やみからの救い

 「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。
 だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」(ヨハネ12:46-47)

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 アダムによる違反以来このかた、人間はやみの中に閉ざされ続けている。
 そのことは、旧約の史書をざっと見るだけでも明らかだ。
 そして時至って、イエスが光として世に来られた。
 やみはこの光に打ち勝たなかった(ヨハネ1:4)。

 イエスという光は、やみの中にまで光り輝く。
 そのことが「世を救う」ということであり、もしその光が見えたならば、最早やみの中にはとどまらない。

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[付記]
 本日の記事は、2008年4月9日付記事の転載です。

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マタイ24章

 「イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」(マタイ24:3-4)

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 黙示形式でイエスが終末を語る。

 ところで私は暗記という作業を非常に軽んじているのだが、10年ほど前だろうか、教会の余興で詩篇119篇の暗唱ということをやった人がいて、まだ教会に通い始めたばかりの私は「……聖書ってそれ自体が大事なのではなく暗記の道具なの?」と思ったことがあった。
 多くの教会でやっている暗唱聖句も、心の中で小馬鹿にしていた。

 こんにち東日本は周知の状況にあるが、それとこのマタイ24章との関係について、私などには分かりようがない。

 だが、それはそれで、上に冒頭だけを引用したマタイ24章は、まるごと暗記して覚えるべき箇所なのでは、と思い始めた(東日本のこの状況がヒントになってそう思い至ったことは否めない)。
 この聖書箇所は救いの「型」で、産みの苦しみ(24:8)は救いについても全く同様に当てはまる。
 なのでマタイ24章を暗唱しておくと、救いの際に必ず伴う苦難を堪えやすくなると思うのだ。

 個人的に大切だと思うのは、「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。」(24:45)で、今やっていること、任務、責務は投げ出すな、というように今は解釈している。

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闇の子ども、光の子ども

 「イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。」(ヨハネ12:35-36)

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 イエスがいるあいだ、イエスは光であり、私たちはその光によって歩むことができる。
 その間に信じて光の子どもになれ、とイエスは言う。

 ここで、光と対置されているのは闇であり、つまり、闇の子どもというのがある。
 私たちは皆闇の子どもであり、方向性なく訳も分からず苦しんでいた。
 肉がもたらす死を、全く理解していなかった。

 だが、その闇の中に十字架という光が現れ、そのイエスを信じることが出来るようにしてくださった。
 光の子となって分かったことは、肉を肉と知ること、その肉がイエスの十字架により罪赦されたこと(肉の罪はなくならない)、そしてよみがえりということだ。
 そうして「いのち」をいただき、この闇の世にあって引きずる肉に苦しみつつも、見るべき方向が明らかになった。私たちは救われたのだ。

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この世のさばき

 「そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。
 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。
 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」(ヨハネ12:29-31)

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 栄光の時が来たことを悟ったイエスが神に願ったときの、天から神の声について。
 「今がこの世のさばきです」、そうイエスは宣言する。

 十字架という神の栄光が、この世を裁く。
 その裁きとは、サドカイ人を頂点とする支配構造に対する裁きでも、さらに、ローマに対する裁きでもない。
 また、悪人や律法を犯す者等を裁くのだ、という類のことでもない。

 イエスが架かる十字架というのは、裁きである。
 それも極刑としての裁きだ。
 その極刑によって、神の子イエスの肉、罪はないが人間と同じ肉が処罰を受ける。
 その処罰こそ、私たちすべての人間の罪深い肉に対する裁きなのである。
(私たちの罪深さは、一つ一つの行いに由来するというよりも、アダムの肉の存在それ自体に由来する。)

 この世を支配するアダムの原理そのものが裁かれ、次いでイエスの復活によって恵みの原理が導入される。

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[付記]
 本日の記事は、2009年4月4日付の記事に筆を加えたものです。

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no title

 昨日の激甚震災の被害を受けました方々に、お見舞いを申し上げます。

 このブログは平時に戻るまでの間、お休みします。
 今は、今やることをやりましょう。
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一粒の麦

 「すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12:23-25)

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 時期を悟るイエス。
 これから何をするのかは、唯一イエス自身だけが分かっている。

 イエスがこれからやろうとすることは、死んで、そしてよみがえるということである。
 罪のない肉を極刑に処し、赦されて復活する。
 肉が愛しい人には、「いのち」は無縁だろう。
 というより、肉の罪に気付きようがない。
 一方取税人のように、アダムの肉によって息詰まってしまった人こそ、「いのち」を渇望する。
 「いのちを憎む者」こそ救いに近い。
 悔い改めということの必要性も、そのためである。

 神の子イエスは、一粒の麦が落ちるように十字架に架かる。
 そのことによってはじめて、罪の赦しという豊かな実を結ぶのである。

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