イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
預言の射程
(1)「その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。――
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ31:32-34)
(2)「またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。
キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」(ヨハネ7:41-42)
(3)「彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。
男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。」(使徒3:3-8)
---
イエスの公生涯のときには、イエスがどこの出身かについて(2)のように、すなわち、ミカ書に預言されているとおりベツレヘムではないのか?と物議を醸している。
イエスが復活されてのち、ペテロはイエスの御名を用いる時に「ナザレのイエス・キリストの名によって」と言っている。
「ベツレヘムのイエス」ではないのだ。
福音書以降の書簡群、使徒行伝それから黙示録は、イエスが復活された後に書かれたものであるが、ヘブル書以外には旧約の預言からの引用をほとんど見いだすことができない。
(ざっと見ただけなので、まだなんともいえないが。)
そして、ベツレヘムで生まれたのかも知れないイエスについて、預言書は無視され「ナザレのイエス」と称せられる。
(ナザレはガリラヤの町。)
ところで、上の(1)には、その預言書・エレミヤ書の一節を掲げた。
新しい契約について、神は預言者エレミヤを通して語っている。
その新しい契約とは、
(A)「わたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
(B)そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。
(C)わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。
というものである。
上の(A),(B)からすると、もはやどの人も主を知っており、主について教えたりすることもない、そのような世界になることが新しい約束だ。
それは(C)にあるように、どの人も罪赦されるからだ。
ところで預言者というのは、エレミヤやミカのように、神が選ばれた召されし者を通して神の御心を人々に伝える、そのような存在であった。
ところが、上に書いた新しい契約が実現すると、もはやどの人も主を知っているのだから、いわばメッセンジャーとしての預言者は全く不要となる。
古い約束の範疇に含まれる預言、預言書は、イエスが十字架に死んで復活した新約の時代以降、廃れてしまったのではないだろうか。
引用聖句の(3)に戻ると、ペテロもミカ書の記述は知っていたと思う。
だが、ペテロの心に書き記されたのは「ナザレのイエス・キリスト」であった。
ミカ書の預言とは異なる。
だが、そんなことはまったくお構いなしに、男は歩けるようになる。
以上、預言一般の射程の長さについての仮説である。
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彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ31:32-34)
(2)「またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。
キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」(ヨハネ7:41-42)
(3)「彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。
男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。」(使徒3:3-8)
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イエスの公生涯のときには、イエスがどこの出身かについて(2)のように、すなわち、ミカ書に預言されているとおりベツレヘムではないのか?と物議を醸している。
イエスが復活されてのち、ペテロはイエスの御名を用いる時に「ナザレのイエス・キリストの名によって」と言っている。
「ベツレヘムのイエス」ではないのだ。
福音書以降の書簡群、使徒行伝それから黙示録は、イエスが復活された後に書かれたものであるが、ヘブル書以外には旧約の預言からの引用をほとんど見いだすことができない。
(ざっと見ただけなので、まだなんともいえないが。)
そして、ベツレヘムで生まれたのかも知れないイエスについて、預言書は無視され「ナザレのイエス」と称せられる。
(ナザレはガリラヤの町。)
ところで、上の(1)には、その預言書・エレミヤ書の一節を掲げた。
新しい契約について、神は預言者エレミヤを通して語っている。
その新しい契約とは、
(A)「わたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
(B)そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。
(C)わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。
というものである。
上の(A),(B)からすると、もはやどの人も主を知っており、主について教えたりすることもない、そのような世界になることが新しい約束だ。
それは(C)にあるように、どの人も罪赦されるからだ。
ところで預言者というのは、エレミヤやミカのように、神が選ばれた召されし者を通して神の御心を人々に伝える、そのような存在であった。
ところが、上に書いた新しい契約が実現すると、もはやどの人も主を知っているのだから、いわばメッセンジャーとしての預言者は全く不要となる。
古い約束の範疇に含まれる預言、預言書は、イエスが十字架に死んで復活した新約の時代以降、廃れてしまったのではないだろうか。
引用聖句の(3)に戻ると、ペテロもミカ書の記述は知っていたと思う。
だが、ペテロの心に書き記されたのは「ナザレのイエス・キリスト」であった。
ミカ書の預言とは異なる。
だが、そんなことはまったくお構いなしに、男は歩けるようになる。
以上、預言一般の射程の長さについての仮説である。
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