孤児にはしません

 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」(ヨハネ14:16-18)

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 イエスは十字架に死ぬのだが、復活する。
 復活して、そして、「わたしは、あなたがたのところに戻って来る」。

 このイエスが共におられ、いつも助けてくださる。
 「助ける」というのは、ツキがよくなるとか福が来るとか、開運だとかというのとは全く違う。
 試練も含めて、私に必要な全てのものを与えてくださる、そういう助け主だ。

 イエスはその御自身のことを「真理の御霊」と表現している。世とは水と油の関係にある。
 個人的には、イエスと呼びたいところだ。
 そのイエスが、共にいてくださる。
 そしてイエスはあなたに「孤児にはしません」と語りかける。
 「孤『児』」なので、イエスが親で私たちは子という関係だ。
(この事は、神がイエスの父であることとも合わせて、ヨハネ福音書の中で繰り返しイエスが仰る。)
 つまり、私はイエスの前で「子でいい」、「幼子でいい」。
 けっして見捨てずいつも共にいて下さるばかりか、この方に幼子のように親しむ事ができる。

 繰り返すと、世とは水と油なのだ。
 その中、「孤児にはしません」、見捨てないどころか親しむ事ができるお方、試練も含め全ての必要なものを与えてくださるお方が内在してくださるなら、なんと心強い事だろうか。


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Do you know …… ?

 「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」(ヨハネ14:6-9)

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 ピリポがとんちんかんな問いを、イエスに投げかけている。
 いや、ピリポの気持ちは良く分かる。
 前は私だって、ピリポの発言の方に頷いていた。
 イエスは仰る。
 ピリポ、長い間一緒にいたあなたも、私を知らなかったのですか、と。

 間近に見ているからイエスを知っている、ということでは、全くない。
 それは例えば、美空ひばりさんのファンだからといって彼女を「知っている」ことからは程遠いということと同じだ。
 美空ひばりのCDや映画を何度観たって、「美空ひばりを知る」ことはできない。
 イエスも同じだ。聖書を何度読んでも、讃美歌をどれだけ美しく歌おうとも、断食祈祷に挑んでも、これらのこと自体によってイエスを「知る」ということは、ない。
 ところが、美空ひばりと違って、「イエスを知る」ことは、できてしまう。
 イエス御自身がその道であり、その道を通ってイエスに至りイエスを知る。

 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とあるのは、ほんとうだ。
 狭き門より入るこの道を見いだすことができるならば、幸いだ。「いのち」を得る唯一の道だ。この道を見いだすための準備として、ひごろ聖書を読み讃美するというもののような気もする。
 ただ、この道の入り口を通過することは、今まで体験したことがないほどに苦しいはずだ。


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イエスの愛

 「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
……
 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:3-5,12-15)

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 イエスが師であり、ここにいる人たちはイエスの弟子だ。
 主従関係は、イエス-弟子。弟子たちが、イエスに従いイエスから学ぶ存在である。
 ところが、そのイエスが弟子たちの足を洗い始める。

 人の足を洗うというのは、奴隷のする実に卑しい仕事だ。
 そうすると、師であるイエスが弟子たちの奴隷になられたということになる。
 イエスの愛とは、本来は神であられるのにもかかわらず、その地位をかなぐり捨てて奴隷として弟子に仕えることだった。
 これが神の愛なのかと思う。

 そしてイエスは仰る。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです」。
 明日職場に行ったらさっそく左隣の奴の足を洗ってさしあげろとか、そんなとんちんかんな話をしているのではない。これでは「おともだちごっこ」だ。
 自分のプライドをかなぐり捨ててでも、他者のために何かを行うこと。
 これが神の愛、その小さな相似形だろう。
 プライドをかなぐり捨てること自体は、比較的容易だ。もっぱら自分のためにならば。
 他者のためにかなぐり捨てる、このことが難しい。
 そしてこのことを為すことができるチャンスは、限られている。
(なにしろ神の愛なのだ。)
 イエスは、公生涯を閉じる前日に、それをなされた。
 神の愛を、存分に示された。


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罪に気付く

 「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」(1ヨハネ1:6-10)

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 「私は罪など犯したことはない!」
 「ああ主よ、私は罪人の頭です」。
 どちらも極端だ。
 それに、罪、ということについて、的はずれだ。

 「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」、これは全くもってそのとおりで、どの人も均等に罪がある。
 なぜなら皆、アダムの子孫なのだから。
 このことについては、こうある。
 「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」(1コリント15:22)
 すべての人はアダムであるが故に死んでいる、これが「罪人」ということだ。

 アダムは、単に神からの命令を破ったというだけではない。
 「善悪の知識の木」の実を食してしまったのだ。
 それまで知らなかった善悪という概念を、知ってしまう。
 そういうわけで、人は善悪それ自体は知っている。
 完全な善というのは、神が示した律法群が照射する。
 もし善悪ということを知らなかったならば、私たちに罪はなかったろう。
(これは、盲人であれば罪はなかったろうがあなたは目が見えると言っているので、そのあなたには罪がある、とイエスが仰ったのと同じことだ。)
 だから、どの人にも均等に罪がある。
 「罪はない」、そんな人はいない。
ただ、気付くかどうかとは、また別だ。そして気付くところが「狭き門」への入り口にあたる。

 「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」。
 十字架の上で流されたキリストの血だけが、この罪をチャラにして下さる。
 罪それ自体はなくならないが、罪赦される。
 その「赦された」ということが心底分かって、深い安堵の息をする。
 上の1コリントの聖句だと「キリストによってすべての人が生かされるからです」が、この罪の赦しに当たる。

 「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
 そうかそれで……、と思うのだが、「罪を言い表す」という行為については大きく考えが隔たると思う。
 「主よ、悔い改めます」というのは、「罪を言い表す」というのとは全く違うというのが私の考えだ。
 そんなに簡単に言語化できるものは、「罪( sin )」ではない。
 この罪( sin )に気付き(このことは上に書いた)、罪を罪と認めることができた(具象化することができた)ときに、あの門は開くように思う。「言い表す」というのは、そういうことのような気がしてならない。

 では、どうすれば「罪」に気付くというのだろう。
 どの人の指導に与ればよいとか、誰それの本を読めばよい、というのは、ない。
 このことはあくまで神が主導権を握っている「恵み」なのだろう。
 だから、ただ祈り求め続けて、そしてもう忘れかけていた頃に「気付く」時が来る、そういう類のもののように思う。

 赦されるということに、人間の側から操作できる方程式や、ましてや必勝パターンは存在しない。
 神だけがご存じの道だ。どこまでも神に主権がある。
 その道の入り口、それは、罪に気付くことだ。
 「罪に気付くこと」は「当たり前のこと」からは程遠い。


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心の貧しい者

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)

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 イエスがなさった山上の説教、その第一言。

 心の満ち足りているとき、人は特に何も求めようとしないし、あえて進もうともしない。
 安逸として地べたに座ってにこにこしている。

 しかし逆に心が飢え乾いているときには、人は、求める。
 あえぎ求める。
 汗かいて東奔西走する。

 「天の御国」に近いのはどちらの状態かは、一目瞭然だ。
 だから、心寂しいとき、その心の貧しさを「貧しい」と自覚する人は、イエスが仰ったとおりに、ほんとうに幸いだと思う。

 聖書の中で暗記しておきたい聖句というのは、上の聖句たった1つなのではなかろうか。


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罪とは

 「私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。
 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。
 キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。
 だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」(1ヨハネ3:1-6)

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 罪( sin )とは何か、今まで全く書けないでいた。
 上の引用箇所には、「罪とは律法に逆らうこと」と明記されている。

 律法ということばを知る者は少なくとも、どの人の心にも、律法が刻み込まれている。
 神から直接授かった、完全な善の調和の世界だ。
 それに逆らったって、無論生きてゆくことはできる。それも、大手を振って堂々と。
(それは昔の私がそうであった。)

 ところが律法に全く逆らうことなく、律法通りにやってゆこうとすればするほど、その人は破綻してしまう。
 このことは、数回ロマ書7章について書いた。
 私は個人的に、律法とは、遙か彼方にあこがれを込めて仰ぎ見るしかないものだと思っている。
 つまり、どの人も律法に逆らい、結果、例外なく罪にまみれているのだ。

 この状態から逃れる道はない、そう思っていたら、「キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています」とある。
 キリストの、いけにえの十字架だ。
 キリストだけが唯一、この罪( sin )を取り除くことがおできになる。
 字義通り、その人に「キリストが現われた」時、キリストがほんとうに分かったときに、罪は取り除かれる。
 そして「私たちは、今すでに神の子ども」にさせていただける。
 アダムの違反からの解放! - 神はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことであろうか。

 罪( sin )それ自体については、依然としてまったくうまく書けない。
 少しずつでも、うまくゆくようになるといいのだが。


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信仰と行い

 「ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。
 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
 人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
 同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。
 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:21-26)

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 「信仰による義」、「行いによる義」。
 上のヤコブ書の引用箇所中、ヤコブは「義」の根拠を「イサクをささげたこと」に置いている。
 一方でパウロは、老齢のアブラハムとサラであっても子を授かるという神の約束を信じたことを「義」の根拠にしている(ローマ3:19-22)。
 根拠が全く違うから、言っていることもおのずと全く異なる。
 ロマ書3章によって救われたルターは、ヤコブ書を「藁の書」と呼んだほどだ。

 だが、アブラハムがイサクをささげたというのは、「行い」だろうか?
 どこまでも神を信じたという「信仰」、その結果ではあるまいか。
 すると、子が生まれることを信じることも「信仰」だろう。
 遊女ラハブのしたこと(ヨシュア記2章)は、「親切」以上の何だというのだ?

 ところで「義」と認めるのは、神だ。
 周囲の人ではない。
 たとえ教会という組織の中であっても、それは同じだ。
 神のみが「義」と認めてくださる。
 そしてそのことは、本人にしか分からない。
 このこともまた、「救い」でも「いのち」でも「回心」でも、ラベルは何でもいい。
 いままでの死んでいた信仰は、ひそやかに本物の信仰へと変容する。

 その人の行いは、一見何も変わらないだろう。
 周囲の人からは、行動上の変化は見いだされない。
(というより、その人は行動を隠す。マタイ6:3-4。)
 ただ、神はその人の行いの変化をお喜びになられる。
 その人は次々と豊かな実を付けてゆく。
 この実も、周囲の人は気付きもしない。
 神がお喜びになる実だ。
 このように、信じればおのずと、人知れず行いにつながる。

 アブラハムがイサクをささげたとき、周囲に誰かがいたであろうか。
 信仰は、どこまでも神-人の関係(信頼関係とまで言っていいと思う。)であるから、周囲の視線や思惑などどうでもいいのだ。
 だから「人知れた行い」は、行いでも何でもない。
 上に書いたマタイ6:3-4には、こうある。
 「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」


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神の慈愛

 「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
 そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。
 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」(ローマ2:1-5)

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 私が2番目に行った教会には、私が密かに「悪口王」と陰口を叩いていた女性がいた。
 なにしろ「悪口王」なので、影で人の悪口ばっかり言っている。
 だが、私が彼女に「悪口王」とレッテルを貼るのだって、裁く行為には違いない。
 「さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」は、このようなことを指す。
 私たちは、人を裁いてばっかりだ。

 しかしそんな人間とは対照的に、神は「豊かな慈愛と忍耐と寛容」をお持ちだ。
 「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」ほどにまで、豊かな慈愛に富んでおられる。
 人を悔い改めへと至らせるのは、さばきではなく神の慈愛だ。
 悔い改めにまで導かれ、そして、人は救われる。
 「いのち」が与えられる。

 このことは、おそらく恵みなのだろう。
 というのは、続いて「かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、……」と続くからだ。
 この人は、未だ悔い改めに導かれていない。
 導かれないままなのか、いつか、やはりただ恵みによって導かれるのか、それは私には分からない。

 人が人を全く裁かない、ということがあり得るのだろうか。
 救われている人は?
 私には甚だ疑問だ。
 ただ、「悪口王」からは、これは意識して卒業しよう。
 聞いてて不快なのだ。
 イエスも仰る。
 「口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです。」(マタイ15:18-20)


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キリストの道

 「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:25-28)

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 偉くなりたい、そう思うならば、皆に仕えよ。
 皆にだ。
 そして、皆の僕(しもべ)たれ。
 これこそキリストが歩まれた道だ。
 このキリストに倣うのである。
 そうして倣っているうちに、「偉くなりたい」なんていう意識はすっ飛んでいることだろう。
 そのときには既に、ほんとうの「いのち」がキリストから与えられている。
 キリストの道には、十字架も含まれている。


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『偉い』という物差し

 「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。
 「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
  だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(マタイ18:1-4)

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 「子どものように自分を低くする者」。
 自分を低くする、とは、どういう意味だろう?
 謙遜な子どもというのは、もしいたら、かえって気持ちが悪い。
 そもそも「子ども」というのは何歳あたりの子を指すのであろうか。

 それにしても弟子というのは、ひどい連中ばかりだと思う。
 誰が一番偉いかなんてことばかり、言い合っている(ほかにも例えばマルコ9:34)。
 「偉い」というのは、その、どーでもいいことなんじゃないのか……。
 しかも「一番偉い」と、妙なことで比較して競い合っている。

 何歳の子どもを想像すればよいものやら分からないのだが、まず確実に言えることは、大人よりも無知で未熟で無力な存在ということだ。
 子ども同士でならば、そういったことでいさかいもあるだろう。
 しかし、百人の子どもがかかっても一人の大人には到底勝てない。
 それくらいに子どもは無力だ。このことは、概ね妥当だろう。
 そして子どもは案外、自分の無力さを知っている。
 駄々をこねて泣くしかない存在であることを、密かに知っている。
 「子どものように自分を低くする者」、それは、この子どものように自分の無力さを分かっている者ではないだろうか。
 神の御前には、どだい何人も無力なのだ。

 神の御前に全く無力であることを認めたとき、「偉い」という物差しに意味は全くなくなる。
 神とその他大勢の人々、その他大勢の中の自分、このような位置付けになろうか。
 イエスは弟子に合わせて「自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人」と仰っているが、「偉い」という物差しを放擲した状態を「よし」としているだけだと思う。
 「よし」とは、「天の御国」の物差しに合うということだ。

 「偉い」を放擲することは、恐らく自力ではできないのではないかと思う。
 大人が子どもに戻ることは、非常に難しいことだ。
 しかし、「神にはどんなことでもでき」る(マタイ19:26)ものだ。

 ちなみに、「低い」というのは「謙遜」という意味ではないような気がする。
 少なくとも福音書には、この言葉は全く使用されていない。
(新約聖書全体でも、6箇所だけだ。)
 思うに、「低い」というのは「神-人」の関係性で用いられる一方、「謙遜」は「人-人」の関係性で用いられるところからして、意味合いとして大きく異なってくるのではないかと思う。


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