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Unknown (ABE)
2008-03-31 11:26:24

面白い解釈ですね。このような解釈をはじめて聞きました。レビさんの内側にある「キリストのいのち」はそういう解釈に同意するのでしょうか。

私はこの姦淫の女の出来事には、大いに慰められ、救われ、キリストの深い愛を感じています。
ただ、キリスト(神であられる)だけが、「罪定め」と「赦し」が出来るお方です。
古い写本にはないこの記事が採用されたのは、全く神の主権であり、それは人のためであると感謝しております。

それにパリサイ人たちが「年長者からはじめて、ひとりひとり、、」というのは、自分が年配者になって、はじめて納得出来ます。キリスト者ですから当然ですが、肉の人、不信者でも年老いてくれば、自分の胸に手を当てた時姦淫をした者であることに気付くことが出来るようです。
それに、そこにキリストが居られたのですから、キリストの光によってパリサイ人も己の罪を認識出来たのではないでしょうか。



 
 
 
Unknown (Levi)
2008-03-31 20:55:13
 ABEさん、こんにちは。

 長く書いてみたのですが、どうも話がこんがらがってしまうので、ひとつだけ書いてみます。
 なぜ「イエス」は、姦淫の女に「わたしもあなたを罪に定めない」と言ったのでしょう。
 イエスが十字架に架かる意味との整合性を取ることが、私にはきわめて難しいのです。そして、イエスの愛というのは十字架、イエスの赦しも十字架ではないかと思います。
 また「罪」の意味も全く異なるでしょう。

 年長者のパリサイ人というのは、50歳を過ぎれば議員ですから、「年長者からはじめて、ひとりひとり」はよけいにないだろうと思うのです。
 これが一般人であれば、仰るとおりあり得た話だったでしょうけれども。

 
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