この世をくれると言われてもイエスはさっぱり興味がない

 「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」(マタイ4:8-10)

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 荒野で悪魔は引き続きイエスを誘惑するが、この悪魔はこの世と世の栄華のすべてをくれるというのだ。
 自分が聖書に接して以来、長らく分からなかったのがここだった。
 この世とその栄華を手に入れてそれを神の国にしてしまえばずっと簡単ではないか。
 しかしこれは神を知らないゆえの考えだった。
 神と御子にとっては、この世とこの世の栄華は引きつけられるものではなく、悪魔がくれてやると言われても、欲しいと感じないし要るとも思わない。
 「神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24新共同訳)とあるとおり、両者は互いに相反するものなのである。
 だから悪魔のこの誘いは実は誘惑にはなっていないのであり、むしろ、神のご性質と悪魔の性質との違いが鮮やかに浮き出た形になっている。
 このことは人にも大いに関係する。
 イエスとの出会いを通して、その人の価値観は富や栄華といったものから『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』ということに変化するのである。一瞬でくるっと変化する。

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[一版]2021年12月25日
[二版]2024年 6月30日

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み言葉は悪魔も使う -道具としてのみ言葉

 「すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」(マタイ4:5-7)

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 悪魔の誘惑に遭うイエス。その誘惑とは、詩篇91:11-12によるものであった。
 悪魔もみ言葉を使うのであり、ここではイエスを挑発するためである。
 だからここでは、み言葉は、いのちのことばとしてではなく、もっぱら道具として使われている。

 さて聖書を知らない知人から聞かされた話なのだが、その人が困難に突き当たっていたときに、「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。」(1コリント10:13)と言ってくる人がいて、その人に寄り添うつもりもないのに上から目線で言い放つその姿勢に腹が立ったそうだ。
 私はその話を聞いて、教会の中では普通のやりとりなので、よかれと思ってやっているのだと思うとフォローするしかなかった。
 このように、み言葉を処方箋であるかのように用いることは少なくないが、それだと上に書いた悪魔の用法と変わるところがないのではないか。
 み言葉はこのような道具なのではなく、いのちなのである。
 み言葉が自分の内側のものであり血肉となっているということで、言い替えると、イエスとの出会いがもたらす聖霊の内住のことである。

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[一版]2021年12月19日
[二版]2024年 6月29日

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パンだけで生きることができるか

 「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:1-4)

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 「人はパンだけで生きるのではない」という箇所だけが一人歩きしている聖書箇所。
 姪が就活中にこの言葉を使って、いやそういう意味じゃないと返したことがある。
 ところが、逆に、もっぱらパンだけで生きているような人が数多くいるように見えてならない。
 パン、それと情報だけで生きているこのような人たちは、すべてを物質的に捕らえているのだろうか。

 物質的な部分というのはやはり大切で、食うために働くこともまた大切だ。
 だがそれだけでは立ちゆかなくなってしまうのだ、かつての私のように。
 神の口から出る一つ一つのことば、いのちのことばという、物質的なところからおよそかけ離れたものが、人には必要不可欠なのである。
 頭の理解をはるかに超える絶対者がおられるということが分かることが必要なのであり、このことが「神の口から出る一つ一つのことば」としてイエスの口からこぼれ出る。

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受洗するイエス

 「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:13-17)

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 受肉した神の子イエス。
 人間と同じ肉、アダムの肉で覆われた神の子である。
 律法を守り通せる唯一の肉として、イエスは世に来られた。

 ヨハネが水のバステスマを授けているのは、罪の赦しを与えるためである。
 そこにイエスが来られて、そのヨハネから水のバステスマをお受けになった。
 罪がないにもかかわらず、罪のある身として自ら受洗する。
 神の子イエスが、私たち罪深き人間と同じ地点に立ってくださったのだ。

 人間が肉を持つ故の苦しみ悲しみ辛さ怒りを、十字架の道を歩まれたイエスは身をもってよくご存じだ。
 神の子イエスは、神と私たちとの間に立つ仲介者として、私たち人間の罪深さをよく理解してくださっている。

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[一版]2010年 2月20日
[七版]2024年 6月22日

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みことばは「いのち」の触媒

 「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:13-14)

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 パウロ書簡の後半部は「おこごと」で占められるが、上の聖句はロマ書のおこごとより。
 ちなみに、おこごとを馬鹿にしているというわけではない。
 なぜなら聖書のことばは、字面とは全く異なる意味で働くことがあるからである。
 つまり、聖書の言葉とは霊的なものなのだ。

 上の14節は、煩悶きわまったアウグスティヌスが、この言葉に触れて回心を果たした聖句である。
 つまり、アウグスティヌスにとっては、ロマ13:14が「いのち」の触媒だったのである。
 触媒となる聖句が何かは人によって全く異なり、予測のしようもない。
 聖書の「おこごと」の箇所からでもアウグスティヌスはよみがえったのだから、聖書の言葉はどれも正に霊的なものである。

 アウグスティヌスのこの煩悶とは、極刑の十字架で古い自分に死にゆく苦しみである。
 そして、みことばという触媒に触れて新しくよみがえり、「いのち」のうちを歩きはじめる。
 死なせるのは十字架のキリスト、新しくよみがえるのは復活のキリストである。
 まさにこのときに、今まで読んでいた聖書が、全く異なるきらめきを放って迫ってくる。

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[一版]2008年10月26日
[六版]2024年 6月16日

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愛とは何か

 「「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。
 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」(ローマ13:9-10)

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 「愛」とは何か、自分にはまるで分からない、そう言い続けてきた。
 アガペーとかフィリアとかエロスとか、一体何のことだと思う。
 愛という言葉を耳にすると、何かだまくらかされているようにすら感じる。
 愛という言葉はうさんくさいのだ。

 だが、こんな自分であっても、愛されていると思うことは少なからずある。
 あるいは、そのときにはなんとも思わないことが、ずっと後になって、ああ愛してくれていたんだなあとじんわり思い出すこともよくある。
 愛とは、愛する側の行為ではなく、愛された側の感じではないだろうか。
 「私は愛する」というよりも「私は愛される」という方が、「愛」という言葉の用法としてピンと来るような気がする。

 もちろん「愛する」からこそ「愛される」と感じることは明らかだ。
 愛の分からない私がひとつ言えるとしたら、押しつけがましいのは愛ではない。むしろ逆だ。
 イエスは「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。」(マタイ6:3)と言っているが、これは愛すること一般について言えると思う。

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復讐を禁止する神

 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19-21)

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 有史以来ハンムラビ法典ほど優れた法律はないと、かねがね自分は思っている。
 「目には目を」。
 近代法は復讐や決闘を禁じるが、ハンムラビ法典はやられた限りにおいての復讐を認めている。
 被害を受けた者が復讐感情を持つのは自然なことで、その自然の情を果たすことができるのであるから、何と素晴らしいことだろうか。

 そんなことを思う自分に対し、上の聖句は「自分で復讐してはいけません」とたしなめる。
 そこで私は、じゃあ先制攻撃ならいいじゃないかと考える。
 先制攻撃というのは相手が構えていないところを襲って、相手がひるんだところをそのまま押し切れれば勝ちだ。単純な戦法なのだ。
 復讐心を抱え込むよりは遙かにいいではないか。攻撃は最大の防御とはよく言ったものだ。

 そう頭では考えるものの、気乗りはしない。
 今は特に復讐したい相手がいないこともあるが、過去の何人かには復讐したい。だが、実際にやろうという気はまったく起きない。
 「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」というのが、聖書の文字面なのではなく、自分の内側に刻み込まれているからだと思う。自分を動かしているのは、頭の愚かな考えではなく内住の聖霊様なのだ。
 数年前、面と向かって馬鹿にされ続けたということがあったが、私は終始にこにこしていた。我ながら不思議だったが、これは肉の私とは異なる私がそうさせてくれたのだと思う。

 あのときの愚かで底の浅い彼らは今頃どうしているのだろうか。
 思うに、復讐心を引き起こすようなこと自体を神は制裁されるのではないだろうか。そうだとすると、むしろ自分自身で「燃える炭火を積む」ことになるような気がする。
 そして何より、「わたしが報いをする」と仰ってくださる神は、復讐心に駆られた人が泥沼にはまることのないように制止して下さっている。
 頭の愚かさはハンムラビ法典最高、先制攻撃最強と考えても、神が与えた復讐の禁止を私の心はとても喜んでいる。

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[一版]2019年12月 4日
[三版]2024年 6月 9日

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イエスによる世からの解放

 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

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 「心の一新」は、与えられた聖霊によるもので、自力でどうこうして一新できる類いのものではない。イエスが与えて下さるものである。
 このこと自体よりも、この「心の一新」によって変えられた私は、この世と調子が合わなくなるとパウロは言う。
 現代の欧米社会のように強い自我を持つ社会であればまだしも、日本のような和を以て貴しとなす社会、「わたし」がなく「和」の平衡状態を重んじるKYの社会、突出する者を叩いては村八分にしてかかるこの社会において、世と調子を合わせないというのは相当の覚悟がいることである。だが、パウロは「この世と調子を合わせてはいけません」と書き、イエスも「わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)と言っている。
 イエスはまた「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。」(ヨハネ14:17)と言っている。このことからすると、イエスに救われた者はどの世であろうと世とは調子が合わなくなるのである。そして、この世と調子が外れるのは自分から世を捨てるのではなく、イエスによってであって、これこそ魂の救済なのである。世の原理では立ち行かないと思って救いを求めているのであれば、なおさらそうである。
 イエスの救いは、この世に馴染んで過ごしやすくなるようにすることよりも、人が本当に満足できるものを与えることである。この世には本当にはちっとも満足できない物質や情報で溢れており、これをめぐってあれこれやっている。悪魔がイエスに「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」(マタイ4:9)と提案するほどのものであるが、イエスはこれに見向きもしなかった。

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イエス同様「彼」は世界から捨てられる一方で「彼」は神に受け入れられる

 「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。」(ローマ11:15)

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 イスラエルと異邦人とについての文脈の中でのみことば。

 「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう」。
 この「彼」は、ここではイスラエル。
 だが、イスラエルだけでなく異邦人でも、私でも彼でも、誰にでも上のみことばに当てはまる。

 イエスは世界中の憎しみのさなかに、極刑の十字架につけられて死んでいった。
 しかし神によって、イエスはよみがえる。
 そのイエス同様、「彼」は世界から捨てられて、そのことによりその世界は和解をする。
 その一方で、捨てられた「彼」は神に受け入れられて、死者の中から生き返る。
 イエスを信じるということは、イエスがこの道筋を経るということである。
 このことに、イスラエルも異邦人も、私も彼もないのである。

 

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[一版]2008年10月22日
[三版]2024年 6月 2日

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