core

 「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」(詩11:3)

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 昼休みは「静かな場所」にて詩篇を開く。
 「読む」というよりは、「眺めている」に近い。
 それも「うすぼんやりと眺めている」だけ。
 それでも十分に、十二分にリフレッシュでき、それで午後を全うできる。

 冒頭の聖句は、木曜の昼休みに、やはりぼんやりとぱらぱら眺めていたら、ぽーんと目に入ってきたもの。
 すぐさま手元の小さいノートに、4色ボールペンの「赤」を「起用」して、「詩11:3!」と殴り書る。
(この「詩」という「文字」の「乱筆ぶり」といったら、自身にしか判読できないほどだ。それもかろうじて。)
 この「赤の部分」だけ、相当「紙」がへこんでいる。強い筆力!
 そして、少々のコメント。これは「青」で、さらさら。

 「拠り所」。
 この「ことば」は、ほんとうに大きかった。

 今の私は、タイトルに記したとおり、「このことば」を " core " と表記している。
 「核」でも「中心」でも「原点」でも「軸」でも「芯」でも、なんでもいい。
 その人にとって「おさまり」がよい「ことば」であれば。

 core 。
 「私の core 、それは『聖書』です。」
 即答!
 更に言うなら、「私の core 、それは『私はいのちのパンです』と仰るお方です。」
 これ以上でもこれ以下でもない、これぞ core !

 この core に気付いたなら、あとは「考え」がするすると紡ぎ出される。それを「青」でさらさらと端的に書き留めた。

 今私が携わっている職分、これは "task " 、 この「ことば」がよく馴染む。
 「仕事」とは、「似て非なるもの」だ。
 「プロ」、うーん、ねぇ……。まあ、それで「メシ食っている」ことには違いないんだが……、うーん……。
 "work" ……, " What ? …… "
 まさに "task " 。
 この「ことば」が just fit したとき、荷が非常に軽くなる(参/マタイ11:30)。
 ぞんぶんにリフレッシュできた! そう思えたので、昼休みなんざ早々に切り上げてデスクへと向かう(心の中で鼻歌歌って)。
 「昼休み終了」のチャイムが鳴ったのは、その随分後だ。

 core 。
 「それ」が何であってもいいと思う。
 が、自身、 core を問われて、「即答」できる!
 「この事実」には、大いに安んじた。

 それで「今日の小記事」は、この木曜以来ほんじつ日曜日まで丁重に温めて、そうして、「あくまで小仮説」程度のものとして、けれども、どこまでも丁寧に造形することを試みている。
 そう、core が「イエス」であるゆえ、この「聖書ブログ」こそ「職業」だ。
 それも無報酬の(参/マタイ10:8)。
 誰が見ているか、大勢の人々が見ているか、そういったことは、ものの見事に無頓着だ。
(アクセス解析? というものを、私は一度としてやったことがない。)
 「自身の記録簿」以上の位置付けは、あまりないからだ。

 core を即答できると、「己の周囲」のかなりのものを「きちんと位置づけしてあげる」ことができる。
 本職を "task " と位置づけできたことは、その好例だ。
 いろいろな事象について、「現時点での位置づけ」をすることができる。

 2年後には、この「位置づけ」は全く変わっているかも知れない。
 それでいい。
 なにしろ core はゆるがない。
 「2年後」、「その必要」が生じたならば、再び「位置づけ」を、それも「さらさらと」できるはずだ。

 「このこと」について、イエスは次のように言っている。

 「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」(マタイ7:24)

(これは、ついさっき、ふと思いついた。さすが「山上の説教」だ。)

 かくように、「ことば」の力というものは、「働くとき」にはとてつもなく大きい。

 「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、」(1ヨハネ1:1)。

 いっぽう回想するに、「ことば」という term は、次の聖句によってもっぱらサポートされていたと思う。

 「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(1コリント1:21)。

 そう、「宣教」の方が先に来ていた!
 「最後の牧師との対話」のとき、自身のレゾンデートルについて、彼はこの「1コリント1:21、の後半」を、まるまる間違うことなく「引用」した。「聖書にはこう書いてある」、と、前置きした上で。
 「前半」ならば、頷くこともできただろう。

 「ことば」、それは「イエス」だ(上の1ヨハネ1:1そのままだ)。
 これぞ私の core 。

 最後に、 この core が定まると、すぐさま " boundary " が浮き上がってくる。
 これこそが本丸だ。
 " core - boundary " 。
 これを具体化するほんの一例が、上に書いた「位置づけ」作業だろう。
 職分を " task " と書いたことは、最もよい好例だ。
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fighting myself

 「ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。
  ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。」(創32:25-26新共同訳 -新改訳、口語訳では24-25)

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 昼休みは、静かな空間で新約聖書(詩篇付)を開く。
 もっぱら詩篇ばかり、眺めている。
 眺めていると、ふと、上の聖書箇所を思いついた。

 「何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」。
 いったい、「何者」だろう?
 そして、彼は「ヤコブに勝てない」、そう思ったという。
 ヤコブに勝ち目がないとみた彼が、しかし、このヤコブに「致命傷」を食らわす。

 ヤコブにとって、それは長い夜だったことだろう。

 家に帰って聖書を開き、すると、タイトルに記した英文を思い起こした。
 デビッド・シルビアンというイギリスのボーカリストが、好んで用いていた語句だ。
 私はいったい、「何」と「こんなにまで戦っている」のだろう……、常々感じていることだ。
 2つの説に絞られてきた。が、どちらも収まりがよくない。
 また、「解法」があるとも、思っていない。
 ただ確かなことは、今しばらく、私は「長い夜」を過ごすのだろうということで、このことは受け入れることができる。

 ちなみに、ヤコブの「この話」は「前後」があるのだが、今日は敢えて「ここだけを」取り出してみたことをお断りしておく。
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『問題』の自覚

 「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」
 そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。
 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」(マルコ1:1-5)

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 昼休み、ぼんやりと思いついた。
 「『問題』のない人など、およそいないだろうに」。
 そう思いつくや、冒頭の聖句が思い出された。

 「ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して」。
 そう、誰も彼も、多かれ少なかれ種々雑多な「問題」を抱えており、その「問題」の解決を図りたいと芯から願っている。
 その証左に「ユダヤ全国の人々」が一人の元に集まってくるではないか。

 そして、イザヤは預言した。
 「わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう」。
 実に、神であられたイエスが来られたのである。
 眠いので、この辺で。
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仕返しの愚

(1)
 「すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26:51-52)

(2)
 「 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)

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 仕返しをするが故に剣を取る、これは実は自らを滅ぼす道であるがゆえに、「みな剣で滅びます」ということになる(1)、自らを省みて、つくづく実感する。
 「やった奴」が「悪い者」かどうかというよりも、彼にあがなうこと自体が己に負けることであって自らを滅ぼし、結果、たいせつないのちを失ってしまうことになる(2)。

 「剣」かどうか、それは本質的なことでは全くない。
 また、異なった言い方をするならば「実に様々な剣の形態」が存在し、それらは今の日本でも乱れ飛んでいる。
 あぎたなく言うならば、「剣産業、剣社会」だ。
 もっぱら自らを守るため「のみ」であるならば、それは愚の骨頂と思う。
 仕返し、それは、「目的の達成」からは最果ての地にあるものだ。

 この点で、イエスは最初から最後まで一貫している。
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存在意義(レゾンデートル)

(1)
 「知れ。主こそ神。
 主が、私たちを造られた。
 私たちは主のもの、主の民、
 その牧場の羊である。」(詩100:3)

(2)
 「実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、 あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。
 キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。」(1コリント1:11-13)

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 「主が、私たちを造られた」、ここにこそ、我の存在理由(「レゾンデートル」)を見いだす。(1)
 ところが集団になると、「話つぃはパウロにつく」、「私はアポロに」……をやってしまう。(2)
 これは実に、単に主を自らのために利用したいからであって、これを指してご利益宗教という。

 繰り返すが、「主が、私たちを造られた」。
 ただ主のみがある(そしてそれは、厳格極まりない「全き聖なる律法」の所以でもある)。
 すると、パウロもアポロも、何もない。
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良い生活

 「実際キリストはこの世でただ急いで苦しみを受け、そして死なねばならなかったばかりでなく、なおその前に生活をされて、サドカイ人の現世的信仰やパリサイ人の教会主義では行えないような良い生活ができることを、またどうすればそれができるかを教えなければならなかった。この点を、すなわち、このような生活を、われわれはキリストにならうべきであり、また同時に、われわれの負うべき苦難と試練の分け前を忍耐をもって受け取り、彼に従ってそれに打ち勝たねばならない。」
(ヒルティ、「眠られぬ夜のために 第一部」(草間・大和訳、岩波文庫)、2月2日の項より。)

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 ある人にメールをしたためようと思い、すると「眠られぬ・1」の中にあることばを引用したくなって、読み始める。
 本末転倒になってしまい、もっぱら読みふけってしまった。
 読みふけったさ中、書き留めたく思ったのが冒頭の文章。
(ちなみに、「引用したく思」った文章も、無事見つかった。)

 「良い生活」とある。

 ここで問われるのは、もっぱら「何が『良い』か」という価値基準だ。
 ヒルティが消去法によってまず否定しているのが、「サドカイ人の現世的信仰」、それと「パリサイ人の教会主義」である。

 話が飛ぶようだが、やはりほんじつ再読していた「余は如何にしてキリスト教徒になりし乎」の中に、こうあった。
 「異教国以外の『国々』に(註:!)かくも普通に行われている金銭万能主義(マモニズム)や…の恐ろしい祟り(たたり)の多く……」(岩波文庫版ではp.14)
 マモニズム、これを今の私はもっぱら「マテリアルワールド」と呼称しているが、指さすものは同じだ。
 「良い生活」ということに関して、これもやはり消去法にて否定したい。

 ヒルティは続いて書いている。
 「どうすればそれができるかを教えなければならなかった。」
 まさしくその通りと思う。
 福音書でのイエスの行いやおことばを、「もっぱら文脈を意識して捉えることによって」、「これら」に倣う。
 処方箋や方程式の類で即物的に得ることができる類のものでは、凡そない。

 さらに続けて筆を進める。
 「また同時に、われわれの負うべき苦難と試練の分け前を忍耐をもって受け取り、彼に従ってそれに打ち勝たねばならない。」

 そう、「苦難と試練」の類は、寧ろあって当然だ。
 そして、いかにして「それに打ち勝」つか、ここが焦点だろうと思う。
 「打ち勝」った結果それ自体は、どうでもよい。
(やれやれ、と安堵の息をつくことは佳きこととして、「安堵の息」をつく「行為自体」には実に何の意味もない、と書けば「とおり」がよかろうか。)
 「彼に従って」、即ち、ただひとりで堪え忍んでいるわけではなく、イエス、神であられるこの方と共に耐え続けている。

 そうこうしていると、気付くと「ほんとうに良い生活」、真の満足を得ることができるだろう(マルコ4:26-29参照、特に28節)。
 私はやっと、この間口に立つことの叶ったものにすぎない。
 「まだ間口」にすぎないので、まあ「いろいろ」とあるのだが、そういうものと割り切っている。
 「よい生活」のおとづれを目指して、今日も歩む。

[註:!の箇所]
 内村鑑三が「キリスト教国でのマモニズム」を指摘しているこの書物は、「序」が1895年に記されたものだ。ということは、ここでいう「キリスト教国」は、おのずとアメリカになる。
 他方、ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を世に生み出したのは1920年、実に四半世紀後のことである。
 これは内村鑑三が優れていたとか日本人に先見の明があった、ということでは全くなく、単に「外側から見るとよく見える」という、至極当たり前のことにすぎない。
(内村鑑三という一日本人にとって、アメリカは「外側」だ。)
 それほどに己のことは分からないものであり、それを思うにつけ、「キリスト教圏の住人」たるウェーバーがよくぞ気付き体系的に書き表したものだ、と更に尊敬の念を深くする。
 なお、私はアメリカからもかなり多くの恩恵を受けているという考えの持ち主であることをお断りしておく。
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のがれる道

 「また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。
 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
 それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。」(1コリント10:10-14口語訳)

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 1コリント10:13を単独で覚えている人は、とても多かろうと思う。
 ところで私は以前からずっと疑問だった。
 この13節と14節とが、「それだから」という接続詞でつながっている、これはなぜなのか、と。
 今は、一応の仮説を出している。
 「神」が備えた「のがれる道」、これは必ずある。
 すると、「偶像」に頼るなぞという「逆のこと」、これはしてはなるまい、と。

 そしてほんじつ冒頭の聖句を開くと、10節あたりからまとまりを持っているようにすら思えた。
(1) つぶやくな。それは滅びの道だ。
(2) 神は耐えられない試練はお与えにならないし、「のがれる道」というものすら備えてくださる(だからこそ、「つぶやくな」)。
(3) その「のがれる道」は「神」が与えてくださるものだから、「偶像」になど頼るな。

 こう把握したとき、随分と楽になったものだ。
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わたしを信じなさい

(1)
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ伝14:1)

(2)
 「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」(マタイ18:21-22)

(3)
 「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。」(マタイ6:14)

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 ほんじつ聖書を開き、するとたまたま(1)が目に入って、心底安堵した。
 心騒がすな、神を、イエスのみを、信ぜよ、それでいい、と。

 幾度も幾度も「わたしを信じなさい」を見やっているうちに、不可思議な化学反応が生じて、赦しについての聖句(2)を思いついた。

 赦し。
 「七度を七十倍するまで」。
 つまるところ、およそ全てを赦せよということと思う。
 もっぱら、自らが「赦された!」と心底味わうことのできる、そのために(3)。

 イエスは十字架に掛かることで、実に「全てを」お赦し下さった。
 そう、実に私は赦されたのであり、それゆえ私も、全てを赦す。
 このスタートラインにやっと立ったか、という思いがこみあげる。
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あなたはみなしごを助ける方

 「 あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。
 彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。
 不幸な人は、あなたに身をゆだねます。あなたはみなしごを助ける方でした。
  悪者と、よこしまな者の腕を折り、その悪を捜し求めて一つも残らぬようにしてください。」(詩10:14-15)

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 実に神は「害毒と苦痛」を見ておられる。
 だからこそ、不幸な人は、」もっぱらあなたに身をゆだね」る。

 眠いのでこの辺で。
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天に唾する

 「しかし、わたしはあなたがたに言います。
 兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。
 兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。
 また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:22)

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 過日、券売機前での出来事。
 サラリーマン二人が「一つの券売機」を横並びに並んで操作しており、唯一空いていた「券売機」を塞いでいた。
 「あんた、この券売機使ってんの?!」、と私はやってしまった。
 彼らのうちの一人が無言で退くのであるが、私は苦しくなってしまった。
 まさに、「さばき」を受けたのだろう。

 彼らの無秩序さはともかく、毒づいて害するのは、寧ろ自身だ。
 ゆえにさばかれ、最高議会に引き渡され、そして燃えるゲヘナに投げ込まれる。
 当然の帰結であって、日本の昔からの言葉でいうところの「天に唾する」とはこのことか、と思った。
(このことわざについては、こちらを参照した。)
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