無神論者について思い出したこと

 「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」(ローマ1:21-23)

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 十年以上も前に行った出張のことをふと思い出した。
 初日の仕事を終えた私たちは街に繰り出して飲み屋に入ったのだが、その際彼は「神なんかいないぜ!」と高らかに宣言する。
 飲み食いしている間は職場のいろいろな人の悪口を次々に繰り出し、帰る頃合いになると「あー毒出しできた」と満足げにつぶやいた。
 彼のこの毒出しの時間帯というのは、神の存在を一時的になきものとしたわけで、もしそうであれば、無神論者であろう彼は神そのものは認めているのである。

 「神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなった」という上の聖句は、そういうことがあったので実感としてそう思う。
 教会に通い出した頃の私は虚しさでいっぱいだったが、いまは虚しく思うことはなく、生ける水が心を流れている。これはイエス・キリストの十字架と復活を通して為された御父との和解、関係性の回復によるものであり、このことこそ人にとって最も大切なこと、もっというと唯一の大切なことだ。

 現代には神の代わりとでもいうべきものがたくさんある。マモニズムは言うまでもなく、近代がもたらした啓蒙主義や自然科学など、もっぱら頭の理解だけで完結してしまうもので溢れている。
 神の代わりというよりも、卑なる神への信心といえばいいのか、これらのものが世界のすべてだと捉えてしまうと、虚しいという気持ち、いきいきしたもののなさといった否定しようのない心の内をどうしようというのだろう。よく効くサプリでも開発されるのだろうか。
 そのような死んだ者同士で足を引っ張り合っているだけのような気がしてならないが、上に書いた毒出し同僚は、そののち消え入るように辞めてしまった。

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 健やかな一日をお祈りします!

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聖書の目的

 「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。
 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(ヨハネ20:30-31口語訳)

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 ヨハネ伝の結び。聖書というものが書かれて編まれた目的について。

 それはもっぱら、「イエスは神の子キリストであると信じるため」である。
 それ以外の目的はない。
 イエスが救世主キリストである、ということは、聖書を通してのみ分かることだ。
 だが、ただ聖書を何回も繰り返して読めば、例えば百回読めば分かるようになるというものではない。
 「百回読む」ではわざなのであり、それでは肉の努力によって肉を救うということになってしまう。暗唱聖句なども同様で、救いのためには意味はない。

 だが、あるときイエスが救世主であると分かったならば、「イエスの名によって命を得」て救われる。
 この救いとは、わざではなく恵みである。
 頭やからだによる理解や努力ではなく、恵みによる出会いなのである。
 出会うためには、ギリシャ語もなにも、そういった知識や努力は全く不要だ。
 なぜなら、聖書は、あるときその人に突然語りかけてくるからである。
 字義通りの意味をはるかに超えて、み言葉によって語りかけてくる。
 これが恵みによるキリストとの出会いである。
 聖書はもっぱら、このようにしてキリストと出会っていのちを得るために書かれている。

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[一版]2009年 7月20日
[二版]2011年 6月 9日
[三版]2014年12月30日
[四版]2019年 6月30日
[五版]2021年 5月23日(本日)

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『信じる』ということ

 「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:26-20:29)

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 懐疑的な弟子トマスと復活のイエスとの出会い。

 自分の不在時に復活のイエスが現れたと聞いたトマスは、自分はそんなことは信じないと言い張った(20:19-25)。
 そのような者にも、ただ恵みによってイエスは出会ってくださる。
 トマスが復活のイエスを信じたのは、イエスのからだのあちこちを点検できたからでも、また、イエスを間近に見たからでもない。
 復活のイエスと出会ったからなのである。

 今、私たちが復活のイエスを直接見るということはない。会いに行くこともできない。
 復活のイエスの方が私たちを訪れてくださり、戸を叩いてくださる。
 そしてこのイエスと出会うことができることは、トマスの場合と同じである。
 このときにイエスを信じさせられるということもまた、トマス同様である。

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[一版]2009年 7月19日
[二版]2011年 6月 8日
[三版]2017年 8月 6日
[四版]2019年 6月23日
[五版]2021年 5月19日(本日)

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赦す権限

 「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(ヨハネ20:22-23)

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 復活のイエスからのメッセージ。

 罪の甚だ多く神の怒りの下にあった私たちは、この復活のイエスを通して神の赦しをいただき、その神との和平状態に置かせていただいている。
 ここで罪とは、神の律法に違反することである。
 この律法を守り通そうとすることにトライしようとしても、肉ある身としてどうしても違反を犯してしまう。
 何度やってもだめなのだ。
 私たちは、神の律法を守り得ないゆえに、神の怒りの下に置かれたばかりか、この御父と対立し続けた。

 それでも神は御子を受肉させて世に送り、律法を守ることのできないこの肉そのものに十字架という処罰を与える。そのことを成し遂げた御子は、三日目に復活する。
 この十字架と復活のイエスへの信仰が恵みによって与えられ平安を得、御父に赦されたことを実感する。
 この御父には、罪を罪のままとする権限もあれば、罪を赦す権限もある。恵みとは後者に預かることを指す。

 だから大切なことは、この全能の御父に、恵みによって罪赦していただいたことだ。
 アダム以来断絶していた創造主と、和解できたのである。
 私たちが罪深いアダムの肉を未だ持っているにも拘わらず、だ。
 そのアダムの肉を持つ私たちは、誰かを赦すとすれば、赦すだけの根拠がなくてはなかなか赦すことができない。
 赦さないのは簡単だが、いずれにせよ、私たちは御父から罪の赦しを全権委任されるほどに、御父から認められているのである。

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[一版]2014年12月29日
[二版]2019年  6月16日
[三版]2021年 5月16日(本日)

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ラボニ

 「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」
 彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」
 彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。」(ヨハネ20:11-16)

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 マグダラのマリヤに復活のイエスが現れる箇所。

 マグダラのマリヤは、誰もいない墓で泣き続ける。
 そこに復活のイエスが現れるのだが、マリヤには分からず園の管理人だろうかと思っている。
 復活のイエスは人間の肉を既に十字架で脱ぎ捨てた。だから、マグダラのマリヤがイエスをイエスと分からなくとも、無理からぬ事なのだろう。
 だがイエスが「マリヤ」と声を掛けた途端、マリヤははっと分かってイエスを信じる。

 このことは信仰へと至る過程に重なる。
 復活のイエスはここにいるのに、私たちはあちらに向かって祈ったり、向こうで善行を行ったりしている。
 だが、あるとき、聖書のどれかのことばがぱっと自分の内側に入ってくるということがある。
 マリアがイエスの「マリヤ」という声を聴いたのと同じだ。
 その時、その人は復活のイエスと出会ったのである。
 そしてマリヤと同様、その人はイエスに「ラボニ」と仰いで信仰に至る。

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[1版]2008年 5月13日
[2版]2011年 6月 7日
[3版]2019年 6月 9日
[4版]2021年 5月 5日(本日)

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わたしは渇く

 「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:28-30)

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 イエスは人々にこう呼びかけ続けた。
 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)
 渇ききっている人々に呼びかけ続け、枯れない水が内からわき出ることを約束した。

 その満ち満ちたイエスが十字架の上でこう言った。
 「わたしは渇く」。
 イエスのこころが乾いたのだ。
 それは人々のこころの飢え乾きと全く同じものだろう。

 今、神が死のうとしている。
 アダムの肉をまとった神として、死に往こうとしている。
 このアダムの肉そのものを処罰するためだ(ローマ8:3)。
 その処罰が「完了」して、肉としてのイエスは死ぬ。
 そしてイエスの復活は、アダムの肉を処罰してもよみがえるということの初穂である。
 この処罰と復活とが、人を救い渇きをいやす。

 復活のイエスは、人々の渇きを実体験した上で、今も「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と呼びかけ続けている。

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[1版]2007年12月 6日
[2版]2008年 2月28日
[3版]2009年 7月 5日
[4版]2014年12月28日
[5版]2019年 6月 2日
[6版]2021年 5月 4日(本日)

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『ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け』

 「こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」
 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語でガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
 その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」
 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。」(ヨハネ19:12-16)

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 教会に通っていた頃、その教会の執事の方が、使徒信条の中でピラトが悪者扱いになっているのがずっと分からなかったが、最近それが分かるようになったと言っていた。
 大企業の管理職をしていたこの方を私は尊敬していたが、この話は違和感を覚えた。
 「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け十字架につけられ」と使徒信条にはあるが、ピラトはローマ法の上での罪をイエスには見出さなかったし、イエスの釈放に尽力すらしている。
 むしろ、祭司長たちの声のあまりの大きさに為す術がなくなってしまったように私は思っていた。
 だが当時私が分からなかったのは、私がまだ若かったからだ。
 使徒信条は、事の顛末をピラト一人におっ被せている訳で、こういうことはこんにちも日本中で世界中で行われていることだから、大変な立場にいた執事の方は使徒信条でのピラトの扱いを身に染みていたのではないかと思う。これが世というもので、世慣れない私もとてもうんざりする。
 しかしイエスはこの十字架で世に打ち勝ったのだ。世を超えたとも言えるかも知れない。
 私たちは世にいながら国籍は天にあり、世にはない本当の満足感をよく分かっている。
 私たちをお造りになった御父との和解は素晴らしく、そしてこの和解は十字架と復活のイエスの取りなしによる。そのためにイエスは正に今十字架に架かろうとしている。
 だからイエスは被害者なのではなく開拓者なのである。

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神の御名の冒涜

 「それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。
 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」
 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」
 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。」(ヨハネ19:5-8)

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 祭司長たちとポンテオ・ピラトとの駆け引き。

 祭司長たちは言う。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります」。
 ここでいう律法とは、「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。」(レビ24:17)を指している(新改訳聖書の注釈より)。
 つまり、イエスは神の子を自称して神の御名を冒涜したから、律法に従うと最高刑の石打ちの刑になるのだという主張である。
 だったら常日頃からイエスは石打ちの刑に当たると糾弾し続ければいいものを、それは群衆が怖い。
 イエスは病をいやし人をよみがえらせて、圧倒的な支持を集めているのだ。
 祭司長を筆頭とする指導者層は、イエスのわざを目の当たりにしても群衆恐さに何もできず、かえってイエスを憎んだ。
 イエスに人々が向けば向くほど、自分たちに従う人がいなくなってしまう。
 それでイエスを亡き者としたい。
 「神の子」を自称することが律法違反というのは、実はそのための口実にすぎない。
 常日ごろより人々に律法違反を振りかざす彼らにとって、律法など単なる建前でしかないのだ。
 祭司長たちこそ神など敬っておらず、聖なる御名を冒涜しているではないか。

 なんのために聖書に接するのかは、どの時代においても常に問われるだろう。
 救われたいからか、支配したいからか。神との和解のためか、利権の維持のためか。
 律法は、自分の罪深さに気付くためのテコであり、気付いてはじめて救われたいと願う。
 この祭司長達は、果たして自身の罪深さに気付いていただろうか。

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[一版]2008年 5月 9日
[二版]2019年 5月19日
[三版]2021年 5月 1日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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