さばきについて

 「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。
 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1ペテロ1:17-19)

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 歳を取ると、今までどう生きてきたかの総決算を迎えるときがくる、そういう話を複数の筋から聞いたことがある。
 上の聖句にいうさばきと意味は違うが、気に掛かる話だった。
 では、私たちは、今までをどう生きてきたであろうか。そもそも、なぜ聖書に接するようになったのだろうか。
 「先祖から伝わったむなしい生き方」ではぱんぱんになってしまって、そこから抜け出したいからだ。
 そして、キリストの尊い血は、恵みによって私たちを聖別して救ってくださった。

 この救い、人の救いは、その人の今後の歩みを大きく変える。
 「恐れかしこんで過」ごすようになる。
 私たちは、もはや、自分だけの力で生きているとは思えない。
 さまざまな人の支えあって、はじめてやっていけている。このことは、おのずと相手を思いやることにつながる。
 これは金銀ではけっして得ることのできない何かなのだ。
 一方で、金銀が全ての物質主義者はどうであろうか。
 もっぱら金銀のために競争し他人を貶める日々を過ごす。
 その双方が日々を重ね歳を取って、そうして上に書いた人生の総決算の時をそれぞれ迎えるのである。
 さばきは、実は生きているうちに行われるのではないか、という気がしてくる。

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 健やかな一日をお祈りします!
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自分の魂が救われること

 「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(1ペテロ1:8-9)

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 たましいの救いということについて。

 魂とは何かということを頭で考えるより、魂が救われたことを実感する方がはるかにわかりがいい。
 信仰は観念論ではない。理屈づくで信じるというのではなく、復活のイエスとの出会いによって信じさせられるものだ。ここには理屈はなく、あるのは恵みである。
 大切なことは、自分の魂が救われることである。
 魂が救われると、やがて、下腹部から喜びがじんわりとわいてくる。すぐにではないかもしれないが、ともかく、じんわりとわいてくる。
 これは、根拠のないものではない。復活のイエスとの出会いに根拠づけられた喜びである。
 だから、このじんわりとした喜びは尽きることがないのである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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信仰ということ

 「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」(1ペテロ1:7新共同訳)

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 信仰とは、信じるものではなく信じさせられるものである。
 その、信じさせられるときに必ず通るのが、イエスの十字架と死と復活であり、この信仰へと至る道を切り開いたのはイエス自身である。
 つまり、イエスと同様、極刑とされて刑に服して死に、死から復活して信仰に至る。
 これが上の聖句に言う試練であり、かつてない苦しみを味わうこととなる。
 いただいた「いのち」は金銀よりもなによりも得難く、罪赦されて神からの責めはもうない。

 そうであるから、私たちが日常味わう試練は、ここでいう試練とは異なる。
 だが、救われた者が、その日常味わう試練に堪えやすくなることは確かだ。
 私たちは、イエスが救ってくれたほどの存在なのだ。これは観念上の理解ではなく根拠のある事実である。
 この事実を思い起こせば、大抵のことには堪えることができるのである。

 この十字架の道は狭い道であり、見つけようとして見つかる類のものではない。むしろ、イエスによって吸い寄せられるのである。
 パウロ(サウロ)も、自分から信じたのではない。強引に信じさせられた(使徒9:3)。
 恵みとはこういうもので、求めれば誰にでも機会がある。

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[一版]2014年 2月10日
[二版]2015年 9月 6日
[三版]2017年 8月13日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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消えない資産

 「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」(1ペテロ1:4)

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 お金というのは、ほとんどの価値と交換可能である。
 だから、これをより多く求める人が数多いのも理解が行く。
 しかし、これを追うほどに、上の聖書箇所に言う消えない資産は消失していまう。
 このことについて、イエスは言っている。「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(マタイ6:24)。

 では、消えない資産とは、どのようなものだろう。
 腹の底からじわりとわき出してくる喜び、何者にも代え難い平安、あるいは、どんなに窮しても消えることのない希望など、人によって少し違ってくるかもしれない。
 いずれにせよ、これらのものは、富を求める方向とは逆のところにある。
 私たちは、このようなものを得たいので、それで聖書に接している。

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 健やかな一日をお祈りします!

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福音の全て

 「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」(1ペテロ1:3)

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 ペテロの手紙第一から。
 ずいぶんとひさしぶりに、昨日開いた。
 すると、書き始めからとてつもない事を書いてくれていることに気付き、あらためて驚かされた。
 いや、失礼を承知で書くが、ペテロというのは基本的にはダメなのだ。
 ガラテヤ書2:11-21に事の顛末が書かれているが、特に「私(註:パウロ)はみなの面前でケパ(註:ペテロ)にこう言いました。「あなたは、……、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。」(2:14)とあり、ペテロはパウロからもお叱りを受けてしまう。

 ところが、このダメなペテロが上の聖句をしたためる、このことが素晴らしい。
 ペテロは、福音の全てを、たったの一行で書いてのけてしまうのだ。

 「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」

 これが福音の全てで、必要にして十分だろう。
 しばしばヨハネ3:16が聖書の中の聖書と言われるが、このペテロの一行も、聖書の中の聖書に入れてほしい。

 イエスが十字架に死に、三日目によみがえって、それで私は新しく生きる。
 それまでは死んでいたのであるから、全ては御父の恵みによるのである。
 ペテロもそのように、新たに生まれた。
 新たに生まれたからといって、ダメなところが変わるわけではない。
 だが、ペテロが確かに救われたことは、上の引用聖句をさらっと書いてのけることからしても、明らかなのである。

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[一版]2007年 8月 3日
[二版]2011年 6月12日
[三版]2014年 2月 9日
[四版]2017年 8月11日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!
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『信じる』ということ

 「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:26-20:29)

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 懐疑主義的な弟子トマスと復活のイエスとの出会い。

 自分の不在時に復活のイエスが現れたと聞いたトマスは、自分はそんなことは信じないと言い張った(20:19-25)。
 そのような者にも、ただ恵みによってイエスは出会ってくださる。
 トマスが復活のイエスを信じたのは、イエスのからだのあちこちを点検できたからでも、また、イエスを間近に見たからでもない。
 復活のイエスと出会ったからなのである。

 今、私たちは復活のイエスを直接見るということはない。
 だが、復活のイエスは私たちのところに来て、ドアを叩いてくださる。
 そしてこのイエスと出会うことができることは、トマスの場合と変わるところがない。
 信じずにはいられない、もっといえば、信じさせられるということも、トマス同様である。

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[一版]2009年 7月19日
[二版]2011年 6月 8日
[三版]2017年 8月 6日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!
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不条理

 「ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。
 しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」
 すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ。」と言った。このバラバは強盗であった。
 そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。」(ヨハネ18:38-19:1)

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 ピラトはイエスに罪(guilty)を認めないと宣言する。
 ところが群集が騒ぎ出すと、一転してイエスを捕らえて鞭打ちに処する。
 罪がある(guilty)から鞭打ったのではなく、そうするしか事態の収拾のメドが立たないとピラトが判断したからだろう。
 お白砂の場は最早機能せず、大強盗が釈放されてイエスが鞭打たれて罰せられる。

 この理不尽さ、不条理を、罪(sin)のないイエスが甘んじて受けている。
 それは私たちが味わうそれら理不尽さ、不条理と全く同じものだ。
 私たちは、法その他に触れているわけでもないのに鞭打たれることがままある、この不条理さのことである。
 神の子イエスは今、人間の不条理をも体験してくださっている。
 世の不条理まで含めて、私たちのすべてを分かってくれている神なのである。

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[一版]2011年 5月29日
[二版]2014年11月30日
[三版]2017年 8月 2日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!
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