からし種ほどの信仰

 「そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」
 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイ17:19-20)

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 イエスは言う。「からし種ほどの信仰」。
 つまりそれは、信仰があるのである。
 信仰とは、あるかないかのどちらかしかなく、たとえば30%信仰があるとかということはない。
 違う言い方をすると、信仰は獲得するものではなく与えられるものである。
 罪を自覚しその十字架を背負って死に、よみがえって与えられる。
 この過程で、私たちの内で何かがごろっと大きく動く。山が動いたのである。
 もし実際の山を動かすほどの力が欲しいと思うとすれば、それは、自分は神になりたいというのと同義になってしまう。
 そうではなく、信仰とは罪赦されて神と和解した結果、神と共にあることなのである。

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死んで生きる

 「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:24-26)

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 いのちとは、また、いのちを見いだすとは。

 ソロモンは賢王で、イスラエル王国に繁栄をもたらした。
 いわゆる「ソロモンの栄華」というやつだが、一方で彼は、伝道者の書(コヘレトの言葉)で「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」(1:2)と虚しさをむき出しにする。
 ソロモンは全世界を手に入れたかも知れないが、まことのいのちを損なってしまったのである。
 もっとも、このいのちはアダムの違反この方、人間から失われ続けており、そのいのちを人間が回復するよう、キリスト・イエスが十字架に死に復活した。

 「自分の十字架を負い、」とは、文字通り、極刑の十字架を自分が背負うことを指す。
 つまり、人間は律法に照らして極刑相当の存在であり、そうとわかれば極刑の十字架に架からざるを得ない。
 それが赦され救われるための、イエスが切り開いた唯一の道なのである。
 すなわち、自分のその十字架を背負ってその十字架に死に、神によってよみがえっていのちを得る(参/ローマ6:5)。
 そのように死んだ者こそ、かえってよみがえりいのちが与えられる。
 罪赦され、神との和解が回復する。心の芯のところに安心感がある。
 一方、上に挙げたソロモンは、こう叫んでいる。

 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」(伝12:1)

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[一版]2010年 7月18日
[二版]2013年11月27日(本日)

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御国をさえぎる者

 「彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。」(マタイ16:12)

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 パリサイ人やサドカイ人を、なぜ気をつけなくてはならないのか。
 それは、我田引水に律法解釈し、それのみならず、その解釈を行うように押しつける、そういった言動によって、自分のみならず、他人をも天の御国から締めだしてしまうからである。
 こうある通りだ。
 「しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。」(マタイ23:13)

 救いの道は、複数ではなくたった一つしかない。
 しかもそれは、広い道ではなく、見つけづらく狭い道だ(参/マタイ7:13-14)
 イエスは、その狭き道を切り開いた。
 それは、十字架に死んで復活する道である。
 一方、パリサイ人達は、我田引水に解釈した広い道をみんなで行こうじゃないか、とやっている。
 福音を伝えに来たイエスは、そのような彼らに気をつけよと仰っている。

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[一版]2010年 7月17日
[二版]2013年11月26日(本日)

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しるし

 「パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。
 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、
 朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。
 悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。」(マタイ16:1-4)

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 しるしを求めるパリサイ人。

 なぜしるしを求めるのだろう。
 しるしを見ることができれば、イエスを信じよう(信じてやろう)ということだろう。
 それでイエスは「悪い、姦淫の時代」と言っている。
 私もかつて教会に行き聖書を買い求めて、よし自分も信じた、そう思ったことがあった。しかし、それが信仰とはとても呼べない内面の動きだったことは言うまでもない。

 信仰は、信じるのではないし、ましてや、しるしの類で納得するものではない。
 イエスによって、信じさせられるのである。
 唯一与えられたしるし、イエスの十字架と復活が内面に入って初めて、そのイエスに信じさせられる。
 そうなるために私たちにできることは、準備を整えてその恵みの時を待つことだけである。

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満腹するやあっさり帰る群集について

 「そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
 人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。
 食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。」(マタイ14:19-22)

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 前々から不思議なのだが、どこまでもイエスを追いかけてきた群集は、給食の奇跡によって満腹するや実にあっさりとイエスから離れてくれる。
 四千人の給食(マタイ15:32-39)でも、全く同様に、あっさりイエスから離れる。
 イエスが与えたいものは「いのちのパン」(ヨハネ6:48)であって、マナのような、それを食べていっときの空腹はしのげても死からは逃れることのできない(ヨハネ6:49)ようなものではない。
 次から次へと飛び出るパンには喜んでも、「いのちのパン」を与えてくれるイエスのそのしるしの意味には全く目が行かない。
 この群集は、イエスを便利な存在としかとらえておらず、それでは単なるご利益宗教にすぎない。

 もっとも、それも無理はない。
 私たちにはイエスがどのような存在なのか、わからないのだ。
 しかし、復活のイエスの方から戸を叩いてやってくる時が来る(黙3:20)。
 その時イエスは「いのちのパン」を与えてくれ、私たちもイエスがどのような存在であるのかをはっきりと了解するのである。

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[一版]2007年 7月22日
[二版]2010年 7月13日
[三版]2012年 4月28日
[四版]2013年11月24日(本日:大幅に変更)

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隠された宝

 「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)

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 私はカネを求めていたかのようで、そうではなかった。
 人からの栄誉を求めていたかのようで、そうではなかった。
 ほんとうに求めていたもの、それが実に、聖書にあった。
 「 わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)
 まさしくイエス御自身こそが、いのちのパン、わき出る泉(ヨハネ4:14)、また永遠のいのち(ヨハネ6:27)そのものであったとは!

 今の私は、特に何かを失ったわけでもない。
 明日も、今まで通り、ごく普通に売り買いするだろう。今まで通りに、怒り、泣き、笑うだろう。ストレスも、依然として大きいだろう。
 人としての営みには、さほどの変化があるとは思えない。
 けれどもなんといっても、イエス、この宝を見いだした満足感の大きさといったらない。

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[一版]2006年 9月 2日
[二版]2008年 8月 2日
[三版]2010年 7月12日
[四版]2012年 4月22日
[五版]2013年11月23日(本日)

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種は蒔かれ続けている

 「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイ13:19-23)

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 種まきのたとえの、イエスご自身による解き明かし。

 4つのタイプの人が登場する。
 この区分けそれ自体は、比較的どうでもよい。
 どの人にも、種は蒔かれているからだ。
 蒔かれ続けている。
 その種が、恵みによってわたしたちの中で実を結ぶこと、それも「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実」を結ぶこと、これだけが大切なことである。
 これはあくまで恵みによるのであり、自力で地質改良して種よ実を結べ、とやることは不可能だ。
 むしろ、蒔かれ続けている種が、わたしたちの中の良い地の部分に恵みによって落とされたか、ということが大切なことになる。

 道ばたに種が落ちようとも、岩地に落ちようとも、また、いばらに落ちようとも、大切なことは種が蒔かれ続けていることなのである。

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[一版]2010年 7月10日
[二版]2013年11月22日(本日)

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まむしのすえたち

 「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。
 良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。
 わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。
 あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:34-37)

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 イエスのパリサイ人批判。
 だが、「まむしのすえたち」ということばの射程は私たちにも及んでいる。

 人はその肉に、よい倉も悪い倉も宿しており、良い物も取り出せれば悪い物も噴き出す。
 もし良い物しか出ないとすれば、それは罪なき肉を持つ神の子だけだろう。
 ともかく私たちの肉は悪い倉を宿している。
 ことばによって罪に定められるのならば、その肉ゆえにことばで失敗しない人間はいないので、肉を持つ全ての人間が神の御前に有罪なのである。

 そのように、まず私たちはその肉ゆえに存在そもそもが罪深いのだと気付かされる。
 そして、その罪から逃れて天の御国に適う者となることは、自力では到底できないということに絶望する。
 そのときイエスの十字架にはりつけにされてイエスと共に死に、そして復活のイエスと共に復活する。
 その過程で私たちは罪に死んだので、依然として罪深い身でありつつもその罪が赦された。
 私たちは罪深いものだが罪から自由になったのである。
 罪を罪とも気付かないパリサイ人の放縦とは、似て非なるものだ。

 イエスから「まむしのすえたち」と言われて、それが実は自分を指していると気付くことが救いのスタートラインになる。

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[一版]2012年 4月 7日
[二版]2013日11月21日(本日)

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パリサイ人は専ら律法を他人に押しつける

 「イエスはそこを去って、会堂にはいられた。
 そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。
 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」
 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。
 パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。」(マタイ12:9-14)

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 パリサイ人を前に、安息日にいやすイエス。

 パリサイ人はイエスに言う。「安息日にいやすことは正しいことでしょうか」。
 しかし、律法とは一体、他人の行動を監視するためのものなのであろうか。
 律法は神が個々人に与えたもので、その人の罪を明らかにし、罪の自覚をもたらすためのものである。
 他人から言われる類のものではないし、また、罪は自分で悟らなくては意味がないから他人がどうこういうのは無意味でもある。
 救いがたいのはこのパリサイ人で、他人にばかり目がついて自分の罪に気付くこともない。それどころか自分は正しいなどと思っている。

 また、律法の解釈問題もある。
 安息日にはいかなる仕事もしてはならないのか。
 神の子イエスは、フレキシブルな解釈をしている。そうしないとかえって救われない人が多いからであろう。そしてそうした方が神の御心に叶うことは明らかだ。
 一方、リジッドなパリサイ人の解釈は、片手の萎えた人を前にして、彼のことなどお構いなしにイエスを訴える名目のことばかり考えている。

 自分を救うための律法なのか、それとも他人を糾弾するための律法なのか。
 それは神の律法が何のために授けられたのかということにかかっている。

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イエスのくびき

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)

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 この世に疲れきった人々、また重荷を背負ってしまった人々への、イエスのメッセージ。

 真に得たいものは一体、この世の物質的なもの(マモニズム)なのか。
 それとも、魂の平安なのか。
 もし魂の平安であるならば、この世のくびきではなくイエスのくびきを負ってゆくことをイエスは勧めている。

 くびきとは、ごく簡潔に書くと、2頭の牛の首にかけて耕す(引っ張る)ための道具(というように聞いた)。
 イエスが片側を、わたしたちはもう片側を、それぞれ首に掛ける。
 そうして二人で荷物を引っ張ってゆく。
 イエスが力添えしてくれるくびきは、世のくびきに比べて負いやすく、そして軽い。
 そのようにして、この世にあってイエスと二人三脚して歩んでゆくと、イエスは魂に安らぎを与えてくれる。

 ちなみに、このイエスのくびきというのは、言い換えると「イエスの焼き印」(ガラテヤ6:17)となる。

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[一版]2008年 8月 1日
[二版]2010年 7月 6日
[三版]2012年 4月 1日
[四版]2013年11月18日(本日)

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