イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
御声を聞くとき
「また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。
また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:37-40)
---
信仰とは、自分で持とうと思って持つものではない。与えられて信仰に至るのである。
では、いつ与えられるのだろう。
御声を聞き御姿を見たときである。
だが、こちらから探してもイエスはみつからない。
黙示録にあるように、イエスが私たちのもとを訪れる。
そのときに、御声を聞き御姿を見る。
このイエスが私の内に内住してくださる。みことばがうちにとどまる。
全く新しい光が聖書に当てられる。
これが「いのち」である。
---
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また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:37-40)
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信仰とは、自分で持とうと思って持つものではない。与えられて信仰に至るのである。
では、いつ与えられるのだろう。
御声を聞き御姿を見たときである。
だが、こちらから探してもイエスはみつからない。
黙示録にあるように、イエスが私たちのもとを訪れる。
そのときに、御声を聞き御姿を見る。
このイエスが私の内に内住してくださる。みことばがうちにとどまる。
全く新しい光が聖書に当てられる。
これが「いのち」である。
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恵みということ
「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
……
父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」(ヨハネ5:5-8,21)
---
長年の病気持ちにイエスは「よくなりたいか」と尋ねる。
「子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」、つまり救いは恵みである。わざではない。
救いたいと思う人をイエスは救うという恵み。
イエスは、この38年間もの長きにわたって病気である人を、癒したいと思った。
38年もの長患いだから、というのはあまり関係がないような気がする。
この人を救いたくなったから救った、これが全てなのではないだろうか。
大勢の病人がいた中で、この人を救いたくなって、そして救った。
なぜこの人なのかは、私たちには全くわからない。
恵みとは、このようなもので、因果関係を越えた世界である。
善行をよりたくさん行った結果救われます、というのとは異なる。
むしろ、恵みとはあわれみの類なのかもしれない。
とはいっても、そもそもイエスにを信じていない人が恵まれるであろうか。
イエスはひとりでもパリサイ人を救ったであろうか。
イエスに「よくなりたいか」と問われた病人は、イエスの問いとは無関係な、池の水がどうの、という、とんちんかんな答えをイエスに返す。
これはこの病人が長年人々から見捨てられていたからで、ともかく日頃自分の思っていること(うっぷんの類)をひさびさの話し相手であろうイエスにぶちまけているだけだ。
だがこの病人もまた、その人なりにイエスが自分を何らかの形で助けてくれると思っており、これもまた、小さな信心であろう。
イエスを信じてこそ因果関係をはるかに越えた恵みがあり、病人はその恵みにあずかった。
この病人は何かよきことをしたわけではない。
わざによってではなく、信じることによってこそ恵まれ救われるのである(参/ローマ3:28)。
---
[一版]2010年12月10日
[二版]2014年 6月13日
[三版]2017年 2月25日(本日)
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イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
……
父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」(ヨハネ5:5-8,21)
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長年の病気持ちにイエスは「よくなりたいか」と尋ねる。
「子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」、つまり救いは恵みである。わざではない。
救いたいと思う人をイエスは救うという恵み。
イエスは、この38年間もの長きにわたって病気である人を、癒したいと思った。
38年もの長患いだから、というのはあまり関係がないような気がする。
この人を救いたくなったから救った、これが全てなのではないだろうか。
大勢の病人がいた中で、この人を救いたくなって、そして救った。
なぜこの人なのかは、私たちには全くわからない。
恵みとは、このようなもので、因果関係を越えた世界である。
善行をよりたくさん行った結果救われます、というのとは異なる。
むしろ、恵みとはあわれみの類なのかもしれない。
とはいっても、そもそもイエスにを信じていない人が恵まれるであろうか。
イエスはひとりでもパリサイ人を救ったであろうか。
イエスに「よくなりたいか」と問われた病人は、イエスの問いとは無関係な、池の水がどうの、という、とんちんかんな答えをイエスに返す。
これはこの病人が長年人々から見捨てられていたからで、ともかく日頃自分の思っていること(うっぷんの類)をひさびさの話し相手であろうイエスにぶちまけているだけだ。
だがこの病人もまた、その人なりにイエスが自分を何らかの形で助けてくれると思っており、これもまた、小さな信心であろう。
イエスを信じてこそ因果関係をはるかに越えた恵みがあり、病人はその恵みにあずかった。
この病人は何かよきことをしたわけではない。
わざによってではなく、信じることによってこそ恵まれ救われるのである(参/ローマ3:28)。
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約束のもの
「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。
……
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
……
女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」
女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
……
そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネ4:6-7,13-14,17-19,42)
---
先日、新聞で小さい仏像の宣伝を見た。
眺めていると、この仏像には開運なんとか商売繁盛云々かんぬん、あわせて十の御利益がございます、というものであった。
聖書は、この類の御利益を、あっけないほど約束していない。
新約が約束するものはただ一つ、「いのち」だ。
そしてこの「いのち」は、あるいはあすにでも授かることがかなう。
サマリアの女の前歴、それは「夫が五人あった」。
すなわち、とっかえひっかえ、5人の男と結婚しては離婚してを繰り返し、そうして今は6人目の男と同居中というもので、正に底なし沼というほかない。
この状態こそ、正に死んでいる状態で、何の役にも立っておらず自分自身にも全く満足していない。彼女は虚無感でいっぱいだったろうと思う。
しかしこの女は、イエスに出会う。
話は飛んで最後、人々の方からこの女に、「この方がほんとうに世の救い主だと知っている」と話しかけてくる。
サマリアの女はイエスに出会って、「渇かない水」(いのち)を得たのだ。
イエスが約束するものは、実に、この「いのち」であり、「御利益」ではない。
サマリアの女は、男を何人も取り替えていたのだから、男には困らなかったわけで、ある意味、たいへんに満たされているのだ。だが彼女はそれでさいわいだったか? 心満たされていたか?
取税人レビ(マルコ2:14)は、イエスの招きに応じて、すぐさま全てを捨てて従った。カネもまた、心満たす何物をも有していないのである。
御利益を求めれば求めるほど、本当に欲しいものから離れていってしまうのではないか。
ほかの何物によっても埋めようのないもの。
そして、それがあれば、もうなにも必要ないもの(参/マタイ13:44-46)。
それが「いのち」であり、十字架に死んで復活したイエスが下さると聖書が約束するものだ。
イエスはもっぱら、死んでいる人間に永遠のいのちを与えるがために来られたのである。
サマリアの女は、すぐ約束のものにあずかった。レビも約束のものにあずかった。
---
[一版]2006年 9月21日
[二版]2007年 1月29日
[三版]2007年 7月11日
[四版]2009年 7月26日
[五版]2010年 3月20日
[六版]2012年10月 6日
[七版]2017年 2月24日(本日)
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……
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
……
女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」
女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
……
そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネ4:6-7,13-14,17-19,42)
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先日、新聞で小さい仏像の宣伝を見た。
眺めていると、この仏像には開運なんとか商売繁盛云々かんぬん、あわせて十の御利益がございます、というものであった。
聖書は、この類の御利益を、あっけないほど約束していない。
新約が約束するものはただ一つ、「いのち」だ。
そしてこの「いのち」は、あるいはあすにでも授かることがかなう。
サマリアの女の前歴、それは「夫が五人あった」。
すなわち、とっかえひっかえ、5人の男と結婚しては離婚してを繰り返し、そうして今は6人目の男と同居中というもので、正に底なし沼というほかない。
この状態こそ、正に死んでいる状態で、何の役にも立っておらず自分自身にも全く満足していない。彼女は虚無感でいっぱいだったろうと思う。
しかしこの女は、イエスに出会う。
話は飛んで最後、人々の方からこの女に、「この方がほんとうに世の救い主だと知っている」と話しかけてくる。
サマリアの女はイエスに出会って、「渇かない水」(いのち)を得たのだ。
イエスが約束するものは、実に、この「いのち」であり、「御利益」ではない。
サマリアの女は、男を何人も取り替えていたのだから、男には困らなかったわけで、ある意味、たいへんに満たされているのだ。だが彼女はそれでさいわいだったか? 心満たされていたか?
取税人レビ(マルコ2:14)は、イエスの招きに応じて、すぐさま全てを捨てて従った。カネもまた、心満たす何物をも有していないのである。
御利益を求めれば求めるほど、本当に欲しいものから離れていってしまうのではないか。
ほかの何物によっても埋めようのないもの。
そして、それがあれば、もうなにも必要ないもの(参/マタイ13:44-46)。
それが「いのち」であり、十字架に死んで復活したイエスが下さると聖書が約束するものだ。
イエスはもっぱら、死んでいる人間に永遠のいのちを与えるがために来られたのである。
サマリアの女は、すぐ約束のものにあずかった。レビも約束のものにあずかった。
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[一版]2006年 9月21日
[二版]2007年 1月29日
[三版]2007年 7月11日
[四版]2009年 7月26日
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礼拝について
「イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:21-24)
---
神への礼拝をどこで、また、どのようにしておこなうかということについて。
そもそも、神への礼拝とは何であろう、神への祈りとは何であろう。
個人的には、私たちの御父にお会いすること、お話しすることだろうと思っている。
私たちは、復活のキリストとの出会いを通して、既に御父を知っている。
その、既に知っている神と共にあって、事あるごとに話しかける。
いいかえると、いつも礼拝していて、いつも祈っている。
何をしていようが、そうなのである。
聖なる時にも俗なる時にも、貴の時でも卑の時でも、そうなのである。
寺や神社にいてすら、そうである。
これが、イエス・キリストによる神との和解の結果である。
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救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:21-24)
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神への礼拝をどこで、また、どのようにしておこなうかということについて。
そもそも、神への礼拝とは何であろう、神への祈りとは何であろう。
個人的には、私たちの御父にお会いすること、お話しすることだろうと思っている。
私たちは、復活のキリストとの出会いを通して、既に御父を知っている。
その、既に知っている神と共にあって、事あるごとに話しかける。
いいかえると、いつも礼拝していて、いつも祈っている。
何をしていようが、そうなのである。
聖なる時にも俗なる時にも、貴の時でも卑の時でも、そうなのである。
寺や神社にいてすら、そうである。
これが、イエス・キリストによる神との和解の結果である。
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こころに湧き出る泉
「彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:11-14)
---
ここでイエスが言う渇きとは、いわば心の渇きのこと。
たとえば、「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」(コヘレト1:2新共同訳)というのは、心の渇きを超えて干からびきってしまっている。
そして、このように心がからからに干からびてしまった人は、少なくないに違いない。そうであること自体に気づかない人は、もっと多いだろう。
この渇きを一時的に潤すことはできる。
ヒルティが否定的に言うところの「教会行事」、遊興の類、さらに、日々の仕事ですらそうだろう。
だが、こうしたものはごまかしにすぎず、あくまで一時的でしかないので、何度も何度もやらなくてはならない。
対症療法なのだ。井戸の水を飲んでも、すぐにまた渇いてしまう。
ここでイエスが与えようとするものは、対症療法の類ではなく抜本的な治療である。
イエスは、その人の内側に泉という水源そのものを与えるのである。
その泉からは尽きることなくいのちの水があふれ出て、絶えず心を潤してくれる。
もちろんこの世は荒んでいるので、私たちもたまに心荒むことはある。
私たちはアダムの肉を持つ身にすぎないので、そのようになりかけること自体は当然のことである。
けれども、その内側の泉からの水が流れてきて再び潤してくれる。
だから、倒れそうになっても倒れない。
空しさを感じるときがあるとしても、一時的なものにすぎない。
なにより、しんから絶望することがない。
それがすなわち「いのち」であり、イエスは求める者誰にでも、この「いのち」を分け与えてくださると約束している。
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[一版]2014年 6月 7日
[二版]2017年 2月 4日(本日)
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あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:11-14)
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ここでイエスが言う渇きとは、いわば心の渇きのこと。
たとえば、「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」(コヘレト1:2新共同訳)というのは、心の渇きを超えて干からびきってしまっている。
そして、このように心がからからに干からびてしまった人は、少なくないに違いない。そうであること自体に気づかない人は、もっと多いだろう。
この渇きを一時的に潤すことはできる。
ヒルティが否定的に言うところの「教会行事」、遊興の類、さらに、日々の仕事ですらそうだろう。
だが、こうしたものはごまかしにすぎず、あくまで一時的でしかないので、何度も何度もやらなくてはならない。
対症療法なのだ。井戸の水を飲んでも、すぐにまた渇いてしまう。
ここでイエスが与えようとするものは、対症療法の類ではなく抜本的な治療である。
イエスは、その人の内側に泉という水源そのものを与えるのである。
その泉からは尽きることなくいのちの水があふれ出て、絶えず心を潤してくれる。
もちろんこの世は荒んでいるので、私たちもたまに心荒むことはある。
私たちはアダムの肉を持つ身にすぎないので、そのようになりかけること自体は当然のことである。
けれども、その内側の泉からの水が流れてきて再び潤してくれる。
だから、倒れそうになっても倒れない。
空しさを感じるときがあるとしても、一時的なものにすぎない。
なにより、しんから絶望することがない。
それがすなわち「いのち」であり、イエスは求める者誰にでも、この「いのち」を分け与えてくださると約束している。
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