稲妻という恵み

 「さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。
 だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。
 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。」(マタイ24:25-27)

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 イエスの黙示より。

 イエスが来るのは、「いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来る」という。
 ではイエスは、東におられるのだろうか、それとも西におられるのだろうか。
 どこそこにいらっしゃるのでそこに行けばお会いできる、ということではない。
 稲妻がどこかに落ちるように、私たちに会いに来てくださるのである。
 その稲妻がいつ、どこに落ちるのかは、わからない。それが恵みということである。

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白く塗った墓

 「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、
 あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」(マタイ23:27-28)

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 私の内側は、偽善と不法でいっぱいだ。
 それは、昔も今も変わらない。
 殺人に姦淫に、数え上げたらきりがない。
 何に照らしてそのように判断するのかというと、律法に照らして、特にイエスの律法に照らしてである。
 山上の説教でイエスが示した律法解釈の前に、偽善者でない者、不法のない者など、ただの一人もいなくなってしまう。
 偽善と不法でいっぱいであることが頭から胸へとすとんと落ちたときの衝撃は、言葉に表すことができない。
 しかし、この「すとん」によって初めて自らの罪深さというスタートラインに立つのである。

 イエスはこれから十字架に架かって、自らの肉を処断する。
 そのイエスは復活して、その処断が御父に認められる。
 このイエスの肉の処断を恵みによって信じることができれば、その人は罪赦されて「いのち」を賜る。
 罪がなくなるのではない。赦されるのである。
 であるから、汚らしい内側を隠そうと外側を白く塗ったくって装っても何の解決にもならない。
 汚らしい内側そのものが、十字架と復活の主イエスへの信仰によって救済されるのである。
 私の内側は、偽善と不法でいっぱいだ。それは、昔も今も変わらない。

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[一版]2010年 8月15日
[二版]2013年12月27日
[三版]2016年 9月24日(本日)

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救いがもたらす自立

 「彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。
 また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、
 広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。」(マタイ23:5-7)

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 マタイ23章は、イエスの悪口を集めた箇所。悪口の対象はパリサイ人たちである。
 イエスは神であれ肉を持つ身なのであるから、当然に鬱屈としたものは溜まり吐き出すのであり、それは我々人間と何一つ違わない。
 そこを、あのイエス様がなぜこれだけの悪口を、などと思うならば、その人には、イエスはかくありきというのが最初にあって、そこから我田引水して聖書に接しているのである。
 それはさておき、イエスは罵詈雑言を言っている。

 ここに描かれているパリサイ人像は、見栄っ張りだし、とにかく上にいたい、そういう人々である。
 他人の目を非常に気にし、人との関係を常に上下でしか捉えられない。
 自分一人になったとき、はたして経札の幅の広さというのが何の役に立つだろう。誰に見せるのだろう。一人で悦に浸るのであろうか。
 死ぬとき、経札などかなたに持っていくことはできない。
 端的に、彼らは教師であるにも拘わらず神から最も遠く、それどころか世俗的すぎるのだ。
 神の律法を人には押しつけておきながら自分はそれをせず世俗的なふるまいばかりで、イエスの罵倒は、この点にある。

 私たちは、イエスに死んで、イエスによみがえる。
 そのときの私たちは、和解できた神との関係性の中で生きることになる。
 そうすると、その関係性の中に他者はいないから、他人からどう思われているかなどということは、かなりどうでもよくなってくる。
 個、というのは独りよがりなわがままのことではない。依存せずに自立することである。
 自立した個と個との出会いには、上下はない。共鳴しあう。
 アダムとエバは、善悪と知識の実を食べる罪を犯し、まず、局部をいちじくの葉で隠した(創3:7)。他人の目に恥ずかしみを覚えたのである。
 しかし御父はイエスを通して、人間のこの罪にも赦しを与えてくださるのである。
 素っ裸で歩くことが許されるのではない。それほどの自立心を御父によって回復できるのである。

 なお、聖書とは関係がないが、他人の目を非常に気にし、人との関係を常に上下でしか捉えられない、というのは、日本の現代社会(すなわち世間)でも同じである。日本語に敬語と謙譲語があることは、言語の中に既に上下が規定されていることを意味する。しかし、この世間のことは本旨から全くはずれるので、ここで筆を置く。

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戒めについて

 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
 これがたいせつな第一の戒めです。
 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:36-40)

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 神の完全な秩序は、律法という形で明文化されている。
 人はすべて、こうでなくてはならない。そのとき彼は、義人である。

 数多い律法の中で、大切なものとしてイエスは2つを挙げる。
 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」。
 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。
 律法は、この2つに収斂する。神を愛し、人を愛せよ。

 だがどうだろう、見えない神を、一体どう愛するというのだろう。
 神は私たちから愛されると感じるだろうか。私たちのやっていることは、独りよがりな押しつけにすぎない、愛とは違う何かではないだろうか。
 このことは、人についても当てはまる。愛と独りよがり(というかお節介の類)とを、どうやって区別できるだろう(私も最近、また失敗した)。
 この、神を愛し、人を愛せよという律法は、常に求められているのであるから、神を愛せもせず人を愛せもしない私たちは、神の御前に罪人なのであり、不義なる存在なのである。

 全ての人が、意識、無意識とを問わず、魂の救済を求めている。
 自分が罪人であるという、この神からの責めに身もだえして苦しむようになれば、私たちは救いのスタートラインから第一歩を踏み出している。
 だから、イエスが挙げた2つの律法に、全てが掛かっているのである。

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聖書の力

 「その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問して、
 言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない。』と言いました。……
 すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」
 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」(マタイ22:23-24,28-29)

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 支配者階層サドカイ人がイエスに議論をふっかける。
(ちなみにサドカイ人が引用した律法は申25:5。)

 聖書というのは、力である。御言葉の力だ。
 「初めに、ことばがあった。」(ヨハネ1:1)というところの「ことば」である。
 その力は、死人を一瞬にして生き返らせる。それほどのものである。
 聖書のことばとは、このようなものだ。そのような力を持つものを、私は知らない。

 だから、このようなくだらない言葉遊びしかできないサドカイ人を、むしろ同情する。
 「かわいそうなやつだなあ」と。
 イエスが言うように、とんだ思い違いをしている。
 支配者階級にまでなって、聖書のなんたるかが全く分からない。むしろ、だからこそ支配者階級になれたのだろう。

 恵みによって聖書のことばが否応なく飛び込んできたとき、はじめて聖書の力が発揮される。
 上でけなして書いた支配者階級の連中にも、チャンスはある。
 それも膨大にある。

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[一版]2010年 8月 1日
[二版]2016年 9月 4日(本日)

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隠された宝

 「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)

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 私はカネを求めていたかのようで、実はそうではなかった。
 人からの栄誉を求めていたかのようで、実はそうではなかった。
 ほんとうに求めていたもの、それが実に、聖書の中にあった。
 「 わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)
 まさしくイエス御自身こそが、いのちのパン、わき出る泉(ヨハネ4:14)、また永遠のいのち(ヨハネ6:27)そのものであったとは!

 今の私は、特に何かを失ったわけでもない。
 明日も、今まで通り、ごく普通に売り買いするだろう。今まで通りに、怒り、泣き、笑うだろう。ストレスも、依然として大きいだろう。
 人としての営みには、さほどの変化があるとは思えない。
 けれどもなんといっても、イエス、この宝を手にした満足感の大きさといったらない。

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[一版]2006年 9月 2日
[二版]2016年 9月 2日(本日)

 今日は、上の記事を書いてから丁度10年にあたります。10歳の誕生日といって差し支えないでしょう。
 10年前のこの記事を今読んでも、自分の中に違和感がありません。まったくそのとおりです。
 ちなみに最近は、周りに恵まれてストレスも当時よりずっと少なくなったと思います。

 いろいろ書いてみたのですが、どれも思いつきの域を出ないので消してしまいました。
 ああ、あの日から10年経ったのか、という思いが全てです。
 求め続ける人には、恵みによってイエスは会ってくださいます。このことは確かなことです。

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