『自由』と『自由』

 「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:30-34)

---

 自由ということばについて、イエスの言うところと彼らの言うところが大きく違っている。

 彼らの言う自由とは、奴隷のような束縛や制限がないという意味での自由である。
 物理的な自由とでもいおうか。
 しかし彼らはその自由を手にしているのに、何故イエスを「信じる」のだろうか。自らの自由をせいいっぱい味わって踊って楽しめばいいのに。
 この彼らにしても、彼らの自由によっては自分が満たされることがないことをうすうす分かっていて、それでイエスを「信じ」た。

 そこでイエスは彼らに答える。「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」。
 イエスの言う自由とは、罪赦されて御父との和解の中にいる自由、責めのなくなる自由、心の縛りがなくなる自由を指す。だから奴隷だろうが奴隷でなかろうが自由はない。
 ところがイエスに従ってゆくと、イエスと同じく極刑の十字架に架かって死ぬところにくる。罪から解放されるためには、罪に死ぬ以外にないのである。そして、イエス同様復活する。これがイエスの言う真理であり、この真理が人を自由にする。
 この自由な人は解放されて真の満足があるので、もはや物理的な自由にもとらわれなくなる。

---

 健やかな一日をお祈りします!
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

いのちの光

 「 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
・・・・
 わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」(ヨハネ8:12,26)

---

 イエスは世の光である。
 なぜなら、「わたしを遣わした方は真実」だからで、言い換えると、御父の子としての光である。
 このイエスには、自身を遣わした御父がいつも一緒にいる。

 一方、「あなたがた」に対しては、イエスは「言うべきこと、さばくべきことがたくさんあ」り、つまり神に裁かれる存在であると言う。
 これを言い換えると、「あなたがた」は罪の中におり罪の中で死ぬのであり(24節)、このことをイエスは「やみ」と言っている。御父の怒りの下にあってこの御父と断絶しているからである。
 ここで、「あなたがた」とは誰か。
 文脈からすると、イエスとやりとりしているパリサイ人たちであるが、もっと広げて私たちひとりひとりのことである。
 御父はこのような私たちの「やみ」を照らす光として御子を遣わした。多くの人の内に「いのちの光」を灯したいのである。つまり聖霊の内住のことだ。

 私たちの内に聖霊がいるというのは、御子に御父があることと相似形である。
 イエスが「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。」(ヨハネ7:16)と言うのと同じく、内住の聖霊はわたしたちをそっと教え導く。
 そしてそうこうしているうちに、自分が世の原理から離れて神の原理で生きていることに、あるとき私たちは気付かされる。
 ちなみに、人となりが変わるわけではない。どうしようもない自分が神の原理で動くのである。
 どうしようもない奴が神の原理で動き、このどうしようもない奴の内に神が垣間見えるとしたら、御父の素晴らしさがより多く現れるのであるから、御父の知恵とはなんと深いことだろう。

---

 健やかな一日をお祈りします!
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

生ける水の川

 「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)


---

 心の飢え乾きを潤すためには、いったい人はどんなことをするのだろう。
 遊興や酒宴は、ほんのいっときのごまかしにしかならない。
 その余韻が過ぎさってしまうと、あの飢え乾きがまた襲ってくるのである。

 イエスを信じる者は、「心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」。
 心の根っこの部分が、生ける水の水源になる。
 それまではこの水源は塞がれていた。私たち自身の罪が塞いでいるのである。
 私たちはこの罪によって、十字架という極刑に処せられる。
 そしてイエスによってよみがえる。
 罪は赦され、御父は和解して下さる。なぜなら私たちは罪に死んだからだ。
 このときに、イエスを信じる信仰が与えられる。
 塞がれていたものは取り除かれ、心の奥底から生ける水が溢れんばかりに流れ出す。

 この生ける水の川は、私たちの内部から湧き出し続け、枯れることがない。
 そして、私たちの心は満ち足りる。
 一方で、外部からの刺激はこの満足感とは関係がないから、心の飢え乾きには意味をなさない。
 単にごまかしているだけになってしまう。

---

[一版]2009年 1月31日
[二版]2011年 1月 4日
[三版]2014年 7月19日
[四版]2018年12月29日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ダブルスタンダード

 「モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。――ただし、それはモーセから始まったのではなく、先祖たちからです。――それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。
 もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。
 うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」(ヨハネ7:22-24)

---

 イエスの主張は、こうだ。
 あなたがたは律法を遵守するためには、たとえ安息日であっても割礼という労働をしている。
 おなじように私(イエス)が安息日に「人の全身をすこやかに」するという労働をすると、なぜ腹を立てるのか。
 それではダブルスタンダードではないのか。

 神の律法はもちろん、どの人にも等しい。
 しかし、それを適用する人間の側に明らかな恣意があるため、上のようなあからさまなダブルスタンダードになってしまう。これは古今東西を問わないことと思われ、現代日本でもしばしば見受けられる。
 声の大きい者がこの世の勝者なのであり、もはや筋論など意味をなさない。「十字架につけろ」という、ピラトも挫けたあの狂騒もそうだ。
 そうすると、イエスがダブルスタンダードを訴えることに果たして意味はあるのだろうか。
 大いにある。
 御子イエスは、世の人々の不正、恣意を明確に示したのである。仮に私たち普通の人が同じ事を言ったとしたら、石を投げつけられるだけだろう。

 そうすると、どういうことがいえるのだろうか。
 この世に身を置き日々奮闘する私たちは、様々なダブルスタンダード、恣意や不正に遭遇し続けている。
 そしてそのこと自体に私たちは無力なのであるが、私たちの味わうこの理不尽さは御子イエスも味わい、表だって抗議していたのである。
 そのイエスは「世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。」(ヨハネ7:7)と、言っているので、世とはそういうものなのだろう。
 恣意を恣意として明らかにしたイエスと同様に、私たちも世の恣意を恣意として明確に意識することで、私たちがイエスの側にあって世の側にはいないことを確認できる。

---

[一版]2014年 7月13日
[二版]2018年12月28日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

家族の無理解

 「そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。
 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」
 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」(ヨハネ7:3-5)

---

 イエスの肉の上での兄弟たちの無理解。

 イエスと兄弟たちは、小さい子どもの頃から一緒だった。
 兄弟たちにとっては、記憶に残るあのイエスなのだ。一緒に遊び一緒にはしゃぎ、時には喧嘩したあのイエス。兄弟間でパンの奪い合いもしたかもしれない。
 しかし、今ここで彼らの前にいるイエスは、彼らの記憶の中のイエスではない。
 肉をまとった神、救い主イエスなのである。
 そうしたら、なまじ家庭で知っていた分、兄弟たちはイエスを救い主と認めることは余計にできなかっただろう。信じていない、というよりは、信じようがないという方が近いと思う。

 この無理解については、イエス自身も「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」(マタイ13:57)と言っているとおりである。
 それどころかイエスは、「わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」(マタイ10:34-36)とまで言い切る。
 つまり、「いのち」を得て生まれ変わることによって、家族、親戚や旧知の間柄からの無理解にさらされ、それどころか敵にまで回られてしまうのだ。
 だが、そうであってすら、いただいたこの「いのち」は素晴らしい。罪に死んでいた私が、今は神との平和の中で安らいでいる。

 だから、パンによって生きるのと、いのちのパンによって生きるのとは、まるで違ってくる。そしてここから無理解が生じるのだろう。
 イエスもそうであったように、この無理解は避けられない。

---

 健やかな一日をお祈りします!

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

恵みを待つ忍耐

 「これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
……
 そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」
 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」(ヨハネ6:58-60,65-66)

---

 去っていった弟子たちは、イエスに従えば「いのち」を得ることができると思っていたのだと思う。
 ところが、ここでイエスが言ったのは、御父の御心による恵みについてであった。行ないではなく恵みであるというのは、イエスがここで言うとおりの意味である。
 この去っていった弟子たちは、こう思っただろう。「こいつについて行ったって何もないんだってさ!」。

 では、私たちは何故それでもイエスにつき従うのだろう。何の役に立つというので聖書に接するのだろうか。
 それはもちろん、私たちがイエスに救いを求めているからだ。
 イエスは私たちをあわれんで、私たちのもとを訪れてくる時が来る。それが天からのパンなのである。
 わざではなく恵みによってなのであるから、恵みにあずかるまで忍耐強く待つ必要がある。
 去っていった弟子たちは、この忍耐が足りなかった。

 イエスとの出会いに必要なものは、行ないではなく、恵み、そしてその恵みを待つ忍耐である。

---

[一版]2017年 4月 2日
[二版]2018年12月16日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

一回限りの正餐

 「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」(ヨハネ6:53-55)

---

 イエスの肉を食らいイエスの血を飲むということ。
 この肉と血とは、イエスの十字架で裂かれた肉、流された血である。
 この十字架のイエスが私たちに会ってくださるときが来る。
 そのとき、私たちは「いのち」をはじめて与えられる。

 また、聖書の文字というのは、いつもは他の書物の文字となんら変わることがないが、「ことばは神」(ヨハネ1:1)というほかない時が来る。
 両者は異なる表現だが、どちらも同一の本質を指している。

 このようなことは、この一回限りである。
 一回出会いがあって赦されれば足りるからである。
 定例の儀式にはまた、別の目的がある。

---

[一版]2017年 3月26日
[二版]2018年12月15日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

神に教えられる

 「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
 だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
 わたしはいのちのパンです。
 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:45-51)

---

 イエスは仰る。「またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」。
 イエスは「世のいのち」のために、自らの肉を与える。
 肉をまとった神がその肉をささげて、「世のいのち」に供する。

 どのようにして供するのか。それが十字架である。
 イエス御自身が極刑を受けて、この肉を処断された。
 そして御父はこのイエスを復活させ、肉そのものに赦しを与えられた。
 このイエスの道が人々を救う。
 私たちも、イエスのようにこのアダムの肉を十字架で処断される。そして、赦されて復活するのである。

 ここでいう赦しは、マナとは何の関係もない。
 今イエスは、パンを目当てに追ってきた群集を相手に話されているが、彼らが欲しいのはあくまで空腹を満たすマナであって、それはイエスが与えようとする「いのちのパン」とは全く異なる。
 だからイエスは、この群衆にこう仰る。
 「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます」。
 群集はイエスのところに来たのではない。
 パンのありかを探しに来ただけだ。
 ところが、恵みによって「神によって教えられる」とき、その人はおのずとイエスのもとに駆けつける。
 十字架が、字面をはるか超えてはっきり了解できたからだ。
 もちろんイエスは、彼を受け入れる。

---

[一版]2007年11月19日
[二版]2009年 1月 5日
[三版]2010年 3月22日
[四版]2010年12月30日
[五版]2014年 7月 7日
[六版]2017年 3月12日
[七版]2018年12月14日

 健やかな一日をお祈りします!
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

パンで満ち足りていても満たされないとしたら

 「イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。
 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6:35-37)

---

 マタイ伝の中で試練にあったイエスは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:4)と言った。
 少し前に私はこの言葉を思いだした。そして、この物質主義の世はパンで満ちあふれているばかりかこのことが素晴らしいことと思われていて、人々は「いのちのパン」のことなど思いもしなくなっているように思えてきた。今は、加えて情報もあふれかえっている。
 だが、パンという物質や情報で人の魂が満ち足りるものではない。
 その証拠に、通勤電車では客同士が喧嘩しているのに出くわし、しかもどんどんひどくなってきている。些細なことでも怒鳴り合っている。

 つまり、パンに満ち足りるほど人は渇く。
 渇くことへの自覚がない人は、うっぷんが外に向かってたとえば他人に喧嘩をふっかける。
 しかし、パンがあふれる中で自分の飢え乾きに気付いたなら、私たちはイエスのもとに行く狭き道へと吸い寄せられたのだ。
 イエスは私たちに会ってくれる。そして、このイエスは私たちを決して捨てず共にいてくださる。
 人が本来求めている満足感は、このイエスと共にある満足感であり、パンの満足ではない。

---

 健やかな一日をお祈りします!

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

天からのしるし

 「イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。
 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」
 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」(ヨハネ6:29-33)

---

 マナを出すしるしをしたらイエスを信じると、この群衆はいう。さっき食べたばかりだというのに。
 それに対してイエスは答える。御父があなたがたに与える天からのパンは、マナとは違って、天から下ってきていのちを与えるものだと。
 この天からのパンこそ、しるしである。
 というのは、天からのしるしは人を極刑の死に至らしめ、そしてその人は復活の主と同じようによみがえるからである。
 だから、イエスのいう天からのしるしとは、死と復活という、イエスが切り開いた道のことを指す。
 腹が減ったからこういうことが起こればいいという御利益宗教的な願望とは違って、人間のいちばん根源的ところを満たすための神のしるしなのである。
 この根源的なところが満たされると、たとえば、マナをねだることから脱して、自分で耕作するようになる。心の根っこのところが満足感で満たされる。

 だから、私たちが真に必要なのは、食えばなくなるマナではなく、一度与えられれば心底満足できる神のパンである。
 たとえば、高級腕時計を無性に欲しがる見栄から脱して、どの時計でも満足できるようになる。
 そして、高級腕時計を手に入れるために遮二無二働くという商業主義のわなからも脱することができるようになる。
 この天からのパンは、今も降り注いでいるから、求める者には与えられるものである。

---

 健やかな一日をお祈りします!

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )