イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
なにゆえにイエスを喜ぶのだろう
「そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」
こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。
群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。」(マタイ21:9-11)
---
イエスのイスラエル入城。
イエスは群集から、あらんばかりの祝福を受けている。
ただ、その祝福は、イエスこそローマの支配から解放してくれるだろう、というものであり、それでイエスに「ホサナ」と叫んでいる。
一方イエスは大分前から、「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」(マタイ16:21)。
イエスは、多くの苦しみを受けて十字架に架かるために、エルサレムに入る。
それは、人間の肉の罪を処罰するため、そして復活を通して、それらのことを信じた人間が罪赦されるためである。
群集とイエスとの間の、このあまりのギャップ。
群衆達の、徹底した無理解。
だから気付くと、この群集はのちに「十字架につけろ」(マタイ27:22)などと、真逆のことをイエスに向かって叫びだす。
そうすると、一体どのような期待をイエスに持つのだろう。
なにゆえにイエスを喜ぶのだろうか。
ローマ支配からの解放のような全くの筋違いを、私たちはイエスに求めてはいないだろうか。
しかし、たとえそうであっても、恵みによって復活のイエスに出会うと、なにゆえにイエスを喜ぶのか、イエスに真に期待するものが何なのかが、瞬時にしてはっきりわかるようになる。
だから最初はみな、上の群集と同じなのだ。
---
[一版]2010年 7月26日
[二版]2013年12月17日
[三版]2016年 8月 7日
[四版]2018年 5月27日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。
群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。」(マタイ21:9-11)
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イエスのイスラエル入城。
イエスは群集から、あらんばかりの祝福を受けている。
ただ、その祝福は、イエスこそローマの支配から解放してくれるだろう、というものであり、それでイエスに「ホサナ」と叫んでいる。
一方イエスは大分前から、「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」(マタイ16:21)。
イエスは、多くの苦しみを受けて十字架に架かるために、エルサレムに入る。
それは、人間の肉の罪を処罰するため、そして復活を通して、それらのことを信じた人間が罪赦されるためである。
群集とイエスとの間の、このあまりのギャップ。
群衆達の、徹底した無理解。
だから気付くと、この群集はのちに「十字架につけろ」(マタイ27:22)などと、真逆のことをイエスに向かって叫びだす。
そうすると、一体どのような期待をイエスに持つのだろう。
なにゆえにイエスを喜ぶのだろうか。
ローマ支配からの解放のような全くの筋違いを、私たちはイエスに求めてはいないだろうか。
しかし、たとえそうであっても、恵みによって復活のイエスに出会うと、なにゆえにイエスを喜ぶのか、イエスに真に期待するものが何なのかが、瞬時にしてはっきりわかるようになる。
だから最初はみな、上の群集と同じなのだ。
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[一版]2010年 7月26日
[二版]2013年12月17日
[三版]2016年 8月 7日
[四版]2018年 5月27日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
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イエスの杯
「イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」
けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます。」と言った。
イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」(マタイ20:21-23)
---
イエスはこれから十字架という杯を飲もうとしている。
イエスの道を切り開くためだ。
そののち、ゼベタイの子たちも、そのイエスの杯を飲むことになる。
ただそれは、飲みたくて飲むのではなく、気づくと飲まざるを得なくなるのである。
イエスの杯は、イエスと同じように実際に十字架に架かるわけではないが、それに類する大きな苦しみを味わう。
この苦しみについては、アウグスティヌスの「告白」に非常に詳しい。
罪深い肉を処罰している苦しみであるから、救いのためにどうしても通らなくてはならない。
そうして肉が処罰されたらイエス同様復活し、罪の赦しに魂の安らぎを得る。
そうすると、ほかの弟子より偉いのなんのということは、もはや意味をなさなくなる。
神-イエス-弟子という関係になり(参/ヨハネ17:23)、ほかの弟子とは競争関係にならなくなるのである。
救われるためには、与えられた苦しみ、このイエスの杯を飲み干す必要がある。
ただ、このイエスの杯は、自分から飲みにいくものではなく、気付くと飲まされている類のものだ。
---
[一版]2013年12月16日
[二版]2016年 7月31日
[三版]2018年 5月26日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます。」と言った。
イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」(マタイ20:21-23)
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イエスはこれから十字架という杯を飲もうとしている。
イエスの道を切り開くためだ。
そののち、ゼベタイの子たちも、そのイエスの杯を飲むことになる。
ただそれは、飲みたくて飲むのではなく、気づくと飲まざるを得なくなるのである。
イエスの杯は、イエスと同じように実際に十字架に架かるわけではないが、それに類する大きな苦しみを味わう。
この苦しみについては、アウグスティヌスの「告白」に非常に詳しい。
罪深い肉を処罰している苦しみであるから、救いのためにどうしても通らなくてはならない。
そうして肉が処罰されたらイエス同様復活し、罪の赦しに魂の安らぎを得る。
そうすると、ほかの弟子より偉いのなんのということは、もはや意味をなさなくなる。
神-イエス-弟子という関係になり(参/ヨハネ17:23)、ほかの弟子とは競争関係にならなくなるのである。
救われるためには、与えられた苦しみ、このイエスの杯を飲み干す必要がある。
ただ、このイエスの杯は、自分から飲みにいくものではなく、気付くと飲まされている類のものだ。
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[一版]2013年12月16日
[二版]2016年 7月31日
[三版]2018年 5月26日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
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1デナリを待つ忍耐
「また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』」(マタイ20:6-12)
---
救いについてのイエスのたとえ話。
9時に雇われた人も5時に雇われた人も、同じ1デナリが報酬として与えられる。
これは、罪の赦しとか神との和解、すなわち救いについては、救われたか、まだ救われていないかという2つの状態だけだからである。
言い換えると、信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。
「信仰が増す」とか「信仰の成長」などということは、ない。
1デナリを与えられたか、まだ与えられていないかの2状態だけである。
その信仰は恵みにより、行ないにはよらない。
だから長時間働いているかどうかよりは、主人の声に応じたということが問われている。
それにしても、5時までずっと仕事を探し続けた人々は、忍耐強かった。
もう日が暮れようとしている5時に遂に声をかけられた。ついに恵まれたのだ!
救いを与えられるのにもっとも必要なものがあるとすれば、この恵みを待ち続ける忍耐ではないだろうか。
イエスは、求める者の戸の前に立ってたたく(黙3:20)。
だから私たちは、いつ来られるかを忍耐して待ち続けるのである。
---
[一版]2013年12月15日
[二版]2016年 7月18日
[三版]2018年 5月20日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』」(マタイ20:6-12)
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救いについてのイエスのたとえ話。
9時に雇われた人も5時に雇われた人も、同じ1デナリが報酬として与えられる。
これは、罪の赦しとか神との和解、すなわち救いについては、救われたか、まだ救われていないかという2つの状態だけだからである。
言い換えると、信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。
「信仰が増す」とか「信仰の成長」などということは、ない。
1デナリを与えられたか、まだ与えられていないかの2状態だけである。
その信仰は恵みにより、行ないにはよらない。
だから長時間働いているかどうかよりは、主人の声に応じたということが問われている。
それにしても、5時までずっと仕事を探し続けた人々は、忍耐強かった。
もう日が暮れようとしている5時に遂に声をかけられた。ついに恵まれたのだ!
救いを与えられるのにもっとも必要なものがあるとすれば、この恵みを待ち続ける忍耐ではないだろうか。
イエスは、求める者の戸の前に立ってたたく(黙3:20)。
だから私たちは、いつ来られるかを忍耐して待ち続けるのである。
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[一版]2013年12月15日
[二版]2016年 7月18日
[三版]2018年 5月20日(本日)
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死ななくては生きない
「すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。
父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。」(マタイ19:16-22)
---
金持ちの青年のたとえ。
「いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい」とイエスは言う。
戒めを守ろうとし、戒めにつきあたり、戒めに死ぬところに、復活のいのちが見いだされる。
そしてイエスはこれから、この十字架の道を開こうとしている。
しかし、この金持ちの青年は、「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」と、ぬけぬけと言ってのける。
戒めをみな守っていると思っていて疑いもしない。
そこでイエスは手を変える。「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」。
彼が全財産を施すということは、彼からすると自身の死を意味するから、この金持ちの青年は立ち去ってしまった。
しかし、死ななくては生きないのである。
より具体的には、律法によって重罪人とされ十字架で処され、イエスと同じように復活して「いのち」をいただく。
金持ちの青年が欲しかったものは正にこの「いのち」であったはずなのだが、彼はその「いのち」のために死ぬということができなかった。
「いのち」は、恵みによってどの人にも与えられる。貧乏人にも金持ちにも、いい人にも悪い人にも、分け隔てはない。
現にこの金持ちの青年にも、イエスは大きなチャンスを与えている。「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」と。
---
[一版]2010年 7月21日
[二版]2013年12月12日
[三版]2016年 7月17日
[四版]2018年 5月19日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。
父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。」(マタイ19:16-22)
---
金持ちの青年のたとえ。
「いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい」とイエスは言う。
戒めを守ろうとし、戒めにつきあたり、戒めに死ぬところに、復活のいのちが見いだされる。
そしてイエスはこれから、この十字架の道を開こうとしている。
しかし、この金持ちの青年は、「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」と、ぬけぬけと言ってのける。
戒めをみな守っていると思っていて疑いもしない。
そこでイエスは手を変える。「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」。
彼が全財産を施すということは、彼からすると自身の死を意味するから、この金持ちの青年は立ち去ってしまった。
しかし、死ななくては生きないのである。
より具体的には、律法によって重罪人とされ十字架で処され、イエスと同じように復活して「いのち」をいただく。
金持ちの青年が欲しかったものは正にこの「いのち」であったはずなのだが、彼はその「いのち」のために死ぬということができなかった。
「いのち」は、恵みによってどの人にも与えられる。貧乏人にも金持ちにも、いい人にも悪い人にも、分け隔てはない。
現にこの金持ちの青年にも、イエスは大きなチャンスを与えている。「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」と。
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[一版]2010年 7月21日
[二版]2013年12月12日
[三版]2016年 7月17日
[四版]2018年 5月19日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
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99匹と1匹
「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」(マタイ18:10,12-17)
---
イエスと弟子との問答(18:1)。
異邦人は汚らしいし、取税人も汚らしい。
ところが、イエスは取税人マタイやレビを召す。ちなみに、そのことを書き記したのもまた、取税人マタイである(参/マタイ10:3)
彼らは、99匹の側ではなく、1匹の側だった。
この1匹は、99匹から見下げられ続け、憔悴し切っている。
イエスは弟子に、あなたがたまでがその1匹をしいたげるなと、ここでそう言っている。
イエスが救おうとするのは、この1匹だからである。この1匹は、救いを求めている。
一方、99匹には自覚がない。自覚がないから救いが求められていない。
だが、その99匹の中からやがて1匹が迷い出ることがままあり、そのときイエスは、その1匹に手を差し伸べるに違いない。
---
[一版]2016年 6月 5日
[二版]2018年 5月12日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」(マタイ18:10,12-17)
---
イエスと弟子との問答(18:1)。
異邦人は汚らしいし、取税人も汚らしい。
ところが、イエスは取税人マタイやレビを召す。ちなみに、そのことを書き記したのもまた、取税人マタイである(参/マタイ10:3)
彼らは、99匹の側ではなく、1匹の側だった。
この1匹は、99匹から見下げられ続け、憔悴し切っている。
イエスは弟子に、あなたがたまでがその1匹をしいたげるなと、ここでそう言っている。
イエスが救おうとするのは、この1匹だからである。この1匹は、救いを求めている。
一方、99匹には自覚がない。自覚がないから救いが求められていない。
だが、その99匹の中からやがて1匹が迷い出ることがままあり、そのときイエスは、その1匹に手を差し伸べるに違いない。
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[一版]2016年 6月 5日
[二版]2018年 5月12日(本日)
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子どものように
「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(マタイ18:1-4)
---
そこにいた子どもに材を取って天の御国をたとえるイエス。
天の御国に入るのにどうしても必要なことは、悔い改めることだ。
肉の罪を律法によって指摘されて自覚する。
ところが、自覚したこの罪を悔い改めることが、自力ではどうしてもできない。
罪の肉が罪の肉を改めようなどとは、できないのだ。
そこで、外からの力が必要になる。
その外からの力こそ、イエスの道であり、極刑としての十字架なのである。
私たちの肉はイエスの十字架とともにはりつけになって処分され、そしてイエス同様復活する。
子どもは自分を低くしようと思ってそうしているのではない。
そもそも無力なだけだ。
それと同様、罪深いこの肉が処分されて救われるとき、肉は子どものように無力になる。できていたことまでできなくなる。
そのように、生まれ変わって無力になることによってのみ、天の御国に入れるのだとイエスはいう。
子どものようになれ、というよりは、悔い改めると自然とそうなってゆく。
---
[一版]2012年 5月 6日
[二版]2013年12月 1日
[三版]2016年 6月 1日
[四版]2018年 5月 6日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(マタイ18:1-4)
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そこにいた子どもに材を取って天の御国をたとえるイエス。
天の御国に入るのにどうしても必要なことは、悔い改めることだ。
肉の罪を律法によって指摘されて自覚する。
ところが、自覚したこの罪を悔い改めることが、自力ではどうしてもできない。
罪の肉が罪の肉を改めようなどとは、できないのだ。
そこで、外からの力が必要になる。
その外からの力こそ、イエスの道であり、極刑としての十字架なのである。
私たちの肉はイエスの十字架とともにはりつけになって処分され、そしてイエス同様復活する。
子どもは自分を低くしようと思ってそうしているのではない。
そもそも無力なだけだ。
それと同様、罪深いこの肉が処分されて救われるとき、肉は子どものように無力になる。できていたことまでできなくなる。
そのように、生まれ変わって無力になることによってのみ、天の御国に入れるのだとイエスはいう。
子どものようになれ、というよりは、悔い改めると自然とそうなってゆく。
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[一版]2012年 5月 6日
[二版]2013年12月 1日
[三版]2016年 6月 1日
[四版]2018年 5月 6日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
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からし種ほどの信仰
「そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイ17:19-20)
---
イエスは言う。「からし種ほどの信仰」。
つまりそれは、信仰があるのである。
信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。
たとえば、「信仰が30%ある」ということはない。
違う言い方をすると、信仰とは獲得するものではなく与えられるものである。
罪を自覚し、背負わされた十字架を背負って死に至り、そしてよみがえって与えられる。
このとき、私たちの内で、何かがごろっと大きく動く。まさに山が動いたのである。
もしも実際の山を動かすほどの力が欲しいとすれば、それは、自分こそ神になりたいというのと同義になってしまう。
そうではなく、信仰とは罪赦されて神と和解した結果、神と共にあるということなのである。
だから、信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。
---
[一版]2013年11月30日
[二版]2016年 5月22日
[三版]2018年 5月 5日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイ17:19-20)
---
イエスは言う。「からし種ほどの信仰」。
つまりそれは、信仰があるのである。
信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。
たとえば、「信仰が30%ある」ということはない。
違う言い方をすると、信仰とは獲得するものではなく与えられるものである。
罪を自覚し、背負わされた十字架を背負って死に至り、そしてよみがえって与えられる。
このとき、私たちの内で、何かがごろっと大きく動く。まさに山が動いたのである。
もしも実際の山を動かすほどの力が欲しいとすれば、それは、自分こそ神になりたいというのと同義になってしまう。
そうではなく、信仰とは罪赦されて神と和解した結果、神と共にあるということなのである。
だから、信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。
---
[一版]2013年11月30日
[二版]2016年 5月22日
[三版]2018年 5月 5日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
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立て直し
「イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。
しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」
そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」(マタイ17:11-13)
---
エリヤの時代も不信仰な時代だったという。
北イスラエルは国を挙げてバアル信仰に傾倒していた。
(完全に忘れていたので、あんちょこで調べた。)
しかし当時はまだ、信心が目的であることに違いはなかった。
ところが、バステスマのヨハネの頃に時代が下ると、信心は目的ではなく手段に堕した。
たとえばイエスは、安息日についてパリサイ人から何度もつっかかられる。
彼らパリサイ人は、律法の遵守を目的とはしてはいない。
イエスを攻撃したいので、その口実に安息日の律法を利用しているにすぎない。
それにしても、パリサイ人たちが警察官のようにパトロールして回るのは、はたして安息日遵守には違反しないのであろうか。
不信仰というより、端的に言って秩序が崩壊しつつあったのだろう。ローマ占領下ということもあるかもしれない。
この、崩壊しかかった秩序は、十字架と復活のイエスによって立て直された。
使徒達は、多くの地域にこのイエスを伝え歩いた。
だが、そのような広がりについて以上に、多くの人が復活のイエスによって救われて、その魂が立て直されたのである。
言い方を変えると、崩壊しかかっていた人の内側が秩序を取り戻す。
元に戻るのではない。新しくなる。それも、一瞬にして立て直される。
物質主義全盛の現代は、カネというものが、もう、むき出しにして扱われている。
カネこそ全てと信じて疑わず、合理性にあまりに偏重している。
しかしそれでは、人の内側はひからびきってしまうのだ。
だからこそ、イエスとそのイエスによる立て直しという非合理さが、今まで以上に大切なように思う。
---
健やかな一日をお祈りします!
しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」
そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」(マタイ17:11-13)
---
エリヤの時代も不信仰な時代だったという。
北イスラエルは国を挙げてバアル信仰に傾倒していた。
(完全に忘れていたので、あんちょこで調べた。)
しかし当時はまだ、信心が目的であることに違いはなかった。
ところが、バステスマのヨハネの頃に時代が下ると、信心は目的ではなく手段に堕した。
たとえばイエスは、安息日についてパリサイ人から何度もつっかかられる。
彼らパリサイ人は、律法の遵守を目的とはしてはいない。
イエスを攻撃したいので、その口実に安息日の律法を利用しているにすぎない。
それにしても、パリサイ人たちが警察官のようにパトロールして回るのは、はたして安息日遵守には違反しないのであろうか。
不信仰というより、端的に言って秩序が崩壊しつつあったのだろう。ローマ占領下ということもあるかもしれない。
この、崩壊しかかった秩序は、十字架と復活のイエスによって立て直された。
使徒達は、多くの地域にこのイエスを伝え歩いた。
だが、そのような広がりについて以上に、多くの人が復活のイエスによって救われて、その魂が立て直されたのである。
言い方を変えると、崩壊しかかっていた人の内側が秩序を取り戻す。
元に戻るのではない。新しくなる。それも、一瞬にして立て直される。
物質主義全盛の現代は、カネというものが、もう、むき出しにして扱われている。
カネこそ全てと信じて疑わず、合理性にあまりに偏重している。
しかしそれでは、人の内側はひからびきってしまうのだ。
だからこそ、イエスとそのイエスによる立て直しという非合理さが、今まで以上に大切なように思う。
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健やかな一日をお祈りします!
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生きるがために死ぬ
「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:23-26)
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自分語りをする。
かつて教会に行っていた頃、自分はとても苦しかった。
そして愛情の類にも飢えていた。
だから私は、牧師にべったりと寄り添って離れなかった。この牧師こそ自分を助け出してくれるのだと。
こうなると、その牧師にどんどん盲目的になっていく。
ここから先は省略するが、この自分の経験から言うと、世に言う洗脳というのは、考えや思想の類を刷り込まれることではなく、指導者への盲従へと陥ることなのではないかと思う。
まさに「神のことを思わないで、人のことを思っている」ということになる。
言葉を換えると、これこそ偶像礼拝というのだろう。だからイエスは「下がれ。サタン」とペテロを叱った。
上に書いたことを一言で言うと、私は自分が助かりたいので自分を守ろうとしていた。
しかしイエスが言うことはその逆だ。
「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」。
生きるがために死ぬのである。
死ぬ、というよりは、死がやってくるのであり、死がやってくるということは、未だかつてない苦しみを味わうということである。
ここでいう死とは、もちろん十字架の死、それから三日目の復活のことを指す。
この救いへの道筋を、神の子イエスが切り開いてくれたのだ。
上に、大昔の自分のしょうもなさについて書いた。
今もしょうもないことはたいして変わりはないのだが、かつて牧師に盲従したような依存心の類はきれいになくなった。
では自立しているのかというと、それも違う気がする。
依存とか自立とかというより、内住してくれる存在によって非常に満たされたということではないかと思っている。
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健やかな一日をお祈りします!
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:23-26)
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自分語りをする。
かつて教会に行っていた頃、自分はとても苦しかった。
そして愛情の類にも飢えていた。
だから私は、牧師にべったりと寄り添って離れなかった。この牧師こそ自分を助け出してくれるのだと。
こうなると、その牧師にどんどん盲目的になっていく。
ここから先は省略するが、この自分の経験から言うと、世に言う洗脳というのは、考えや思想の類を刷り込まれることではなく、指導者への盲従へと陥ることなのではないかと思う。
まさに「神のことを思わないで、人のことを思っている」ということになる。
言葉を換えると、これこそ偶像礼拝というのだろう。だからイエスは「下がれ。サタン」とペテロを叱った。
上に書いたことを一言で言うと、私は自分が助かりたいので自分を守ろうとしていた。
しかしイエスが言うことはその逆だ。
「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」。
生きるがために死ぬのである。
死ぬ、というよりは、死がやってくるのであり、死がやってくるということは、未だかつてない苦しみを味わうということである。
ここでいう死とは、もちろん十字架の死、それから三日目の復活のことを指す。
この救いへの道筋を、神の子イエスが切り開いてくれたのだ。
上に、大昔の自分のしょうもなさについて書いた。
今もしょうもないことはたいして変わりはないのだが、かつて牧師に盲従したような依存心の類はきれいになくなった。
では自立しているのかというと、それも違う気がする。
依存とか自立とかというより、内住してくれる存在によって非常に満たされたということではないかと思っている。
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