マクロな読み方

 「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、
 こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、
 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」(マタイ11:16-19)

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 イエスが取税人や罪人と飲み食いするのは、罪意識を最も感じている彼らに福音とその喜びを伝えるためだろう。
 そうであれば、取税人のもてなしの流儀に従って、イエスは食べて飲むに違いない。あるいは、共にどんちゃん騒いだかもしれない。
 上の19節だけを切り取って取り上げ、イエスは酒が大好きなので自分も飲んでいいんだ、という旨を主張する人を何人も知っている(他にヨハネ2章なども「論拠」として耳にする)。
 しかしそれは、文脈や背景を無視した我田引水な読み方ではないだろうか。

 このことに限らず、聖書の一節だけを切り取って読むのと(ミクロな読み方)、全体から俯瞰して部分を読むのと(マクロな読み方)では、解釈の上で非常に大きな違いが出て来る。
 自分が何かをしたい(あるいはしない)論拠として聖書の一節を切り取るというのは、では聖書は読み手の都合に根拠を与えるためにあるのか、ということになってしまう。
 もちろんそうではなく、聖書はもっぱら魂の救いのため、アダムの肉が罪赦され「いのち」を得るためにある。
 恵みによってイエスと出会い聖書から語りかけられて、そうして全く新しい光が聖書から私たちに差し込んでくるのである。

 なお、酒その他については、次の聖句に尽きる。

 「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」(ローマ14:22-23)

 ここで、「信仰」とは、上に書いたとおり恵みによって与えられるものであり、自分からつかみ取る類のものではないことを付記する。

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[一版]2010年 7月 4日
[二版]2012年 3月25日
[三版]2013年11月15日
[四版]2016年 2月28日(本日)

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自分の十字架について

 「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:38-39)

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 聖書全体を代表する聖句として、ヨハネ3:16がしばしば挙げられる。
 同じように、上のマタイ10:38-39も聖書全体を代表するもので、救いについて端的に言い表されている。

 「わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」は、たとえばロマ書6:4「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」にぴったりと符合する。

 極刑である十字架によって私たちは自身を失うのであるが、そもそも私たちは、アダムの肉の罪深さへの刑罰として、この十字架を背負わざるを得なくなったのである。
 その十字架の重荷に耐えつつイエスに付き従ってゆくことが、その重荷からの救いのために必要であり、その人はいずれキリストと共に葬られ、キリストと共によみがえる。
 よみがえって御父との和解を回復し、「いのち」を得て信仰を頂ける。
 この過程は、イエスの十字架と復活がひな形になっている。

 自分のうちに罪が内在していることに気付くことが、その人が「自分の十字架を負」うということであり、スタートラインである。
 そのためには、頭でっかちな理解ではない、打ちのめされるような体験が必要となる。

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[一版]2013年11月14日
[二版]2016年 2月27日(本日)

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イエスの癒し

 「すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。
 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。
 イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。」(マタイ9:20-22)

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 長血を癒し死人を蘇らせ盲人の目を開くイエス。

 御父は天地を創造し、この天地を統べる自然法則もお定めになられた。
 想像に過ぎないのだが、御子イエスにとっては御父の定められたその法則性の内にある長血も盲目、また死すらも、自らの手の内のものにすぎなかったのではないか。
 そうであるとしたら、数々の病や不具を元に戻すことは、イエスには実にたやすかったのかも知れない。
 ところが、当時の人々は、イエスを神の子と見ることが全くできなかった。
 病を治してくれる預言者、名医ぐらいの認識にすぎなかったと思われる。

 だが、病の治癒そのものよりもずっと大切なことは、この神の子が肉をまとって世に来られたことなのである。
 このイエスの肉は、全人類の肉の罪を処罰するために極刑の十字架上で処理され、そして復活する。そのためにこそイエスは受肉して世に来られた。
 イエスが病を癒すのは、人々にご自身を悟って欲しいからだ。
 神の子を神の子として信じる信仰こそ、その人を肉の罪からの救い、ほんとうの癒しに導くからである。
 ところがイエスを単に腕利きの医者として見るとしたら、2000年を経た現在、これほど意味のないことはない。
 パウロですら、3度願っても「とげ」が取り去られることはなかった(2コリント12:7-9)。

 イエスにとって、治療は目的ではなく手段に過ぎなかった。
 そしてイエスは、私たちの局部的な病を癒すために来られたのではなく、根源的な病であるところの罪を処理するために来られたのである。

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[一版]2012年 3月18日
[二版]2013年11月13日
[三版]2016年 2月21日(本日)

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罪人を招くために来たイエス

 「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。
 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:9-13)

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 マタイをはじめとする取税人や罪人は、コミュニティから外れてしまっている。
 なぜ外れてしまったのかというと、職業柄「あいつは罪人だ」というように指さされてしまったからという気がする。
 では罪とは何によって定まるのであろうか。
 自分の気に入らないから罪人なのであろうか。

 いや、取税人が罪人なのは、律法に照らして明らかである。
 彼らは日ごろの人々からの扱いに堪えていて、それで自分自身の罪性に気付きやすかっただろう。
 マタイはイエスの呼びかけに、すぐに従ってしまう。

 一方、パリサイ人にしても、律法に照らして罪人であることはやはり明らかだ。
 ところが彼らは、自分は律法を遵守できる義なる存在だと思いこんでいる。
 コミュニティから取税人達を追放し、イエスが彼らと食事を取るのにも文句を付ける。
 なんのあわれみも、あったもんではない。その不義にも気付かない。

 イエスは言う。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」。
 自分には罪がなく義なる人間だと思い続けるこのパリサイ人のような人々は、この時点では救いようがないのである。
 救いのスタートラインは、律法に照らして自分が罪人であると悟ることにあり、そのような人を罪から救うためにイエスは来られた。
 罪を罪と分かってこそはじめて救いを求めるのであり、イエスの十字架と復活の恵みが彼ら罪人を解放するのである。

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[一版]2013年11月12日
[二版]2016年 2月20日(本日)

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人間という嵐

 「すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。
 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。
 人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」(マタイ8:24-27)

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 荒れ狂う湖をなぎにするなど、一体どうやればできるのだろうか。
 だがイエスは、たやすく嵐を収めてしまう。
 私たちとイエスとでは、何が違うのだろう。

 神はこの世の全てをお造りになられ、自然界すべてがこの神に統御されている。
 その統御に従わないのは、人間くらいのものだろう。
 私たち人間も神がお造りになったにもかかわらず、アダムの違反以来、人間と神との距離は遠く離れ、人間は神の御前に罪深く、絶えず葛藤を抱えている。
 私たちは神の統御の内にあるときに、もっとも生きやすくできている。
 もともとそのように造られたのである。

 人間の側からその本来の関係に戻ることはできない。人間が湖をなぎにできないのと同じだ。
 神の子イエスがあわれみの手を差し伸べてくださって、それで救われ罪赦されて、本来的な関係性へと戻ることがかなう。
 人間という嵐をイエスが静めるのである。

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[一版]2012年 3月 3日
[二版]2013年11月10日
[三版]2016年 2月14日(本日)

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『死人』への恵み

 「そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」
 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
 また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8:19-22)

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 イエスは律法学者の申し出をあしらい、弟子には「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」と、どうあっても自分について来いという。
 なぜ律法学者は弟子にしてもらえず、もう一人の男は弟子にしてもらえるのだろうか。
 律法学者が従前の律法解釈から離れることができないからだろうか。イエスはもう一人の男をよほど可愛がっていたのだろうか。

 そうではなく、どの人にもイエスの愛は降り注ぎ、どの人も救われる。
 これはむしろ恵みについてであって、もう一人の男がたまたま恵まれたというだけのことだ。
 恵みに理由はない。
 少なくとも、人間に理解できるような理由はない。たまたま、なのである。
 敬虔にすれば恵まれるとか、律法を型どおりに遵守すれば恵まれるとか、そういう因果関係は全くない。

 私たちは敬虔でも何でもない。かけらほども律法を守れない。
 そのことにすら気付かない。なんという死人だろう。
 それほどの盲人(参/マタイ7:3)だからこそイエスの恵みが必要なのであり、この恵みによってそんな死人がイエスの十字架の死に預かって復活を果たす。

 だから、求め続ければ、この律法学者が恵まれるのはもちろんのことで、彼が恵まれて生まれ変わったら、うわべの敬虔さなどかなぐり捨てることだろう。

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[一版]2012年 2月26日
[二版]2016年 2月 7日(本日)

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