イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
律法を追うこと、律法が来ること
「では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。
しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。
なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。」(ローマ9:30-32)
---
それにしても、彼らの律法に対する扱いはどうであっただろうか。
自分自身は律法を守れていると思っている。
たとえば金持ちの青年はイエスに向かって「そのようなこと(戒め)はみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか」(マタイ19:20)と無自覚にも言い放つ。
守れているので義が自分にあると思うばかりか、福音書に書かれている安息日論争のように、他人にまで押しつける。
ところが御父からすると、そんな彼らは律法からはほど遠いところにいる。このことは、イエスが山上の説教などで言っているとおりである。
もとより行ないによって律法に到達できる者はいないが、彼らはまるで到達していないにもかかわらず行ないによって義に到達したと思いこんでしまった。このことが彼らにとってつまずきの石となり、救われて信仰に至ることが少なかったかも知れない。
さて、上の聖書箇所で対比されている異邦人の義については、同じくロマ書の4章にあるとおりであり、つまりアブラハムの義のことである。
不可能と思える神の約束を信じ続け、ついに約束の子を授かる。
これは型であり、神はイエスを介した救いを多くの人に約束している。
このことを信じ続けるならば、イエスが出会ってくださり救われる。
その過程で、律法の方からその人に突きつけてくるものがある。
---
[一版]2019年11月29日
[二版]2021年 9月26日(本日)
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しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。
なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。」(ローマ9:30-32)
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それにしても、彼らの律法に対する扱いはどうであっただろうか。
自分自身は律法を守れていると思っている。
たとえば金持ちの青年はイエスに向かって「そのようなこと(戒め)はみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか」(マタイ19:20)と無自覚にも言い放つ。
守れているので義が自分にあると思うばかりか、福音書に書かれている安息日論争のように、他人にまで押しつける。
ところが御父からすると、そんな彼らは律法からはほど遠いところにいる。このことは、イエスが山上の説教などで言っているとおりである。
もとより行ないによって律法に到達できる者はいないが、彼らはまるで到達していないにもかかわらず行ないによって義に到達したと思いこんでしまった。このことが彼らにとってつまずきの石となり、救われて信仰に至ることが少なかったかも知れない。
さて、上の聖書箇所で対比されている異邦人の義については、同じくロマ書の4章にあるとおりであり、つまりアブラハムの義のことである。
不可能と思える神の約束を信じ続け、ついに約束の子を授かる。
これは型であり、神はイエスを介した救いを多くの人に約束している。
このことを信じ続けるならば、イエスが出会ってくださり救われる。
その過程で、律法の方からその人に突きつけてくるものがある。
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『神に不正があるのですか』
「このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。
その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:10-16)
---
「神に不正があるのですか」、理不尽な目に遭うとき、また、復讐したくてたまらないようなときなど、私たちはしばしば神の不正を疑う。あるいは神が裏切ったとすら感じる。
しかし、それはそうではない。
なぜなら、神は常に正しいからである。より正確に言うなら、正しさの基準は神なのである。
復讐などしたくなる卑小な自分は正しさの基準など持ち合わせていないし、もし、それでも自分が正しいとするのなら、それはむしろ独りよがりなのだろう。
理不尽な出来事をお許しになった神が、どんな場合でも常に正しいのである。
その、正しさの基準であるところの神は、「自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」。
長子であるエサウではなく、ヤコブ、あの卑劣なヤコブが愛されるのである。
人間の頭で考えると、なぜそうなるのかは理解がいかない。長子に相続の権利があるのは当然のことではないか。
しかし人間がどう頭をこねくり回そうと、これこそ神の正しさなのである。
そうであるから、私たちはこの神にこうべを下げて祈りを捧げる。
---
[一版]2017年12月30日
[二版]2019年11月27日
[三版]2021年 9月25日(本日)
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その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:10-16)
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「神に不正があるのですか」、理不尽な目に遭うとき、また、復讐したくてたまらないようなときなど、私たちはしばしば神の不正を疑う。あるいは神が裏切ったとすら感じる。
しかし、それはそうではない。
なぜなら、神は常に正しいからである。より正確に言うなら、正しさの基準は神なのである。
復讐などしたくなる卑小な自分は正しさの基準など持ち合わせていないし、もし、それでも自分が正しいとするのなら、それはむしろ独りよがりなのだろう。
理不尽な出来事をお許しになった神が、どんな場合でも常に正しいのである。
その、正しさの基準であるところの神は、「自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」。
長子であるエサウではなく、ヤコブ、あの卑劣なヤコブが愛されるのである。
人間の頭で考えると、なぜそうなるのかは理解がいかない。長子に相続の権利があるのは当然のことではないか。
しかし人間がどう頭をこねくり回そうと、これこそ神の正しさなのである。
そうであるから、私たちはこの神にこうべを下げて祈りを捧げる。
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キリストに愛されているという実感
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)
---
数々の困難、患難に遭うとき。
自暴自棄になりそうなとき。
そういうときにふっと思い出すことがある。
それは「私はイエスから『いのち』を与えられたほどに特別に愛されているのだ」ということである。
そしてそのことに思い至ると、こんなことでくじけるなんて『いのち』に照らして何と勿体ないことか、そういう思いに駆られてそして忍耐できるようになる。
「キリストの愛から引き離す」というよりも、困難の時にこそキリストの愛を改めて確認できるというのが自分の実感だ。
キリストの愛というのは信じる者には自身と一体で、キリストの愛から引き離すと言われてもやりようがない。
金メッキははげてしまうが、地金はどこまで削っても金なのである。
イエスは私たちを根底のところで支えてくださっている。
日頃はほとんど忘れていても、いざというときに思い出される。
表向きイエスを棄てることが、もしかするとあるかもしれない。
だがそうであっても、イエスはなおも私たちを愛し続けてくださっているのである。
---
[一版]2011年10月30日
[二版]2017年12月24日
[三版]2019年11月22日
[四版]2021年 9月20日(本日)
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「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)
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数々の困難、患難に遭うとき。
自暴自棄になりそうなとき。
そういうときにふっと思い出すことがある。
それは「私はイエスから『いのち』を与えられたほどに特別に愛されているのだ」ということである。
そしてそのことに思い至ると、こんなことでくじけるなんて『いのち』に照らして何と勿体ないことか、そういう思いに駆られてそして忍耐できるようになる。
「キリストの愛から引き離す」というよりも、困難の時にこそキリストの愛を改めて確認できるというのが自分の実感だ。
キリストの愛というのは信じる者には自身と一体で、キリストの愛から引き離すと言われてもやりようがない。
金メッキははげてしまうが、地金はどこまで削っても金なのである。
イエスは私たちを根底のところで支えてくださっている。
日頃はほとんど忘れていても、いざというときに思い出される。
表向きイエスを棄てることが、もしかするとあるかもしれない。
だがそうであっても、イエスはなおも私たちを愛し続けてくださっているのである。
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[三版]2019年11月22日
[四版]2021年 9月20日(本日)
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だれが私たちに敵対できるでしょう
「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」(ローマ8:31-35)
---
パウロは上の聖書箇所で「だれが私たちに敵対できるでしょう」と書いている一方で、イエスは弟子たちに言っている。
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」(マタイ10:34-36)
イエスを通して信仰を与えられると、このように周り中が敵に回る。彼らにとって私たちが異質な者だからであり、死者たちの中で生きる者だからである。
だから彼らは私たちを憎しみ敵視はするが、パウロが言うとおり、私たちに敵対できるような存在ではない。
なぜなら、私たちは、御子を介した御父との関係性の中にあるのに対して、彼らは死者たちの関係性の中にあるからであり、端的に言うと異なる世界にいるからである。
訴えられても迫害されてもキリストという私たちの心棒は一体であるから、この心棒から引き離されようがない。遠藤周作の小説に出てくる宣教師のように迫害に屈しても、私たちからこのキリストという心棒は取り去られないのであるから、死人の彼らは私たちには無力なのだ。
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私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」(ローマ8:31-35)
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パウロは上の聖書箇所で「だれが私たちに敵対できるでしょう」と書いている一方で、イエスは弟子たちに言っている。
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」(マタイ10:34-36)
イエスを通して信仰を与えられると、このように周り中が敵に回る。彼らにとって私たちが異質な者だからであり、死者たちの中で生きる者だからである。
だから彼らは私たちを憎しみ敵視はするが、パウロが言うとおり、私たちに敵対できるような存在ではない。
なぜなら、私たちは、御子を介した御父との関係性の中にあるのに対して、彼らは死者たちの関係性の中にあるからであり、端的に言うと異なる世界にいるからである。
訴えられても迫害されてもキリストという私たちの心棒は一体であるから、この心棒から引き離されようがない。遠藤周作の小説に出てくる宣教師のように迫害に屈しても、私たちからこのキリストという心棒は取り去られないのであるから、死人の彼らは私たちには無力なのだ。
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『益』とはなにか
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ8:28-29)
---
「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」とあるところの「益」とは、誰にとっての益だろうか。
専ら自分にとってのものではない。神および神の秩序にとっての益である。
私たちがもしも「神のご計画に従って召された人々」なのであれば、神および神の秩序にとって益なことは、当然に、自分自身にとっても益である。
私たちはイエスを長男とする家族だからである。
このことについては、モーセの一生を思い出すとよく分かる。モーセは順風満帆にリーダーになったであろうか。そうではなく、彼には不遇な時期が長く続いたのである。しかし、その時期を抜けたとき、すべてのことが神とモーセ自身の双方にとって益として働いた。
益となるということを専ら自分についてのことと考えるならば、聖書は単なるご利益宗教に堕してしまう。
それどころか、そのような読み方というのは、自分に都合の良い言葉をあちこちから拾い集めては我田引水の解釈を施しているだけで、単に聖書を利用しているにすぎず、聖書に接するというのとはまるで違ってくる。
この聖書に対するスタンスの違いは「神のご計画に従って召された人々」にかかわっている。
そして、このスタンスは御子が変えてくださるのである。
---
[一版]2015年 7月12日
[二版]2019年11月21日
[三版]2021年 9月18日(本日)
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なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ8:28-29)
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「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」とあるところの「益」とは、誰にとっての益だろうか。
専ら自分にとってのものではない。神および神の秩序にとっての益である。
私たちがもしも「神のご計画に従って召された人々」なのであれば、神および神の秩序にとって益なことは、当然に、自分自身にとっても益である。
私たちはイエスを長男とする家族だからである。
このことについては、モーセの一生を思い出すとよく分かる。モーセは順風満帆にリーダーになったであろうか。そうではなく、彼には不遇な時期が長く続いたのである。しかし、その時期を抜けたとき、すべてのことが神とモーセ自身の双方にとって益として働いた。
益となるということを専ら自分についてのことと考えるならば、聖書は単なるご利益宗教に堕してしまう。
それどころか、そのような読み方というのは、自分に都合の良い言葉をあちこちから拾い集めては我田引水の解釈を施しているだけで、単に聖書を利用しているにすぎず、聖書に接するというのとはまるで違ってくる。
この聖書に対するスタンスの違いは「神のご計画に従って召された人々」にかかわっている。
そして、このスタンスは御子が変えてくださるのである。
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奴隷の霊からの解放
「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。」(ローマ8:13-15)
---
希代の芸術家である岡本太郎は、「世の中うまくやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上に乗せられてしまう。一応世間体もよく、うまくいくかもしれないが、ほんとうに生きているのではない。流されたままで生きているにすぎない。」(「自分の中に毒を持て」,p.137」)と書いている。少し前の時代の少なくない人々も同旨のことを書いている。
ここでいう「流されたままで生きている」というのが、上の聖書箇所に言う「人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けた」ということになるだろう。
マニュアル全盛の現代においてはこの奴隷の霊はむしろ歓迎されている節がある。コンビニに勤める外国人が「ありがとうございます」なのか「ありがとうございました」なのかどちらがいいだろうかと日本人に相談すると、マニュアル通りに言えばいいんだと返ってきたという話を聞いたことがある。
このような奴隷の霊から人を解放するのがイエスの十字架と復活である。
イエスと同じように肉に死に御霊によみがえる。これを執り行うのはその人自身ではなく御父である。
御父はその人と和解してくださり、その人は罪赦される。生ける水の川が枯れていた泉からあふれ出て、自由とは何かをその人は知る。死人が死んで生まれ変わったのだ。
そしてこの人は、「ありがとうございます」なのか「ありがとうございました」なのかをはじめ様々なことを自分で自律的に行ってゆく。これを生きるというのである。
---
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神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。」(ローマ8:13-15)
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希代の芸術家である岡本太郎は、「世の中うまくやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上に乗せられてしまう。一応世間体もよく、うまくいくかもしれないが、ほんとうに生きているのではない。流されたままで生きているにすぎない。」(「自分の中に毒を持て」,p.137」)と書いている。少し前の時代の少なくない人々も同旨のことを書いている。
ここでいう「流されたままで生きている」というのが、上の聖書箇所に言う「人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けた」ということになるだろう。
マニュアル全盛の現代においてはこの奴隷の霊はむしろ歓迎されている節がある。コンビニに勤める外国人が「ありがとうございます」なのか「ありがとうございました」なのかどちらがいいだろうかと日本人に相談すると、マニュアル通りに言えばいいんだと返ってきたという話を聞いたことがある。
このような奴隷の霊から人を解放するのがイエスの十字架と復活である。
イエスと同じように肉に死に御霊によみがえる。これを執り行うのはその人自身ではなく御父である。
御父はその人と和解してくださり、その人は罪赦される。生ける水の川が枯れていた泉からあふれ出て、自由とは何かをその人は知る。死人が死んで生まれ変わったのだ。
そしてこの人は、「ありがとうございます」なのか「ありがとうございました」なのかをはじめ様々なことを自分で自律的に行ってゆく。これを生きるというのである。
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肉の思いと御霊による思い
「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
肉にある者は神を喜ばせることができません。
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」(ローマ8:5-10)
---
御父の恵みによって御霊をいただいた私たちは、今まで通り肉を持ち続けながらこの御霊を宿している。
肉の思いが湧き出るこの身は一方で御霊による思いに突き動かされる。
まさに「からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きてい」るのである。
だから、その人がキリストのものかどうかは外側からは分からない。
むしろ、外側から分かるのはその人の肉だけで、キリストのものであるその人は、内側のものによってゆるぎない歩みをしているのである。
---
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肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
肉にある者は神を喜ばせることができません。
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」(ローマ8:5-10)
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御父の恵みによって御霊をいただいた私たちは、今まで通り肉を持ち続けながらこの御霊を宿している。
肉の思いが湧き出るこの身は一方で御霊による思いに突き動かされる。
まさに「からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きてい」るのである。
だから、その人がキリストのものかどうかは外側からは分からない。
むしろ、外側から分かるのはその人の肉だけで、キリストのものであるその人は、内側のものによってゆるぎない歩みをしているのである。
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キリスト・イエスにある者
「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ7:25-8:4)
---
信仰は、つかみ取る類いのものではなく、与えられて備わるものである。
神はイエスに「肉において罪を処罰」したが、これは私たちに対しても同じだからだ。
私たち自身で「処罰」をするのではなく、万物の父が私たちにそれを行うのである。
そして私たちは「キリスト・イエスにある者」にさせられる。
救われてイエスにある者は、「罪に定められることは決してありません」。
それは、外側にあった律法が、聖霊として内側に内住するからだ。
罪赦されるのみならず、この内側のものに突き動かされるようになる。
イエスが主なのは、単に主としてあがめているのではなく、このようにして主になってくれたからである。
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こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ7:25-8:4)
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信仰は、つかみ取る類いのものではなく、与えられて備わるものである。
神はイエスに「肉において罪を処罰」したが、これは私たちに対しても同じだからだ。
私たち自身で「処罰」をするのではなく、万物の父が私たちにそれを行うのである。
そして私たちは「キリスト・イエスにある者」にさせられる。
救われてイエスにある者は、「罪に定められることは決してありません」。
それは、外側にあった律法が、聖霊として内側に内住するからだ。
罪赦されるのみならず、この内側のものに突き動かされるようになる。
イエスが主なのは、単に主としてあがめているのではなく、このようにして主になってくれたからである。
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回心
「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:22-25)
---
私たちは、なぜ「神の律法を喜んでいる」のだろう。
それは、律法が善悪の基準であり、善を明確に指し示しているからだ。
では、なぜ善でありたいのか。
多分、相手が喜んでくれると自分もうれしいとか、もっと単純に他人から認められたいというような、誰しも持っている感情を満たしたいからではないだろうか。
ところが、この基準としての律法は、かえって、自分の肉の悪をあぶりだすことになってしまう。
なぜなら、この神の律法を行おうとすればするほど、それを全うできないことに直面せざるを得なくなるからである。
そして、これこそが律法の目的とするところなのである。
このよいものによって、そのよいことを行おうとする人の罪を自覚させる。
そしてパウロはうめく。「私は、ほんとうにみじめな人間です。」、ここまで追い込まれてしまう。
しかし、追い込まれ切った直後には何と書かれているだろうか。
「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」。
十字架と復活のイエスが、憔悴しきったパウロを一瞬にして救ったのである。
そして、救われたパウロは「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている」という。
肉の罪が赦されたという実感であり、「罪の律法」、すなわち醜い肉と同居できるのである。
上の短い聖書箇所には、こうして救われるということが書かれている。
これ以外のプロセスは、おそらくないだろう。
よきことを行おうとしたら、実は自分の内側にこそ問題があった。
この気づきが最初の一歩なのである。
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[三版]2021年 9月 4日(本日)
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私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:22-25)
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私たちは、なぜ「神の律法を喜んでいる」のだろう。
それは、律法が善悪の基準であり、善を明確に指し示しているからだ。
では、なぜ善でありたいのか。
多分、相手が喜んでくれると自分もうれしいとか、もっと単純に他人から認められたいというような、誰しも持っている感情を満たしたいからではないだろうか。
ところが、この基準としての律法は、かえって、自分の肉の悪をあぶりだすことになってしまう。
なぜなら、この神の律法を行おうとすればするほど、それを全うできないことに直面せざるを得なくなるからである。
そして、これこそが律法の目的とするところなのである。
このよいものによって、そのよいことを行おうとする人の罪を自覚させる。
そしてパウロはうめく。「私は、ほんとうにみじめな人間です。」、ここまで追い込まれてしまう。
しかし、追い込まれ切った直後には何と書かれているだろうか。
「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」。
十字架と復活のイエスが、憔悴しきったパウロを一瞬にして救ったのである。
そして、救われたパウロは「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている」という。
肉の罪が赦されたという実感であり、「罪の律法」、すなわち醜い肉と同居できるのである。
上の短い聖書箇所には、こうして救われるということが書かれている。
これ以外のプロセスは、おそらくないだろう。
よきことを行おうとしたら、実は自分の内側にこそ問題があった。
この気づきが最初の一歩なのである。
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[一版]2017年11月22日
[二版]2019年10月27日
[三版]2021年 9月 4日(本日)
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隠されていた宝
「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)
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私はカネを求めていたようで、そうではなかった。
人からの栄誉を求めていたようで、そうではなかった。
ほんとうに求めていたもの、それが実に、聖書にあった。
「わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)
まさしくイエス御自身こそが、いのちのパン、わき出る泉(ヨハネ4:14)、また永遠のいのち(ヨハネ6:27)そのものであったとは!
今の私は、特に何かを失ったわけでもない。
明日も、今まで通り、ごく普通に売り買いするだろう。今まで通りに、怒り、泣き、笑うだろう。ストレスも、依然として大きいだろう。
人としての営みには、さほどの変化があるとは思えない。
けれどもなんといっても、イエス、この宝を見いだした満足感の大きさといったらない。
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[一版]2006年 9月 2日
[二版]2008年 8月 2日
[三版]2010年 7月12日
[四版]2012年 4月22日
[五版]2013年11月23日
[六版]2016年 4月10日
[七版]2016年 9月 2日
[八版]2018年 4月14日
[九版]2021年 9月 2日(本日)
今日2021年9月2日は、上の記事を書いてからちょうど15年にあたります。
この記事を書いた2006年9月2日のことは今でもよく覚えていますが、うまく書くことはとてもできません。
外堀から埋めてゆこうと15年間書き続けましたが、未だに外堀しか書けません。
それでも、イエスとの上の聖書箇所のような出会いというのはあるということをお伝えしたく、あるいは書き残しておきたく、週に1回これからもこの日のことを書き続けていきます。
15年を経て世はだいぶ変わりましたし今はコロナ禍のさなかにいて揺れ動きが大きいですが、イエスはいつも変わりません。このイエスが自分の心棒です。
---
[上記2016年9月2日付記事での後書きの再掲]
今日は、上の記事を書いてから丁度10年にあたります。10歳の誕生日といって差し支えないでしょう。
10年前のこの記事を今読んでも、自分の中に違和感がありません。まったくそのとおりです。
ちなみに最近は、周りに恵まれてストレスも当時よりずっと少なくなったと思います。
いろいろ書いてみたのですが、どれも思いつきの域を出ないので消してしまいました。
ああ、あの日から10年経ったのか、という思いが全てです。
求め続ける人には、恵みによってイエスは会ってくださいます。このことは確かなことです。
(再掲おわり)
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私はカネを求めていたようで、そうではなかった。
人からの栄誉を求めていたようで、そうではなかった。
ほんとうに求めていたもの、それが実に、聖書にあった。
「わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)
まさしくイエス御自身こそが、いのちのパン、わき出る泉(ヨハネ4:14)、また永遠のいのち(ヨハネ6:27)そのものであったとは!
今の私は、特に何かを失ったわけでもない。
明日も、今まで通り、ごく普通に売り買いするだろう。今まで通りに、怒り、泣き、笑うだろう。ストレスも、依然として大きいだろう。
人としての営みには、さほどの変化があるとは思えない。
けれどもなんといっても、イエス、この宝を見いだした満足感の大きさといったらない。
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[一版]2006年 9月 2日
[二版]2008年 8月 2日
[三版]2010年 7月12日
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[五版]2013年11月23日
[六版]2016年 4月10日
[七版]2016年 9月 2日
[八版]2018年 4月14日
[九版]2021年 9月 2日(本日)
今日2021年9月2日は、上の記事を書いてからちょうど15年にあたります。
この記事を書いた2006年9月2日のことは今でもよく覚えていますが、うまく書くことはとてもできません。
外堀から埋めてゆこうと15年間書き続けましたが、未だに外堀しか書けません。
それでも、イエスとの上の聖書箇所のような出会いというのはあるということをお伝えしたく、あるいは書き残しておきたく、週に1回これからもこの日のことを書き続けていきます。
15年を経て世はだいぶ変わりましたし今はコロナ禍のさなかにいて揺れ動きが大きいですが、イエスはいつも変わりません。このイエスが自分の心棒です。
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[上記2016年9月2日付記事での後書きの再掲]
今日は、上の記事を書いてから丁度10年にあたります。10歳の誕生日といって差し支えないでしょう。
10年前のこの記事を今読んでも、自分の中に違和感がありません。まったくそのとおりです。
ちなみに最近は、周りに恵まれてストレスも当時よりずっと少なくなったと思います。
いろいろ書いてみたのですが、どれも思いつきの域を出ないので消してしまいました。
ああ、あの日から10年経ったのか、という思いが全てです。
求め続ける人には、恵みによってイエスは会ってくださいます。このことは確かなことです。
(再掲おわり)
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