因果を越えたところの恵み

 「さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。
 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。」(ヨハネ5:2-9)

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 以前、この箇所を書いたような気がしたので調べると、2007年4月20日(こちら)に書いている。
 書こうとする内容も、基本的にはあまり違わない。
 それでも書こうと思う。

 ストーリーとしては、「38年男」が癒されるというものだ。
 しかしそれにしても、何故イエスは彼を癒そうとしたのか?
 この男はイエスの「よくなりたいか」という問いに対し、「私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません」と、全くとんちんかんな返答をしてしまう。
 こんなとんちんかんな受け答えにもかかわらず、お構いなしにイエスは癒す。

 まず、たくさんの重病人等で溢れかえっている中、イエスが「38年男」を特に選んだことに、理由は、ない。全くない。
 そして「38年男」がどんな受け答えよしようが、この男は癒される。
 これらのことに因果(原因があって結果がある)は、全く見出せない。
 この因果のない世界こそ、神の恵みだ。
 言い換えると、「なぜ?!」と原因をいぶかってしまうが、喜ばしい、素晴らしいことには違いないことが起こった、こういうのを恵みと言う。
 逆に、人の口にしばしば上るほどには、「神の恵み」という事象は起こらない。

 それでも因果をはるかに超えた神の世界「恵み」自体は、確かに存在する。
 それは、とんちんかんな「38年男」の身に生じたことと同様のことだ。

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[付記]
 本日の記事は、2007年11月15日の記事に手を加えて、また、タイトルも変更したものです。

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