人がほんとうに必要なもの

 「 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(1ヨハネ2:15-17)

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 とにかくあらゆるものが消費されてゆく。物に加えて最近は情報やことばなど、あらゆるものがすさまじい速さで消費されてゆく。
 この世から出た欲が過剰に刺激されて、すべての人が大量に消費している。
 一方で私はあまり消費をしない。
 必需品や消耗品など、必要なものをメモに取って買い物に行く。読書が趣味なので、どんどん買うのは本くらいだろうか。
 しかしそうなったのはここ十数年のことで、それまでは何でもどんどん買っていた。
 上の引用聖句に「もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません」とあるが、むしろ、御父を愛する愛をいただいて、この世との距離ができるようになったと思う。そしてこの愛は自ら獲得するものではなく、十字架と復活のイエスが恵によって与えてくださるものなのである。
 この与えられた愛に心満たされて、それで消費という刺激を必要としなくなったような気がする。

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運命

 「この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。
 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。
 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
 父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」(ヨハネ12:21-28)

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 傑出した芸術家である岡本太郎は、次のように書いている。

    「運命とは自分で切りひらいていくもの---というより、
     向こうから覆いかぶさってくるたいへんな重荷だ。
     圧倒的に重い。やりきれない。
     だからこそ言いようなく惹きつけられるんだ。
     それをまともに全身に受け止め、自分の生きがいに転換するか、
     あるいはていよく逃げるか。
     人間的な人間は、幸・不幸にかかわらず、まともに運命を受け止める。」
     (以下略。「孤独がきみを強くする」,p.68)

 イエスは、自分がなぜ受肉してこの世にいるのかをあらかじめわかっている。
 いままでその時は来ていなかったが、ついにその時が来たのである。
 神の子イエスをして、この重荷に圧倒されてしまっている。
 受け入れる以外にはない運命に戸惑い心が騒いでいる。

 それにしても、運命とはどうしてこうも突然やってくるのであろう。ベートーヴェン第五でのあの有名な出だしも正にそうで、向こうからいきなり扉が叩かれる。
 こういうことが一生のうちで多分数回はある。
 上の聖書箇所でのイエスは、イエス自身の運命を受け入れる以外にはない。
 その点私たちはていよく逃げることもできる。しかしそれでは人生の方から見限られるだろう。
 自力で切り開いてやろうとするほど、よけいにこじれて収拾がつかなくなる。
 そしてこういうときには人はまったくあてにならない。ヨブを見ればよく分かる。
 私たちにできるただ一つのことは、自分の全存在を御父にお委ねすることなのだ。

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神のうちにいる

 「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。
 神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。
 しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。
 神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(1ヨハネ2:3-6)

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 「神のうちにいる」とは、神の側により分けられたということ。聖別されたということ。
 そのようにより分けられると、本人の意志とは関係なく、あのイエスの狭い道を歩むことになる。
 十字架と復活の、救いへと至る狭い道のことだ。
 そして、真理がその人の内にあること、また、神の愛が全うされるというのは、もともとのものではなく、救われた結果なのである。
 すべての始まりが命令、みことばを守ろうとすることにあることは確かなことだ。

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[一版]2018年 8月30日
[二版]2020年 1月13日(本日)

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私たちは罪人である

 「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」(1ヨハネ1:5-10)

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 アダムの肉を持つ人間はそれゆえに罪深く、それどころか日々罪を犯し続ける。
 このままでいくと破滅するしかないそのような私たちを、イエス・キリストが恵みによってその破滅から救ってくださった。
 この救いとはアダムの肉に巣くう罪を赦すこと、赦し続けることであり、罪そのものを犯さなくなるということではない。私たちのアダムの肉が変わったわけではない。
 だから、罪を犯してなどいないと言うなら、「神のみことばは私たちのうちにありません。」、つまりイエスとの出会いをまだ果たしていないのである。
 だがそのようであっても、恵みによってイエス・キリストはみことばを通して出会って下さる。
 そのとき、自分が本質的に罪人であることが分かるようになる。そのぬぐいようのない罪を赦していただいたからである。

 つまり、光に照らされて分かる真理とは私たちは罪人であるということである。

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[一版]2011年 7月 2日
[二版]2020年 1月12日(本日)

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イエスの道筋を共にする覚悟

 「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。」(1ペテロ4:1)

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 救いについて。

 罪のない神の子イエス・キリストは、自ら極刑の十字架に苦しみ肉を殺し、そして三日目に復活した。
 このわざによって、イエスは救いの道を拓き、救いの型を示した。
 私たちのような罪深い者であっても、イエスの道筋をたどることによって、罪のない者と認められて、解放され救われる。
 ただ、この狭い道に、どうやれば入ることができるのだろうか。
 気付くとすとんと入っている。それこそが恵みなのである。
 イエスと同じ苦しみを味わい続け、それは極限に達し、そして生まれ変わる。

 そのためには、心構えも武装も実はいらない。
 私たちは、この狭き道を防具なしで歩むのである。自分に死ぬ道なのに、その上なぜ自分を守ろうとするのだろうか。
 むしろ、必要なのは覚悟なのであり、上の聖句はそのことを武装と言っているのだろう。
 イエスの道筋を歩み、イエスの杯を飲んで、今までも今後もないほどの苦しみを通り抜けるという覚悟である。
 だから、フォークギター片手に「イエスは王」と歌っているのには、個人的には大きな違和感を覚える。

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[一版]2015年 9月20日
[二版]2020年 1月 6日(本日)

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たましいの牧者

 「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(1ペテロ2:24-25)

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 それにしても、私たちは、あるいは私たちの魂は、いったいどこでこの牧者から離れてしまったのだろう。
 まったく思い出すことができない。
 それどころか、私の魂にはもともと牧者などいなかったのではないか。
 もしかすると、ほとんどの人には牧者などいなかったし、今もいないのかもしれない。

 しかし、救われるとはこの魂の牧者のもとに帰ること、あるいは、この牧者に見いだされることである。
 自分の魂もまた、この牧者に見いだされた。
 つらいこと苦しいことがなくなるわけではない。むしろ多いかもしれない。
 それもまた、イエス・キリストの導きの過程でのことである。

 牧者のいない魂というのは、つまり迷子だ。自分もかつてそうだった。
 自分の好き勝手で無頼的だった。正に迷子だったからだろう。刺激に満ちた生活だったのは、迷子をごまかしたかったからかもしれない。
 今は、とっさのときにこの牧者が内側で大きくなる。
 私はこの牧者に守られている。

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相手の側に重心を置く

 「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」(1ペテロ1:22)

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 私はもともと身勝手で、人のことなど考えることの少ない人間だ。
 だから、愛という言葉がまるでわからない。
 世間一般に言う愛についても、また、聖書に言う愛についても、まるで分らなかった。
 アガペーとかフィリアとか言われても、戸惑うばかりだったし、この「兄弟愛」ということばなどは、戸惑いの最たるものだった。

 しかしこんな私もいたずらに歳を重ねた訳ではなく、1つ分かったことがある。
 それは、相手の側に重心を置くことを意識するということだ。
 このことについてはいろいろな言い回し、たとえば相手を思いやるなどがあるが、自分に最もしっくりする言葉は先の「重心」の例えだ。
 それまでは自分に重心を置いて相手から身を守ることばかり考えてきた。
 愛とは何かはいまだに謎だが、自分を守ることばかり考えていたら、それは愛からほど遠いのは明らかだ。

 私はもともと身勝手で、それは今も変わらないのだが、上の聖句が読み手自身の身の振り方のことよりも、読み手の相手についてのものだということは分かるようになった。
 ギリシャ語の意味や翻訳や分類などより、今日も相手の側に重心を置くことを心がけよう。

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自分の魂が救われること

 「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(1ペテロ1:8-9)

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 たましいの救いということについて。

 魂とは何かということを頭で考えるより、魂が救われたことを実感する方がはるかにわかりがいい。
 信仰は観念論ではない。理屈づくで信じるというのではなく、復活のイエスとの出会いによって信じさせられるものだ。ここには理屈はなく、あるのは恵みである。
 大切なことは、自分の魂が救われることである。
 魂が救われると、下腹部から喜びがじんわりとわいてくる。すぐにではないかもしれないが、ともかく、じんわりとわいてくる。
 これは、根拠のないものではない。復活のイエスとの出会いに根拠づけられた喜びである。
 だから、このじんわりとした喜びは尽きることがないのである。

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[一版]2017年 8月20日
[二版]2020年 1月 3日(本日)

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信仰の試練

 「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」(1ペテロ1:7新共同訳)

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 信仰とは、信じるものではなく信じさせられるものである。
 その、信じさせられるときに必ず通るのが、イエスの十字架と死と復活であり、この信仰へと至る道を切り開いたのはイエス自身である。
 つまり、イエスと同様、極刑とされて刑に服して死に、死から復活して信仰に至る。
 これが上の聖句に言う試練であり、かつてない苦しみを味わうこととなる。
 いただいた「いのち」は金銀よりもなによりも得難く、罪赦されて神からの責めはもうない。

 そうなので、私たちが日常味わう試練は、ここでいう試練とは異なる。
 だが、救われた者が、その日常味わう試練に堪えやすくなることは確かだ。
 私たちはイエスが救ってくれたほどの存在なのだ。これは観念上の理解ではなく根拠のある事実である。
 この事実を思い起こせば、大抵のことには堪えることができるようになる。

 この十字架の道は狭い道であって、見つけようとして見つかる類のものではない。むしろ、イエスによってこの道に吸い寄せられるのである。
 パウロ(サウロ)も、自分から信じたのではない。強引に信じさせられた(使徒9:3)。
 恵みとはこういうもので、求めれば誰にでも機会がある。

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[一版]2014年 2月10日
[二版]2015年 9月 6日
[三版]2017年 8月13日
[四版]2020年 1月 2日(本日)

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