律法は罪なのでしょうか

 「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」(ローマ7:7)

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 もし律法を知らなかったなら自分の行いが罪に当たることを知らずに済んだとパウロは言う。
 パウロは分かっていてこう書いているのだが、律法を知らなかったなら何をやってもよかったのだろうか。
 律法がモーセを介して人々に伝えられ明文化される前からこの神の律法は存在していたのだから、律法を知っているか知らないかは罪ということについては関係がない。
 律法を知らずに罪を罪とも気づかず御父の怒りの下に居続けることすらわからないのと、律法によって罪を罪と知って生みの苦しみを受けるのとどちらがよいのかといえば後者なのである。御父とその御父のご計画に沿っているからだ。
 十字架の死とよみがえりの細き道はとても苦しい道のりであり、それは今までに経験したことのないほどのものである。
 もちろん誰しも苦しみは厭うので「律法は罪なのでしょうか」とこぼれるが、それはこの細い道を歩んでいてこそのものなのだ。

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[一版]2021年 8月22日
[二版]2024年 2月25日

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人間の肉を追い込む律法

 「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。
 しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(ローマ7:5-6)

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 私が聖書を手にしてまもなく、山上の説教での次の聖句を知った。
 「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)
 そのころたまたま寄ったコンビニのレジの女性が可愛らしく思えたのだが、それと同時に上の「すでに心の中で姦淫を犯した」が思い出された。
 そのとき私の心の中には、レジの女性を可愛いと思ってしまうということ自体がいけないことなのかという不安と後ろめたさがふつふつと湧き上がっていった。対人恐怖症の始まりである。
 もし私が聖書に接する前だったら、そのような不安など感じることもなく可愛い子ラッキー、くらいだったはずだ。

 このように、律法は肉の罪をその人に気付かせる役割がある。
 イエスの山上の説教は更に突き詰められ、律法を遵守することなど誰一人できない、ということが説かれている。上の「姦淫」の箇所もそうだ。
 可愛い子を見たら可愛いと思うしイケメンを見たらラッキーと思う、このような私たちの肉の性質は、イエスに言わせると姦淫の罪にあたるのである。
 こうして律法は罪によって私たちの肉を死へと追いやってゆく。

 ではなぜ律法群は私たちを死へと追いやるのだろうか。それは正に死に至らしめるが為である。
 その道をひらいたイエスは自らの肉を十字架に架けて処分し、三日目によみがえられた。
 このイエスの歩みと同じになるように律法が私たちの肉を殺し、そして御父が私たちをよみがえらせる。
 このときに「自分を捕えていた律法に対して死んだ」、「新しい御霊によって仕えている」こととなる。

 律法は今も厳然と存在するが、私たちは律法から解放された。
 というのは、私たちは律法に死んで今はキリストが下さった「いのち」に生きているからだ。
 ちなみに私の対人恐怖症はきれいになくなったわけではないが、これは言ってみれば「とげ」(2コリント12:7)のようなものであり、そんなとげとは比べものにならないものをいただいたと思う。

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[一版]2009年10月18日
[六版]2024年 2月24日

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死者の中から生かされた者

 「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6:12-13)

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 私たちは、正に「死者の中から生かされた者」であり、そのことを大いに喜んでいる。
 一方、死者たちは、罪に支配されていること自体に気がつかない。罪を罪とはわからない。
 この死人たちの世にあって、私の肉はうちのめされることが多々ある。
 しかし、この私の内には脈々としたいのちが流れて続けている。
 イエスは「わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)と言ったが、これは死者の中から生かされていただいた永遠のいのちについてのことで、この永遠のいのちを取り去る者は誰一人いないと思う。

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私の主

 「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」(ローマ6:12-15)

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 私たちは、キリストの十字架の死と同じように死に、キリストの復活と同じようによみがえった。 もしも私たちがキリストと出会ったのであれば、そうである。
 この出会いの前、私たちは律法に責め立てられて続けて自分の罪に苦しみ抜き、その苦しみたるや、かつてないほどにまでなった。
 しかしそのような私たちは、恵みによってキリストの十字架と同じ極刑に処せられ、そして罪赦された者としてよみがえったのだった。

 そうして私たちの内には、「助け主」が与えられる。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(ヨハネ14:16)とあるところのものである。これは、エレミヤ31:33にある、彼らの中に律法を置くということと同じで、私たちの中で預言は成就した。

 この、内なる「助け主」が私たちの行ないに深く関わる。
 なにをやっていいか、なにをやるのはいけないのかについては、この内から突き上げてくるものがある。
 以前の罪深かったころは、肉の衝動が自分の身を突き動かしては律法に違反していたのであるから、私たちが罪赦されて神と和解できたということは、私たちの主(しゅ、あるじ)が肉から「助け主」へとがらりと変わったということなのである。
 そういうわけで、「罪を犯そう」とはそもそもならないのである。

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[一版]2019年10月18日
[三版]2024年 2月18日

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罪といのち

 「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ローマ6:4-8)

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 ひとことに罪と言っても罪は二種類に大別される。
 刑事罰などにあたることを英語では"guilty" と形容する一方、聖書が扱う罪は"sin" である。
 このsin は、神の律法に叶うか違反するかであり、この判断の主体は御父である。
 乱暴に言うと、御父が私を罪に定めたなら、その理由が分からなくとも私はsin とされてしまうのだ。
 そして罪と罪意識でがんじがらめになったところで、「キリストの死にあずかるバプテスマ」を力ずくで受けさせられる。
 キリストの死と同じように極刑に死に、キリストの復活と同じように復活した先には、「いのちにあって新しい歩み」が始まる。
 この新しい歩みに際して、御父はもはや私たちをsin には当たらないとみなしてくださる。「キリストとともに葬られた」からだ。
 それどころか、仮にguiltyとされて牢屋にぶちこまれてすら、御父はそんな私たちをsin ではないとみなし続ける。これが御父との和解なのである。
 この和解のもとに新しい歩みを日常の中で進めてゆくと、いいこともいやなことも、楽なこともつらいことも多い日々を過ごす中、生きるということそのものへの満足感が奥底から湧いてくる。
 「キリストとともに生きる」とはこういうことのように思う。

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[一版]2021年 8月 9日
[二版]2024年 2月17日

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結果的に律法を守っている

 「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ6:5-7)

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 2019年10月14日付の記事と同じ聖書箇所。
 この記事の中で、「新たにされた私たちにとっても律法は存在し続けるので、私たちは相変わらず罪を犯し続けるが、今や罪赦されて罪から解放されている」と書いたのだが、それとは少し違うのではと気づいたことを書いてみる。

 何に気付いたのかというと、罪を犯し続けるが罪赦されるところもあると思うのだが、それ以上に、そもそも自然と罪を犯さなくなるのではないか、ということである。
 ここに有名な聖句を例示する。

 「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)

 この聖句がなぜ有名かというと、聖書とは関係のない人からは、そんなことできるわけないだろうと失笑される箇所だからだ。
 ところが、自分についてふと気付くと、もう随分、やり返してはいないのである。
 いや、本音を言えば悔しいことも少なくないし、ぶん殴ってやりたくなることもある。
 だが、もう随分とやり返していない。言い返しすらしない。
 気力がなくなってきたからだろうか。それとも丸くなったからだろうか。
 どうもそうには思えない。それだけならば陰湿な仕返しもすることだろう。だが、そういうことも全くしなくなった。
 であれば、もしかしたら内住の聖霊が左の頬を向けるように自分を動かしているのではないか。
 自分の肉はやり返したいのだが、霊がやり返すことをとどめているような気がする。
 こうして私は、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」という律法を守っていることになるのである。
 私が守っているというよりも、私の内側のものの働きによるのだと思う。

 全ての律法を自分が遵守できるとはやはり私は思えない。
 しかし内住の聖霊を宿す私たちは、「あいつ何もやりかえさねーよ」とか陰で言われてもやり返すことはなく、御父との平和という世にはない満足感の中で左の頬を差し出しているのだろう。

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[一版]2019年10月16日
[二版]2024年 2月12日

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キリスト・イエスにつくバプテスマ

 「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:3-4)

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 神の愛とは、キリスト・イエスにつくバプテスマ、言い換えると十字架と復活の御技に尽きると思う。
 それはまさに「いのちにあって新しい歩みをするため」で、古い自分が死んで、そしてよみがえって新しく生きるためなのである。
 このバステスマによって、生ける水が内側からほとばしるようになる。
 そしてその後も、この十字架と復活を通して、御父は私に愛を惜しみなく注いでくださっている。

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出発点としての律法

 「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」(ローマ5:20-21)

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 律法は守り通すためというよりも、律法を守り通せないという罪の意識を自覚させるためのものである。
 かつて私が律法を知らなかった頃は、罪の意識にさいなまれることはなかったし、明らかに悪いことも平気でやっていた。罪にあたるという意識自体がそもそもなかった。
 しかし心のどこかがうめき続ける私は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2)という今も鳴り響くこの声を聞いて聖書を開き、聖書を通して神の律法に接し、この律法に照らして私は罪深き者であって、この律法を守ろうにもどうにも守り通せないことをだんだんに自覚せざるを得なくなってきた。

 ところでバステスマのヨハネは水の洗礼を行ったが、これは救いの型を周知するものであった。これは現在多くの教会でも行われている。
 一方イエス・キリストによる本物のバステスマは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」とあるとおりで、それは罪からの救いを求めるすべての人に注がれる。
 このイエスのバステスマによって人は死に、そしてよみがえる。水の洗礼に象徴されたものが実際に行われる。
 この肉から罪はなくなりようもないが罪赦され、義から程遠い者であるにもかかわらず義とみなして下さる。
 私たちをがんじがらめにし続けていた肉から、私たちは解放されるのだ。

 だから神の律法こそ救いの出発点なのである。
 律法が私たちに肉の罪を知らしめるので、それから解放されたくて十字架にすがる私たちに恵みが降り注ぐ。

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[一版]2011年 9月 4日
[六版]2024年 2月10日

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人としての死、人としてのいのち

 「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」(ローマ5:17)

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 死とは生物としての死を指すのではなく、人としての死を指している。
 また、いのちとは生物としてのいのちを指すのではなく、人としてのいのちを指している。
 「灰色にくすんで見える同僚たち」とか「毎月のノルマ達成に追われるだけ」といった表現が、様々な媒体に頻出する。仕事や生活に追われ続けて自分自身を見失ってしまうことだが、自分自身ではそうとは気づいていない。
 このように、人として死んでいる人というのは古今東西多くいたのだろう。まさに「ひとりによって死が支配するようになった」のである。
 現代においてこの死から逃れることは難しいが、この死から復活することはできる。
 イエスの十字架と復活がその初穂であり、イエスが救世主と言われるゆえんである。
 恵みによってイエスに出会うと、御父との和解によって罪赦されて、人としてのいのちがほとばしり出る。
 この復活のためには自分の死んでいることがすとんと腑に落ちることが第一歩であり、そのためにこそ聖書がある。

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[一版]2021年 8月 7日
[二版]2024年 2月 4日

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十字架と復活という神の愛

 「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(ローマ5:6-11)

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 ヨハネ3:16が聖書の中の聖書と言われるが、上の聖書箇所は聖書のサマリーといえるかもしれない。
 ここでパウロが書いていることは、頭で考えついたものではなく、パウロの体験と実感そのものを書き付けたのだと思う。イエスの死と復活はパウロ自身体験したことであるが(使徒9:3-19)、これをパウロは「神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」と記している。まさに「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)のである。
 パウロ(サウロ)の教会迫害も相当なものであったが、自分を省みると、何一つ守ることのできない罪深さ、どうしようもなさを今も思う。何故イエスはこんな私を十字架と復活を通して救ってくれたのだろう、いや、あまりにもどうしようもないからこそ救ってくださり、どうしようもなさすぎるからこそイエスは私を愛してくださる。本当に愛してくださる。
 そうであるから御父への大きな喜びが内側から溢れ出てくるのは自然なことで、頭で考えついたものとは違う。

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