出会う。
(旧約のヨブ記と同じだ。)

 キリストは再びやってこられる。
 キリストを信じ待ち望む者を天から迎えに来るのである。
 この時がさばきのときである。再び十字架に架かるために来られるのではない。
 それがいつなのかは、誰も知らない。

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新しい契約

 「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。
 もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。
 しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。
 「主が、言われる。
 見よ。日が来る。
 わたしが、イスラエルの家やユダの家と
 新しい契約を結ぶ日が。
 それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、
 彼らをエジプトの地から導き出した日に
 彼らと結んだ契約のようなものではない。
 彼らがわたしの契約を守り通さないので、
 わたしも、彼らを顧みなかったと、
 主は言われる。
 それらの日の後、わたしが、
 イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、
 主が言われる。
 わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、
 彼らの心に書きつける。
 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
 また彼らが、おのおのその町の者に、
 また、おのおのその兄弟に教えて、
 『主を知れ。』と言うことは決してない。
 小さい者から大きい者に至るまで、
 彼らはみな、わたしを知るようになるからである。
 なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、
 もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」(ヘブル8:6-12)

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 上の聖書箇所中、長大な旧約の引用はエレミヤ31:31-34から。

 キリストは、「さらにすぐれた契約の仲介者」である。
 その人は、神から新しい契約を結んでいただけるのだが、その仲介役、架け橋の役目を果たしてくださる。
 なぜキリストがこの仲介をできるのかというと、かつては神の子である自らも、その人と同じ道をたどったからである。いわば経験されているのだ。

 シナイで結ばれた旧い契約については、主は「彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかった」と仰る。
 人間は律法を守ることができず、そのような人間を、神は顧みなかった。
 しかし主は仰る。「見よ。日が来る。」
 神が差し伸べてくださる、新しい契約の日だ。
 それは「わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」、つまり神を知る、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
 その人の心に神が刻み込まれている、これが信仰である。
 そうすると、神はあまりにも自明で普遍的な存在として認識される。
 それで、「『主を知れ。』と言うことは決してない。」のである。

 何よりも、キリストが仲介役の神と人とのこの新しい契約は、「わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さない」。
 これこそ神に赦され和解した救いである。

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