証言

 「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについて証言する方がほかにあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。
 あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。
 といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。
 彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。
 しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。
 また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。」(ヨハネ5:31-37)

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 イエスがキリストであると納得させる証言について。
 なぜそのようなことを取り上げるのかというと、「あなたがたが救われるため」、ただこの一点においてのみである。

 「わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります」。
 ひとつは、わざ。
 このヨハネ5章冒頭では、病人を癒している。
 次の6章では、五千人の給食。
 こういった数々のわざは、人にはけっしてできず、神でなくてはできない事柄だ。
 ところが彼らときたら、こうした数々のわざを間近にしても、なおイエスをそうと認めようとしなかった。

 もう一つの証言、「わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます」。
 この証言は、今現在も引き続き響き渡っている。
 聖書という書物の存在がそれで、神はもっぱら、この聖書を通して語りかけ、証言する。
 私は新改訳第二版を用いているが、第三版でも新共同訳でも口語訳でも、ことこの点にかけては全く変わることはない。
 何故かというと、神の語りかけというのは、古代言語の訳出や日本語としての表現という些末なことがらなどはるかに突き抜けて、時が来るとその人の中にいやおうなく入ってくる性質のものだからである。
 そのとき、イエスがキリストであるという、これ以上疑いようのない証拠が与えられて、信ぜざるを得なくなる。
 そしてその時、十字架と復活という最大のわざが分かって救われる。

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[付記]
 一版:2008年 1月26日
 二版:2010年12月18日
 三版:2012年10月17日

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イエスの善悪

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
……
 善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」(ヨハネ5:24,29)

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 善とは何か、悪とは何か。

 善悪とか善し悪しという場合、そこには必ず評価軸が存在する。
 例えば、ある人の行為は刑法という評価軸に照らして刑事罰の有無が定まり、その人の善悪が決定される。
 その評価軸は、TPOに応じて様々なものが用いられる。
 極端な話、人を傷つけ痛めつけることでさえ、彼らの評価軸では善になることがある。

 では、上の聖書箇所に言う善悪の評価軸は、何であろう。
 聖書は表現を変えて同じことを書き綴ることが多いので(一版の書籍全体がそうだが)、文脈を追ってみる。
 すると、イエスの言う善悪の評価軸とは、御父と御子イエスを信じたかそうでないか、ということであることが明白である。それだけ、と言ってもいい。
 考えてみると、イエスが信仰以外のこと、例えばマモニズムという評価軸や、良心の有無という評価軸などを重視していたら、取税人とは関わりを持たないだろう。
(取税人は自分自身を悲しんでいた。)

 すべてイエスを受け入れようとする者を、イエスはそれを善として、喜んで迎え入れるだろう。
 イエスはそのような私たちに、いのちを授け信仰を与えて下さるだろう。
 そのとき、私たちは将来についての大きな心配事から解き放たれる。

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死からいのちに

 「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」(ヨハネ5:21-25)

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 今や実現した恵みによるよみがえりについて。
 「死人」とはずばり、私たちのこと。

 ここでイエスが言う「いのち」とは何であろう。
 罪深いアダムの肉を赦していただくことである。
 この肉が相変わらず醜い肉のままであることに変わりはない。
 しかし、その醜いままで赦していただいた結果、さばきの恐怖から解放され(私たちは罪なき者とみなされているので)、そして約束のものを確信することができるようになる。
 そのようにして死人であった私たちは、イエスから罪を赦していただいて、いのちに移ることができる。

 この「いのち」は、私たちが自ら獲得するものではなく、もっぱらイエス・キリストから賜るものである。
 それも、行ないの報酬としてではなく、恵みによって与えられる。
 恵みによってイエスに出会い、イエスのことばを聞いて御父を信じた者は、上に書いたように「いのち」を賜る。
 「いのち」を賜って、悟りが開ける訳ではないし、明鏡止水の心持ちにもならない。
 むしろそれは、文字通り生きるための力、それも、生きる力が弱まっているときにこそ働く力であり、私たちはその力に根底で支えられる。
 私たちの中にある罪深い肉という障害物が、もはや障害物ではなくなったから、という気がする。

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律法警察

 「イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」(ヨハネ5:8-10)

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 安息日に病人を癒すイエス。

 「六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目には、主の聖なる全き休みの安息を守らなければならない。この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。」(出エジプト35:2)

 「安息日には、あなたたちの住まいのどこででも火をたいてはならない。」(出エジプト35:3新共同訳)

 安息日遵守は律法特に十戒に明記されている。そして、上に挙げたように、繰り返し注意されている。
 当初私は、週に1回は自分自身のために休め、というくらいの意味だと考えていた。
(その意味は確かにあると思う。)
 しかし、「火をたいてはならない」というほどの徹底さが要求されていて、改めて驚くほかなかった。
 これでは安息日には煮炊きもできなければ、暖かなお茶の一杯すら飲めやしない。
 安息日についてのこの律法を遵守することは、苦行となる。
 私は安息日を守ることにかけては絶対的な自信があったが、実は全く守れていなかった。律法を遵守することの、なんと難しいことだろうか。

 このように、アダムの肉を持つ人間が神の完全な秩序である律法を遵守するということは、そのアダムの肉ゆえに不可能なのである。
 言い換えると、律法に照らしたとき人間は生まれながらに罪深い。
 十戒をはじめとする律法が私たちに突きつけることは、あなたは罪深いのだ、ということである。
 もしも自分の罪深さに気付かなかったとしたら、いずれ魂が滅ぶであろう。律法は私たちに、そこからの救いのきっかけを与えてくれるのである。
 その罪に赦しを与えてくださるのが、十字架に架かって死んで三日目によみがえったイエス・キリストである。

 ところがここに、律法警察ともいうべきパリサイ人達が、律法を守れないこと自体を糾弾してまわっている。
 安息日違反はわかりやすいので、あげつらいやすいのだろう。
 彼らは律法は遵守させるべきものと思っている。そして、その遵守ができるように律法自体をねじまげてすらいる。
 罪についての基準なのであるから、律法というのは神-私の2者関係のなかでのみ成り立つものだと思うのだが、律法警察という第三者が勝手に介入してくる。
 彼らは人をあげつらうために律法を都合良く使っているにすぎない。
 そうすると、律法警察の連中ひとりひとりの罪は、一体何によって定められるのか。

 イエスがあえて安息日に人を癒したのは、大きな勘違いを犯しているこの律法警察への挑発であっただろう。
 神の国を曲げているのは、一体どちらの側なのだろうか。

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霊とまことによる礼拝

 「イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:21-24)

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 エルサレムの神殿で礼拝するのも、北イスラエルの人が勝手に定めたゲリジム山(うろ覚え)で礼拝するのも、礼拝、というよりは単なる儀式になってしまう。
 この儀式によっては、人は御父とつながらず、御父は人とつながらない。
 だから御父が、霊とまことによって父を礼拝する者を求めておられる。

 御父と人との間のとりなしを、十字架に架かり復活した大祭司イエス・キリストが執り行ってくださった。
 このイエスに出会うと、肉の罪を知り、また十字架と復活を通してその罪が赦されていることが腑に落ちる。
 罪から自由になり、与えられた「いのち」を生きる。

 その人はそのイエスを通して御父を知った。
(「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」ヨハネ17:3)。
 御父を知っているので、アダムの子孫の祭司による礼拝を要しない。
 復活された御子イエス・キリストを介して初めて、儀式ではない真の礼拝が成り立つ。
 言い換えると、イエスというパイプを通して、御父の霊と人の霊が交わるという礼拝、これが「霊とまこと」による礼拝である。
 そのパイプは、救われて初めて分かったものだ。

 復活のイエスに出会った人は、そのイエスを介して御父とつながり合っている。
 既につながっているので、エルサレムの神殿もゲリジム山も、もはや必要がなくなってしまう。

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[一版] 2010年12月 4日
[二版] 2012年10月 7日(本日)

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約束のもの

 「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。
……
 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
……
 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」
 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
……
 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネ4:6-7,13-14,17-19,42)

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 先日、新聞で小さい仏像の宣伝を見た。
 眺めていると、この仏像には開運なんとか商売繁盛云々かんぬん、あわせて十の御利益がございます、というものであった。
 聖書は、この類の御利益を、あっけないほど約束していない。
 新約が約束するものは、ひとこと、「いのち」だ。
 そしてこの「いのち」は、あるいはあすにでも授かることがかなう。

 サマリアの女の前歴、それは「夫が五人あった」。
 すなわち、とっかえひっかえ、5人の男と結婚しては離婚してを繰り返しても満足できず、そうして今は6人目の男と同居中、そういう、正に底なし沼なのである。
 さびしくて結婚するがそれでもどうにもうまくゆかずに離婚し、それを繰り返す。
 この状態こそ「死んでいる状態」で、何の役にも立っておらず自分自身にも全く満足していない。

 しかしこの女は、イエスに出会う。
 話は飛んで最後、人々の方からこの女に、「この方がほんとうに世の救い主だと知っている」と話しかけてくる。もちろん喜びの表情で。
 サマリアの女はイエスに出会って、「渇かない水」(いのち)を得たのだ。
 イエスが約束するものは、実に、この「いのち」であり、「御利益」ではない。
 むしろ「御利益」とは逆のものかも知れない。
 サマリアの女は、男を何人も取り替えていたのだから、男に困らなかったには違いない。
 だが彼女は男に困らなかったから、さいわいだったか? 心満たされていたか?
 取税人レビ(マルコ2:14)は、イエスの招きに応じて、すぐさま全てを捨てて従った。 取税人の頭で金持ちのザアカイ(ルカ19:2)、彼がイエスを求めるさまは、こっけいですらあるが、それほどまでに、イエスによるさいわいを求めていた。
 カネもまた、心満たす何物をも有していない。
 彼らはみな、「御利益」の方ばかりを向いていた。
 だが皆、「死んで」いた。

 ほかの何物によっても埋めようのないもの。
 そして、それがあれば、もうなにも必要ないもの(参/マタイ13:44-46)。
 それが、「いのち」、十字架に死に復活したイエスが下さると聖書が約束するものだ。
 イエスはもっぱら、「死んでいる状態」の人間に「永遠のいのち」を与えるがために来られた。
 しかも、気が遠くなるほどかなたの約束というわけでもない。
 サマリアの女は、すぐ約束のものにあずかった。
 レビもザアカイも、約束のものにあずかった。


 [一版] 2006年 9月21日
 [二版] 2007年 1月29日
 [三版] 2007年 7月11日
 [四版] 2009年 7月26日
 [五版] 2010年 3月20日
 [六版] 2012年10月 6日(本日)

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内側から湧き出る泉

 「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13-14)

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 サマリアの女とイエスとの問答。永遠のいのちを水になぞらえている。

 喉が渇いて飲む水というのは、また渇いて水を飲むことになる。
 つまり、その都度外部から供給しなくてはならない。
 永遠のいのちというのはそれとは違い、イエスから与えられたならば自らの内側から泉のように湧いて出て来るもので、しかも枯れることがない。

 信仰はあるか、ないかの2つの状態しかない。
 すなわち、永遠のいのちという泉が内にあるかないかのどちらかであり、その泉は復活のイエスが与えてくださるものである。
 復活のイエスに出会ったとき、私たちは信仰に入らされる。喜んで入らされる。自分から信仰に入るということはない(イエスを引っ張ってくることはできないので)。

 行事の類で一時的に盛り上がっては再び冷却してしまうのを繰り返すのは、喉を外からの水で潤し続けるのと同じで、信仰しているとはいえないところがある。
 しかし、内側から泉が湧き出るようになれば、生命力が自分の内側から湧き出てきて、もう、外部から供給される水や行事の類がなくともやってゆける。
 これが信仰の力である。

 彼はこの泉を与えてくださったイエス・キリストと共に歩み、それこそ「霊とまことによって」御父を絶えず礼拝する(ヨハネ4:24)。

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