群集

 「パンを食べたのは、男が五千人であった。
 それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。」(マルコ6:44-45)

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 男だけで五千人もの人々がイエスの下に集まったにも拘わらず、イエスの奇蹟によって満腹すると、妙に物わかり良く、イエスに従って解散する群集。

 「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。」(マタイ13:14)

 群集にとって大切なことは腹いっぱいになったことであり、神のわざを見たことなどではない。
 むろん、パンのことを通して神のわざが顕れたことが大切なのである。
 だが、パンが増えても増えても、群集は悟ることが全くない。
 上に孫引きしたイザヤの預言は、その通りなのだ。

 ここでいう「群集」であってはならない。
 どんなにか恵みが降り注ごうと、彼らにはわからないからだ。
 自分にとって必要なものが、パンなのか、神のわざなのか、そのことを確認する必要がある。

 「イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:4)

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満ちあふれるほど増やす

 「するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」
 イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。
 そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。
 するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。
 人々はみな、食べて満腹した。」(マルコ6:38-42)

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 五千人の給食より。

 私たちは皆、アダムの子孫である。
 善悪の知識の木から食べてしまったアダムの子孫、罪の肉にからめとられた存在である。
 であるが、その私たちのうちには、かすかにアダムの栄光も残っている。
 私たちが、わずかながらも良心というものを宿しているのが、その一例だろう。

 イエスとの出会いによって、このようなアダムの栄光の跡が満ち満ちて増大する。
 それはどのくらい増えるのかというと、「人々はみな、食べて満腹」するほどのものであり、その人は罪赦されて「いのち」を回復するのである。

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からし種が蒔かれたとき

 「また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。
 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、
 それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」(マルコ4:30-32)

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 イエスのたとえ。

 聖書のみことばひとつひとつというのは、ここで言うからし種のようなもので、この世においては全く取るに足らないものにすぎない。
 それなのに、いったんみことばが蒔かれて芽を出すや、その人の全存在を支える、さらには、その人そのものとまでいえるほどの大きさとなる。
 彼の中に、神の国が出現したのだ。これが救いである。

 みことばの力とは、このようないのちの力なのである。
 みことばのどれかが蒔かれ、芽を出し、その人の中での全てになる。
 この瞬間が、回心、新生、名称はともかく、そのようなものだ。
 ただ、自分でみことばを蒔くのではない。
 それはむしろ、恵みによってなのである。

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蒔かれた種

 「そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。
 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。」(マルコ4:13-14)

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 種まきのたとえより。

 数々のみことばが、聖書からそれを読む人に蒔かれている。
 その蒔かれた種が、芽を出したり、あるいは出さなかったりする。
 蒔かれた全ての種から芽が出る必要はない。
 数々のうちから、ひとつだけみことばからが出るなら、聖書の目的は達せられる。
 みことばを悟り、悔い改めて、赦される(12節)。
 「悔い改め」とは、自分からすることではなく、突きつけられて受動的にそうするのであり、ヨブ記に詳しい。なお、この言葉は、「十字架に死ぬ」という、日頃ここで頻用する語句と同じである。

 みことばは、ある時にその人の中にするりと入り悟りへと導く。
(アウグスティヌスの「告白」が、このことを書いている。)
 そして、その人がどのみことばから悟るか、というのは、人それぞれのようなのだ。
 だから、種蒔く人の蒔いた種は、まんべんなく自分の「地」に受け入れた方がいい。

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正しい人

 「イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:14-17)

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 イエスは仰る。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」。
 イエスの弟子に囁いたパリサイ人は、自分が「正しい人」だと思っている。
 だが、こういう人間が救いに預かることは決してない。
 第一本人が救われようなどとは思っていないから、イエスの招きにも応じるつもりはないからだ。
 一方、救いを切実に願っているのは、レビをはじめとする罪人、取税人である。
 社会からもそう言われ続けてきた。
 彼らは自分自身の罪深さを自覚しており、イエスに救いを見いだしている。
 彼らが天の御国にずっと近いのは、そのためである。

 端的に、神の御前に「正しい人」などいない。一人もいない。
 律法が、そのことを人に悟らせるということは、イエスの山上の説教からも明らかである。
 神の律法に忠実で自分は正しいと思っているパリサイ人は、正にそのこと故に救いがたく、本来、イエスという医者を最も必要な存在であったろう。

 そのように、自分が正しいと思っている人には、イエスも、神の恵みも、イエスの救いも、全く無縁だと思う。

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罪を赦すイエス

 「そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。
 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。
 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。
 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。
 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」
」(マルコ2:3-7)

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 イエスの下に、中風の人が連れてこられた。
 イエスは彼の中風をいやすのではなく、彼に「子よ。あなたの罪は赦されました。」と宣言する。
(のちに、彼の中風をいやしている。)

 肉をまとって来られた神の子イエスは、極刑の十字架にその肉をはりつけにして復活することで、それを信じる人の罪が赦され救われることを宣言する。
 御子イエスには、人の肉の罪を赦す権限がおありなのである。
 というより、そのためにこの世に来られた。
 十字架に死んでよみがえったイエスに出会って、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と、肉の罪を赦していただくこと、これが救いである。

 病気のいやしと罪の赦しとでは、後者の方がありがたみが大きいことは言うまでもない。
 それがどんなに重い病気であっても、救われて神との関係が回復する事の方がはるかに優ることだ。

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わけありとたまたま

 「ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。」(マルコ1:16-20)

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 シモンもアンデレも、ヤコブもヨハネも、イエスからの召命を受けて、そこにあるものを捨ててイエスについていったのが何故なのだろう。
 彼らが「義に飢え渇いている」(マタイ5:6)ことを自覚していたからだろうか。

 それはともかく、イエスが声を掛けたのは、ここではこの4人だけだ。
 この港には、漁から戻ってきたもっとずっと多くの人がいたことは、想像に難くない。
 シモンがイエスから声を掛けられたのは、シモンにリーダーシップが見いだされたとか、シモンの働きぶりがよかったとか、あるいはシモンがいきいきしていたとか、そういうことではない。

 イエスがシモンを見いだしたのは、たまたまなのだ。
 たまたまイエスの視界にシモンが入ったので、シモンに声を掛けられた。
 これが恵みの世界なのである。
 その人の素質やスキル等で召命されるとしたら、それは恵みではなく、単なる因果になってしまう。
 ここで、因果というのは、例えば「奉仕の掃除をしたから救われる」という、いわばわけありの救いの理屈である。違う宗教だが「お百度参り」も、因果に乗っ取った考えだ。
 しかしそれと違って、イエスは「たまたま」声を掛け、お救いになる。
 そうすると、行ないという因果関係ではなく、恵みというあわれみによって救われる、というのが、イエスが導入した原理なのだ。

 イエスが「たまたま」声を掛ける人が多いのか少ないのか、恵みに預かる人が多いのか少ないのかは、私ども人間の人知を越えたところにある。

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裏切り

 「夕方になって、イエスは十二弟子といっしょにそこに来られた。
 そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
 弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言いだした。
 イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに、同じ鉢にパンを浸している者です。
 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(マルコ14:17-21)

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 最後の晩餐にて。
 イエスは、この十二弟子のうちのひとり(イスカリオテ・ユダ)が自分を裏切ることを、予め知っていた。
 そのように予め知っていたのは、イエスが神の子だからである。
 そのイエスは、一方で「しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」とも言う。
 恨み節とでも言おうか。
 人間の肉のなせる心の情動だろう。
 イエスが人間の肉をまとった神、という矛盾した存在であることは、この裏切りの件からも分かる。
 その肉を処分して赦しを与えるための十字架に、イエスはこれから架かるのである。

 十字架の道の途上でこのような裏切りの類に遭うことは、避けられない。
 裏切られ、見捨てられ、唾をかけられ、むち打たれ、そして極刑に処せられる。
 それが、唯一の生きる道なのだ。
 実際イエスは、復活する。
 そうすると、ユダは何故裏切ったのかとか、あるいは、裏切りの卑劣さとかは、ここでは本質的ではない。
 ただ、十字架の道中には裏切りのような許し難い目に遭う、ということを、イエスは私たち同じ十字架の道を歩む者に予め示してくださっている。

 恵みによって、この種の裏切りに遭うことは避けられない。
 肉を持つ身には恨み節が口をついても、確かに自分が十字架の道を歩んでいることを確認して喜ぶことは出来る。

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死ぬことを受け入れる信仰

 「それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
 そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
 みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(マルコ12:41-44)

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 レプタのやもめの箇所。

 聖書が約束する「いのち」は、イエスと同様に、死んでよみがえることによって初めて賜ることができる。
 私たちの十字架はイエスが身代わりになってくれたが、極刑に処せられる苦しみに預かることにかわりはない。
 この苦しみに死んで初めて、イエスのように復活して「いのち」に預かることとなる。

 レプタのやもめは、所持金全額を献金してしまう。
 彼女が何故そうしたのかはわからないが、なにかの苦しみの末、全てを神に委ねるほかなくなってしまったのではなかろうか。
 自らの全体重を神に委ねてしまい、自身は死ぬ。
 そのように死ぬこと、これこそ死んでその後どうなるかについて信じるということであるから、イエスは彼女に特に目を留めた。
 レプタのやもめは、いわば、信仰の型なのである。

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事は人間の願いや努力によるのではなく

 「神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみえ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:15-16)


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 聖書は、その聖書に期待を掛ける人にとっては、実はそらおそろしい書物である。
 「事は人間の願いや努力によるのではな」いからだ。

 ここで、「事」とは、神のあわれみを受けること、もっと言うと、イエスの十字架にあずかって神の赦しを受けることである。
 そしてそのことは、もっぱら神の恵みによるのであり、「人間の願いや努力」は、救い、赦しに対しては、全くの無関係なのである。
 願い、努力したがゆえに神があわれんでくださる、そういう因果は全く成り立たない。
 一般に、願ったり努力することは、大切なことだ。だが、それと救いとは全く関係がないのである。
 たしかに願い、努力して神があわれんでくださった人は多いと思うが、それは、願い、努力したからではなく、神が「自分のあわれむ者をあわれ」んだからであり、これが恵みの世界である。

 「事は人間の願いや努力によるのではな」く、ただ恵みによるのである。

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