主が正しい

「そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」(出エジプト15:26)

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 聖書なんてのは、あんまり開きたくはないんです。
 どうしても、頭に入らないからです。いやーな事ばっかり、次から次へと思い出しちゃって。
 ちなみに、聖書そのものは、すばらしきもの、それなくしては生きることのできない羅針盤だと思っています。

 あることを知りたい、そう思って開いた出エジプト記。
 案の定、いやーな事ばかり思い出して、ちっとも頭に入らない。
 上の聖句のある箇所に蛍光ペンが引かれてて、それで目に入りました。
 節全体を蛍光ペンで塗ったくったのではありません。
 ここにだけ、引かれていました。
 「わたしは主、あなたをいやす者である。」
 確かに、主はいやします。
 けれども、ここにアンダーラインを引いちゃうってのは、我田引水です。
 自分の願望が、聖書のここに載っている、っていう。
 御利益宗教ですね。

 で、改めて上の聖句の全体を読んで、こころの中で、違う箇所にアンダーラインを引きました。
 それは、この箇所です。
 「主が正しいと見られることを行ない、」
 あるいはこの「アンダーラインの引き方」もまた、我田引水なのかもしれません。
 ただ、私は「はっ」とさせられました。

 正しい/誤りの基準。
 それは自分なぞにあるのではなく、神にあるのですね。
 昔の日本人の言葉を借りれば、「お天道様が見ている」っていう。
 当たり前といえば当たり前のことなのですが、再認識させてくれました。
 だからこそ、聖書は羅針盤なのです。

 自分を善悪の基準に据えると、ひたすらしんどい、このことは確かなようです。
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