世の原理

 「イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」
 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。
 このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。」(ヨハネ14:22-25)

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 「わたしを愛する人は、わたしのことばを守ります」。
 「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません」。
 これらは、イエスの言葉を守ったからイエスを愛している(守らないので愛していない)という「逆」の意味として成立するのかどうかは、危ういところだ。
 ただ、イエスを愛する者はイエスの言葉を守るのである。
 では、「イエスの言葉を守る」とは何だろうか。
 私はこれを、このヨハネ福音書でイエスが言い続けてきた言葉たち、これらを受け入れ信じることではないかと思う。
 例えば「あなたがたは互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)を守っているというような意味に取ると、私には全体の意味が取りづらくなってしまう。

 さて、イスカリオテでないユダは問う。世には御自身を現さないのか、と。
 イエスの十字架は、弟子たちをはじめ全世界にさらし者にされた。
 だがその復活のイエスは、弟子たちをはじめ、限られた人にしか顕されない。
 限られた人とは、イエスのみ言葉を受け入れ信じ続けた人である。
 そのような人のもとに復活のイエスは来られ、共に住まわれる。
 すなわち、「永遠のいのち」に与るのである。

 ところでイエスの十字架は、肉の罪への処罰である。
 だが、世はイエスが葬られることそれ自体に快哉を叫んだ。
 「十字架につけろ」と。
 何故なら、世の原理の下にいる限り、その人がイエスという光を愛することはなく、かえって憎むからなのだ。
 それは闇としての世の特性といっていい。
 そのような世の人々の下に復活のイエスが訪れることがないのは、当然のことである。
 彼は信じていないのだから、そもそも復活のイエスそのものが分からない。
 世の原理とは、金銭の多寡等よりも、己を信じるか神を信じるかということではないか。
 そうでなければ、イエスが取税人にあわれみをかけることはなかっただろう。

 イエスはこの世に来られて、すべての人にチャンスを与えた(ヨハネ3:16)。
 だが、世にあってその世の原理に流されずチャンスにあずかる者は少ない(ヨハネ3:17-18)。

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イエスとつながりあう

 「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(ヨハネ14:19-20)

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 「わたしが父におり、……」のくだりは、英語聖書NKJでは 、
  "I am in My Father, and you in Me, and I in you." となっている。
 御父にあるイエス。
 「あなた」は、そのイエスのうちにあり、そしてそのイエスは「あなた」のうちにある。
 「その日」、すなわち復活のイエスに出会って「あなたがたも生きる」日には、イエスとその人との関係は、そのように互いが互いのうちにあるようになる。
 その人は、御父にあるイエスの一部となる。
 また、そのイエスは、その人の一部になって下さるのである。

 御父にあるイエスが、その人の一部になって下さるというのは、その人が義と認められたということである。
 イエスの復活と同じようにして御父によってよみがえった人は、その罪深い肉にもかかわらず、義(正しい)とみなされる。
 「みなされる」というからには、本来の罪深さそのものに変わりはない。
 だが、その罪深さが御父によって赦されたのである。
 罪は律法によるのだから、イエスの歩む狭き道を歩んでよみがえったということは、結局モーセのその律法から解放されて自由になることを意味する。
 律法は最後まで存在する神の秩序なのであるが(マタイ5:18)、その人は律法に死んで恵みに生きるのであって、だからこそ律法の役割が貴重なのだともいえる。

 そして「その日」、その人はイエスの一部になることができる。
 律法その他の介在物なしに、イエスとつながりあうのである。
 このことは、このヨハネ福音書のこれから先、通奏低音として流れ続ける。

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助け主

 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」(ヨハネ14:16-19)

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 このことについて、私はよくわからないという立場だ、と前置きしつつ。

 「助け主」、それから「孤児にはしません」の2つ文章は、なかば当てずっぽうに言うと、同じことを異なる表現で繰り返し表している。
 なぜあえて重複させるのかというと、それほど大切なことだからだろう。
 そうだとすれば、どちらの箇所を取り上げてもいいので、ここでは後者を考えよう。

 イエスは、今まさに十字架に架かろうとしている。
 それは、多くの人の罪を赦すための、最大のわざだ。
 「世はもうわたしを見なくなります」。
 しかし、イエスは復活する。
 「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙3:20)
 イエスはこのように訪れてくださる。
 「あなたがたはわたしを見」るのである。
 それは、信じるその人を孤児にはしないため、また、イエスが復活したのと同様に、その人をよみがえらせて生かすためである。

 復活のイエスに出会う者は誰でも、生きる。

 そのことが、言い方を変えると「もうひとりの助け主」なのではないだろうか。
 「いのち」というのは、おそらく「助け主」なのだろう。
 なぜなら、自らのうちにあるものとは根本的に異なって与えられたものであるという点では同じだからである。

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「どうしてその道が私たちにわかりましょう」

 「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」(ヨハネ14:4-9)

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 トマスはイエスに問い続ける。
 懐疑主義者トマスのこの姿勢の方が、盲従のペテロよりも好ましいのではないか。
 今の世においては、特にそうだ。

 このころ、イエスは十字架と復活の道をいよいよ歩み始めたばかりの頃である。
 だから、トマスが「どうして、その道が私たちにわかりましょう。」と言うのは、もっともなことだ。
 イエスがその十字架と復活によって開通させた狭き道は、ここでイエスが「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と明確に語るとおり、「真理」とか「いのち」というものに続いている。
 山を海に入れと祈ってそのとおりになる、ということは物理的にないかもしれないが、それくらいの大きな変化がその人の内側に起こって彼はよみがえるのである。
 これが、イエスの切り開く道であり、救いの道である。

 ピリポは、イエスがその救いの道を作るために来たことを、まだ知らない。
 さらに、イエスは「もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。」と言っているが、ピリポを始め11人ともこの時点では、イエス御自身をすら知っていない。
 ゆえに、父のことも今はわかろうはずもない。

 だが、復活のイエスに出会うときに、イエスを知り、父を知り、そうしてイエスの道をはっきりと見いだすこととなるのである。

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イエスの道

 「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」(ヨハネ14:4)

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 イエスの道を、わたしたちは知っている。
 それは、極刑としての十字架の死から復活へとつながる、狭き道だ。
 この狭き道しか生きる道は、ない。
 極悪人として処刑され、神に承認されてよみがえるのである。
 もし本当に知っているならば、この道を見失わなうことはけっしてない。

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お大切

 「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
……
 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:1,34-35)
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 このブログで、私は毎回毎回、金太郎飴のように、十字架のこと、復活のこと、要するに「いのち」のことを書き続けている。
 今回は、そこからは外れたことを書いてみる。

 古来、日本のキリシタン達は、愛を「お大切」と言っていた。
 私が耳にした話では、当時のイエスズ会(?)が聖書を日本語に翻訳する際に、直訳して「愛」とはせずに「お大切」と、いわば意訳したとのこと。
 なぜかというと、当時の日本語では「愛」という言葉は良い意味合いではなかったからだとか。
 今日の日本でも、「愛」という言葉には茫漠とした印象を私は持つ。

 さてイエスが与える新しい戒め、それは旧来の律法とは全く異なる。
 「あなたがたは互いに愛し合いなさい」、つまり、互いに大切にしあいなさい、そういう戒めだ。
 この新しい戒めを遵守することにより、近年の心理学者マズローが指摘した「承認欲求」(周りからその存在を承認されたい欲求)を、互いに満たし合うことが叶うだろう。
 ベストセラー「悩む力」(姜尚中 著)という駄本にすら、「相互承認」という同様のことばが登場するが、それほど人は他人から承認されたがっている。
 だから、その人を承認して大切にするということは、その人を愛するということに直結する。
 イエスの「新しい戒め」は、理に叶っているのだ。

 ならばそうすればいいに決まっているのに、人はなぜ、こうも人を愛せないのだろう。大切にできないのだろう。
 「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」
 端的に言えば、世に愛はない。
 この世においては、相手を大切になど、してはいない。
 一見大切にしているように見えて、実は自分「だけ」の利得を追い求めている。
 「金の切れ目が縁の切れ目」、これが世である。
 そうではなく、イエスがこの洗足の場面で大切にした人々は、「世にいる自分のもの」である。この「世」ではない。
 世のごく一部に、(やみを愛するのではなく)光の方にやってくる人がいる(参/ヨハネ3:19-21)。
 そのような人たちの中で、イエスが奴隷になって足を洗った如く互いに仕え合って、互いに承認し合う。これが本来のエクレシアである。

 ところで一方、「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」(マタイ22:39)というイエスの言葉もある。
 この戒めは、本当に大切だ。
 だが、これは律法の戒めであり、「新しい戒め」とは全く違う。
 律法は、人を死に導く機能を果たすものだ。その意味で、本当に大切なのだ。
 神の完璧な秩序・律法を守ることができないという点で、全ての人間は罪の下にある。
 イエスが切り開いてくださった狭き道を歩むことができるならば、罪に死んでイエス同様よみがえり、罪赦されて解放が訪れる。
 そうしてその人は、「新しい戒め」を営むのである。

 イエスが与えられた「新しい戒め」は、互いに大切にし合うことで相手に喜びを与え、自分も喜びを得るものである。

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裏切りということ

 「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」
……
 その弟子は、イエスの右側で席についたまま、イエスに言った。「主よ。それはだれですか。」
 イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。
 彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」
……
 ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。
 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。」(ヨハネ13:
21,25-27,30-31)

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 イスカリオテ・ユダがイエスを裏切る場面。
 ユダが出て行くとき、イエスは「今こそ人の子は栄光を受けました。」と宣言する。

 イエスの栄光とは、極刑たる十字架に架かること。
 十字架に架かって単に死ぬことが栄光なのではない。
 そうではなく、十字架に架かって御自身の罪なき肉を御父に捧げて、信じるすべての人への罪の赦しを与えること、ここにこそイエスの十字架の栄光がある。

 何故、ユダはイエスを裏切ったのだろうか。
 マタイ福音書に書かれているように、カネに釣られたのだろうか。
 それとも、ユダはもっぱら処世のことばかり考えていて、祭司長側に取り入ろうとしたのだろうか。
 単純に「サタンが入った」からだろうか。
 確たることは分からない。

 が、イエスはかねてよりユダについて次のように言っている。
 「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」(ヨハネ6:70)
 「悪魔」をすら、イエスは十二弟子に選んだのである。
 そうすると、イエスはユダが裏切ることをはじめから承知した上で、弟子として選んで彼を愛したのだろう。
 そして、やはり裏切られる。
 というより、イエスにとっては、身内から裏切り者が出ないとイエスが捕らえられる機会が訪れない、というのもあるのかもしれない。

 イエスが捕らえられてのちには、ペテロの否認(ヨハネ18:16-27)もある。
 十字架への道とは、愛した者にさえ次々に見捨てられて、足蹴にされる道である。
 それは、御父と御子だけの関係の中で、御子イエスにしかできない罪のなだめの捧げものをするためであって、すなわちイエスは信じるすべての人を、それでも愛したのである。
 そしてそのことは、こうしてイエスが切り開いた道をあとから歩む者のお手本、型である。

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神からの栄誉

 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」
 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。
 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。
 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。」(ヨハネ12:40-43)

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 「会堂」という語句が出てくる。
 古代ギリシャ語がどうだとかいうことは分からないのだが、次の一点において、「教会」という語句と意味は同じである。
 すなわち、「信じている」もの同士の集まり、社交場、ソサエティとしての機能が、「会堂」(「教会」)には非常に大きい。

 ここに集う者は、「人の栄誉を愛した」。
 社交が「信仰」の全てだったといってよい。
 だから、「会堂から追放されない」ことが、全てに優先する最重要事項になる。

 それは、もとより神を知らずそれゆえ信じてもいないので、「神からの栄誉」など求めようもないからなのである。
 「指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。」とあるが、信じているふりだけで、本来の信心ではない。
 それも無理はない。
 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた」のだからだ。

 だが、キリストはすべての人に救いをもたらすために、今まさに十字架に架かろうとしている。
 そしてキリストは、復活する。
 そのわざを通して盲目の目、かたくなな心が癒されたならば、神を見、キリストを悟ることが叶う。
 そうして神を信じるに至った人には、「会堂」の必要性はどこにもない。
 「人の栄誉」を必要としないからだ。
 彼はもっぱら、「神からの栄誉」を追い求めて日々を送る。

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この世のさばき

 「そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。
 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。
 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」(ヨハネ12:29-31)

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 栄光の時が来たことを悟ったイエスが神に願ったときの、天から神の声について。
 「今がこの世のさばきです」、そうイエスは宣言する。

 十字架という神の栄光が、この世を裁く。
 その裁きとは、サドカイ人を頂点とする支配構造に対する裁きでも、さらに、ローマに対する裁きでもない。
 また、悪人や律法を犯す者等を裁くのだ、という類のことでもない。

 イエスが架かる十字架というのは、裁きである。
 それも極刑としての裁きだ。
 その極刑によって、神の子イエスの肉、罪はないが人間と同じ肉が処罰を受ける。
 その処罰こそ、私たちすべての人間の罪深い肉に対する裁きなのである。
 この世を支配する肉の原理そのものが裁かれ、次いでイエスの復活によって恵みの原理が導入される。

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