罪からの解放

 「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ6:5-7)

---

 罪とは神の律法に対する違反であり、それはアダムの違反以来人間を拘束し続けてきた。
 私たちは、神のよかれというものを何一つできず、かえってアダムの肉によって不自由にされている。

 「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
 これがたいせつな第一の戒めです。
 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37-40)

 神を愛し人を愛せよ。
 アダムの肉を持つ人間にとって、これが一体どれほど難しいことか。
 その、あまりに難しいことが、律法の要諦なのである。
 この律法が人間の肉を罪に定めるのであるから、私たちは罪の奴隷となってがんじがらめにならざるを得ない。

 人間のこのみじめな状態を救ってくださったのが、イエス・キリストである。
 キリストの十字架の死と同様、私たちは罪に死に、キリストの復活と同様、私たちは新たにされる。
 聖書は徹頭徹尾、この救いについて記された書物である。
 新たにされた私たちにとっても律法は存在し続けるので、私たちは相変わらず罪を犯し続けるが、今や罪赦されて罪から解放されているのである。

 キリストが与えてくださる自由の本質は、神との和解とそれに由来する罪からの解放にある。

---

[一版]2011年 9月17日
[二版]2015年 5月 3日
[三版]2017年10月29日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

死にあずかるバステスマ

 「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:1-4)

---

 上の聖書箇所で書かれている「罪」 ( sin ) は、日本語でいう「罪悪感」とはあまり関係はない。
 「罪悪感」、「悪いこと」には、むしろ guilty が当てはまる。
 一方、上の聖書箇所で扱っているのは、どこまでも sin としての罪だ。
 つまり、アダムの肉が内在する罪、人が人である以上持っている罪、つまり神が人間を指弾する罪のことであって、人様から指さされたり手錠を掛けられたりということとは異なる。
 「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」。
 これは、もう悪いことをしてはいけない、という意味とは全く異なる。

 律法によってsin に気付くや、その苦しみに、七転八倒のたうち回る。
 のたうち回った挙げ句、「死にあずかるバステスマ」によって、私たちはイエスと共に死ぬ。
 「どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」、その通りに、 sin は処理された肉と共に埋葬されてしまった。これが「罪に対して死んだ」ということである。
 そして、「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをする」のである。

 共に死んでくださったイエスによって悔い改めた私たちは、復活のイエスと共によみがえって新しい歩みが始まった。
 外見上は、何一つ変わっていない。
 欠点の、たったひとつでも直ったわけでもない。
 しかし、真のバステスマを受けて、私たちのもっとも奥底のところが、がらりと変わったのだ。

---

[一版]2007年 6月 3日
[二版]2007年 7月 3日
[三版]2011年 9月10日
[四版]2015年 5月 2日
[五版]2017年10月22日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

出発点としての律法

 「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」(ローマ5:20-21)

---

 ロマ書でのクライマックスの箇所のひとつ。

 なぜ律法が与えられたのだろうか。
 それはそれを守り通すためというよりも、それを守り通せないという罪の意識を自覚させるためだろう。
 かつて私が律法を知らなかった頃、ひごろ罪の意識にさいなまれることは全くなかったし、明らかに悪いことも平気でやってのけた。
 罪の基準を知らないのだから、仕方がない。
 だが、聖書を通して律法が入ってきたとき、私はその律法に照らして罪深き者であり、また、この律法を守ろうにもどうにも守り通せない者、つまり存在そのものが罪であることを知ることとなった。
 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2)という声は、今も高らかに鳴り響いている。
 この罪意識から、どうしても救われたい。

 ところでバステスマのヨハネは、水の洗礼を行った。
 だがそれは、救いの型であった。
 型を示すことが目的なので、来た者に水のバステスマを施す。一種の宣伝のようなものだろうか。
 だがイエス・キリストによる本来のバステスマは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」とあるように恵みによるのであり、それは罪からの救いを求めるすべての人に注がれうる。

 では何故キリストは罪深き私たちを救うことができるのだろうか。
 肉ある身としてこの世に来られ、何ら罪が見いだされなかったにもかかわらず極刑の十字架によってイエスの肉は処分された。
 私たちの罪の肉の身代わりに、罪なき御子が十字架に架かってくださったのである。
 そしてそのわざは御父の思いに適って、三日目によみがえる。
 この復活のイエスが、恵みによって私たちに「いのち」を分け与えて下さるのである。
 私たちの肉から罪はなくなりようもないが、この復活のイエスの仲介によって罪赦され、義から程遠い者であるにもかかわらず義とみなして下さる。
 私たちをがんじがらめにし続けていたものから、私たちは解放されるのだ。

 であるから、律法こそ救いのための出発点なのである。
 律法を知らないならば罪と無縁であるから、イエスとも十字架とも、そして救いとも無縁だろう。
 律法が私たちに肉の罪を知らしめるので、それから解放されたくて十字架にすがる私たちに恵みが降り注ぐのである。

---

[一版]2011年 9月 4日
[二版]2015年 4月29日
[三版]2017年10月15日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

怒れる神との和解

 「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:8-10)

---

 私たちはアダムの肉をまとった存在であり、それゆえに神の御前に罪深い者である。
 言い換えると、神との間に平和がなく、人間はこの絶対者たる神の怒りをかいつづけている。
 人間は神によって造られたにもかかわらず、アダムの違反以降、その神と常に対立関係に置かれている、と言ってもよい。

 そのさなかに、神の側から救いの手が差し伸べられた。
 すなわち、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかに」されたのである。
 罪なきイエスに私たちの罪を負わせ、そのイエスが極刑の十字架に架かる。
 その血のわざによって私たちの罪は処理され、その処理はイエスの復活によって神に承認された。
 このイエスへの信仰によって、義とみなされて神との間に平和が訪れる。
 平和とは、この、罪からの救いのことだ。

 私たちの肉が依然として罪深く、義からはほど遠いことにはかわりはない。
 それにもかかわらず、イエス・キリストへの信仰の故に、神は私たちを義と認めてくださった。
 これほどまでに創造主が私たちを愛しておられることを、私たちは日々実感するのである。

---

[一版]2009年 9月20日
[二版]2011年 8月27日
[三版]2015年 4月19日
[四版]2017年10月 9日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

患難を喜ぶ

 「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:1-5)

---

 キリストによって信仰に導き入れられた私たちは、患難をも喜ぶ。
 より正確には、その患難が与えてくれた素晴らしい意味を、あとになって気付いて、もう過ぎ去った患難を心から感謝できるのである。
 すべての患難、困難は、それがどのような意味をもたらすだろうかという希望を持つことができれば、抜け出るまでの時間を忍耐することができる。
 この忍耐を力強く支えてくれるのが、与えられた信仰である。私たちの内には、なんといっても主イエスがおられる。

---

 考え直して、ロマ書を続けることにしました。

 健やかな一日をお祈りします!
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

信仰による義

 「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3:31)

---

 もしも行ないによって義を確立するのであれば、割礼をしないことは確かに不義だ。分かりがいい。
 では、割礼をしないことは、律法を確立するであろうか、それともそれを貶めるだろうか。
 これは観念だけでは分からなくなってくる。

 行いによる義というのは、自力で義をつかみ取ろうとするものであるが、一方、信仰による義はそうではない。
 信仰というのは自分が獲得するものではなく、イエスによって信じさせられるのである。
 このとき律法は正に養育係であり、自力ではどうやっても神の基準に達することができず、罪人であると認めざるを得ず、そうして更に罪に罪を重ねるほかない。
 そうして極刑に苦しみ続けるその果てに、復活のイエスが私たちに出会ってくださるのである。
 あのイエスの十字架への道は、私たちがこうして通り抜けるためのものだったのだ。

 割礼をしない、というか、割礼をしようとしてできず律法を守れないところには、このように罪意識が発生する。
 これこそ律法の目的なのであるから、律法を守らないことがイエスとの出会いに及ぶことは大いにあるのである。こうして私たちの中で、律法は確立されたのだ。
 一方、自分は律法を守っている、そう思っている人には、この罪意識が生じる余地がない。
 ここが両者の決定的な違いなのである。

---

・ロマ書を続けるつもりでしたが、3章でいったんやめて、次回からはしばらくアトランダムに取り上げようと思います。
・このブログの下の方にある検索窓に「ローマ」とか「ローマ6:」などと入れると、ロマ書やロマ書6章について今まで書いたものを検索することができますのでご参考までに。


 健やかな一日をお祈りします!

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )