聖書の目的

 「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:30-31)

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 イエスは多くのしるしを行われた。
 多くの病人、体の不自由な人々、ハンセン氏病の人々を癒された。
 多くの人から悪霊を追い出した。
 死人をすら、よみがえらせた。
 知恵に優れ、巧みな例え話の数々で民衆に接し、策略をも見破った。
 そして、誰よりいつくしみ深かい。
 聖書には、とりわけ福音書には、こういった記述が溢れている。

 しかし、「これらのことが書かれた」聖書は、イエスの癒しや悪霊の追い出しに期待をもたせては、いない。
 例え話を例え話として読む者には、容赦がない。
(「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです」マタイ13:13)
 そして所詮は書物の登場人物なのだ、いつくしみ深い人(お方)にじかにめぐり会うということもない。

 だがそれでも、聖書記者達は書いた。
 イエスを伝えるため?
 というよりは、もっと積極的に、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため」だ。
 イエスを知識として知るためでは、ない。
 イエスを「キリストと信じる」ためだ。
 そのためには、キリスト(救世主)とはどのような存在か、ということを知る必要がある。
 つまり「救われる」ということについて。
 聖書記者達は、「しるし」ではなく文章などという愚かしい伝達手段によって、そのことを分かってもらおうと書いたのだろう。
 そうしてやがて、集められて聖書が編まれた。

 この聖書をはじめに一回読んでも、知識として文章や想像上の光景がいくばくか記憶に残るだけだ。
 二回読んでも、記憶量がもう少し増えるだけだ。
 百回読んでも、やはりその延長線上にすぎない。
 また、ひたすら大量に暗記しても、やはり「知識」は「知識」にすぎない。
 ところがここが聖書の不思議なところで、百一回目目に、「知る」が「信じる」に飛躍する。
 「キリストを信じる」。
 ある人は二十一回目かも知れないし、またある人は二百五十六回目かも知れない。
 ともかく放擲さえしなければ、いずれ「救われる」が分かって「信じる」に至り、「イエスの御名によっていのちを得る」ことになるはずだ。
 聖書を開いた時点で、すでにその道を歩みだしている。
 そしてそのため、人々に「いのち」を与えるためにこそ、聖書がある。


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[付記]
 本日の記事は、2007年9月7日の記事を少々修正したものです。
 長らく続きましたデフラグ作業も、明日で最後になります。

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