御父の権威、世の権威

 「そして、また官邸にはいって、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。
 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」
 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」
 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」(ヨハネ19:9-12)

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 教会で暗唱する使徒信条の中に、「主は聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、…」という箇所がある。
 昔日教会に通っていた頃、長老さんがこの箇所について、ピラトはそんなに悪いのかなあと思っていたがやっと理解できたということを言っていて、それまで何の疑問なく暗唱していた自分は逆に混乱を覚えた。
 今は混乱などしていない。いったいどのような理由でピラトが悪いというのだろう。

 ピラト総督は、ローマ帝国からこの地を治めるように派遣された権力者である。
 ローマ法に基づきこの地を統治する。
 今、神のことか律法とか王だとか、自身にとってはどうでもいいが統治する上で難しい問題が持ち上がった。
 イエスはピラトから問われても答えない。
 ここでピラトは「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威がある」という。 これはカイザルから委任された権威であり、千人隊長を動かす権威でもある。
 一方神の子イエスは、ピラトのこの権威に従おうとしない。
 御父による権威以外は「何の権威もありません」。
 イエスは御父に従い極刑に処せられようとしている。このことが多くの人の救いにつながるということは、この時点ではまだ誰にも分かっていない。

 私たちはひごろ、この世の様々な権威に従って生活を営んでいる。
 喜んで従うこともあれば、しぶしぶ従うこともある。
 また聖書にしても、律法やパウロの書き送る命令について、喜んで従ったりあるいは守らなかったりする。
 しかし、御父の権威とは従わざるを得なくなる流れであり、自分が自律的に従ったり従わなかったりを選べる何かではない。
 今日の聖書箇所でのイエスがまさにそうであり、そして、多くの人が気付くとイエスに続いて狭い道を歩んでいる。
 そもそもイエスが御父に従って十字架に架かろうとするのは、その後の復活を通して、この小道にいる人々に「いのち」を与えるためであった。
 これがもしピラトに強いられた十字架という位置づけだとすると、十字架とは2000年前のことを根に持ち続ける根拠なのであろうか。
 だから、信仰のことを考えるのであれば、イエスの十字架や復活はイエスを仲介とする御父と私との二者間のことであり、御父の権威に基づくものであるから、ポンテオ・ピラトは無関係だ。
 ピラトが決定を下したのは確かだが、それはこの世の権威についてのことなのである。

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神の御名の冒涜

 「それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。
 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」
 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」
 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。」(ヨハネ19:5-8)

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 祭司長たちとポンテオ・ピラトとの駆け引き。

 祭司長たちは言う。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります」。
 ここでいう律法とは、「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。」(レビ24:17)を指している(新改訳聖書の注釈より)。
 つまり、イエスは神の子を自称して神の御名を冒涜したから、律法に従うと最高刑の石打ちの刑になるのだという主張である。
 だったら常日頃からイエスは石打ちの刑に当たると糾弾し続ければいいものを、それは群衆が怖い。
 イエスは病をいやし人をよみがえらし、圧倒的な支持を集めているのだ。
 祭司長を筆頭とする指導者層は、イエスのわざを目の当たりにしても群衆恐さに何もできず、かえってイエスを憎んだ。
 イエスに人々が向けば向くほど、自分たちに従う人がいなくなってしまう。
 それでイエスを亡き者としたい。
 「神の子」を自称することが律法違反というのは、実はそのための口実にすぎない。
 常日ごろより人々に律法違反を振りかざす彼らにとっては、律法など単なる便法でしかないのだ。
 祭司長たちこそ神など敬っておらず、聖なる御名を冒涜しているではないか。

 なんのために聖書に接するのかは、どの時代においても常に問われるだろう。
 救われたいからか、支配したいからか。神との和解のためか、利権の維持のためか。
 律法は、自分の罪深さに気付くためのテコであり、気付いてはじめて救われたいと願う。
 この祭司長達は、果たして自身の罪深さに気付いていただろうか。

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[一版]2008年 5月 9日
[二版]2019年 5月19日(本日)

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不条理

 「ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。
 しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」
 すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ。」と言った。このバラバは強盗であった。
 そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。」(ヨハネ18:38-19:1)

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 ピラトはイエスに罪(guilty)を認めないと宣言する。
 ところが群集が騒ぎ出すと、一転してイエスを捕らえて鞭打ちに処する。
 罪がある(guilty)から鞭打ったのではなく、そうするしか事態収拾のメドが立たないとピラトが判断したからだろう。
 お白砂の場は最早機能せず、大強盗が釈放されてイエスが鞭打たれて罰せられる。

 この理不尽さ、不条理を、罪(sin)のないイエスが甘んじて受けている。
 これは私たちが味わう理不尽さ、不条理と全く同じものだ。法令その他に照らして何も悪くもないのに鞭打たれることがある、この理不尽さのことである。
 神の子イエスは今、人間の不条理をもここで体験してくださっている。
 世の不条理まで含めて、私たちのすべてを分かってくれている神なのである。

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[一版]2011年 5月29日
[二版]2014年11月30日
[三版]2017年 8月 2日
[四版]2019年 5月12日(本日)

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肉の弱さについて

 「一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない。」と言った。
 大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」
 それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。」(ヨハネ18:25-27)

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 一番弟子を自称するシモン・ペテロはイエスを否む。

 大祭司邸の私刑の場に、ペテロは潜り込む。
 弟子としてこの私刑を見届ける必要を感じたからだろうか。あるいは、もっとドライに情報収集をしていたのだろうか。
 おそらくそうではなく、単にイエスが心配だったからだろう。
 そうすると、神のことを人が心配するという構図になる。
 そして周囲の者から詰問されると「そんな者ではない」とイエスを否み、今度は人が神を突き放す。

 このペテロの一連の行動にこそ、人間の肉の弱さがよく現れている。
 この弱い肉は神の律法を守ることができずに罪が宿る。
 しかしイエスは肉の罪から人を救うために、ここで私刑を受けているのである。
 肉の罪からの救いのためのイエスと、肉の弱さを無防備にさらすペテロとが、大祭司邸内で対比されている。

 そしてイエスがここで行おうとしているのは、この弱い肉に宿る罪からの解放なのであり、弱い肉を強くすることではない。
 もしも弱い肉を強くすることができても、それは救いとは反対の無頼なのではないか。
 だから、イエスはここでペテロに対して情けなさいとかその類のものは感じてはいないだろう。むしろ、罪深さを自覚することを願い続けてきたはずだ。
 このことは、私たちについてもそのままあてはまる。イエスを否むかどうかよりずっと大切なことがある。

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信仰を与えられるということ

 「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」(ヨハネ17:25-26)

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 イエスの祈り。

 信仰とは、自分で取得できる類のものではなく、信じさせられるものである。
 このことについては何度か書いてきたが、上の聖書箇所もその信仰についてである。

 まず、弟子たちは「あなたがわたしを遣わされたことを知りました」。
 つまりイエスが知らせてはじめて弟子たちは御父を分かったのである。
 神が神であるということについて、どれだけ自分の力でつかみ取ろうとしても、それは観念の域を出ないだろう。
 それとは違い、イエスは恵みによって私たちにお会い下さり、そのときに私たちは神が神であることを分からされる。サウロ(パウロ)を思い起こせば、このことは明らかだ。

 神の実在と統御、これを認めざるを得なくなったとき、私たちはもはや、自分の好き放題に生きていた頃は終わり、イエスを介した御父とのつながりを回復した。
 私たちは、人としての本来の自然さに戻ったのだ。
 救いとは、このような回復のことである。迷った羊がもとに戻ることである。

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[一版]2014年11月 8日
[二版]2017年 7月23日
[三版]2019年 5月 5日(本日)

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一つ

 「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」(ヨハネ17:21-23)

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 イエスの祈り。

 私たちはイエスによって一つである。
 全うされて、一つである。
 以前はばらばらで孤児であった私たちが、
 今はひとりでいても一つである。

 自分こそが一番弟子だなどと勝手にやっていたあの弟子たちも、
 イエスの栄光に預かって一つになった。

 栄光とは、ひとりぼっちの十字架、そして復活。
 私たちの歩く狭い道の果てに、この十字架は姿を見せる。
 そこで極刑で死に、イエス同様よみがえる。
 よみがえって与えられる助け主が、私たちを一つにまとめている。

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『この世のものでない』人々

 「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。
 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」(ヨハネ17:14-20)

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 イエスの祈り。

 イエスは正に今、自分自身を聖別しようとしており、復活のイエス・キリストはのちに弟子たちを聖別する。このようにして、弟子たちもイエスと同じくこの世のものではなくなる。
 そのことは、「彼らのことばによってわたしを信じる人々」、すなわち、聖書越しに想像するしかない私たちについても当てはまる。
 イエスのみ姿を知らなくとも、復活のイエスが出会ってくださり私たちは聖別される。
 その恵みによってイエスを信じることとなる。正確には、イエスに信じさせられる。

 それで私たちは、もはやこの世のものではない。
 この世で生きていながら、この世のものではなくなるのだ。
 それで世は、私たちを憎む。
 世がイエスを憎んだからだ(参/ヨハネ15:18)。

 イエスは、これら「この世のものでない」人々を、「この世から取り去ってくださるように」父に願うことは、けっしてしない。
 私たちに安逸な逃避をさせるためにイエスが十字架にかかる訳ではない。
 かえって復活のイエスが与えた「いのち」は、世の憎しみその他諸々を引き受けて世を全うし、イエス同様世に打ち勝つ、そのためのものなのだ。
 それでイエスは、「悪い者から守ってくださるようにお願い」して、私たちを応援している。

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[1版]2008年 4月27日
[2版]2011年 5月18日
[3版]2014年11月 3日
[4版]2017年 7月17日
[5版]2019年 5月 1日(本日)

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