キリストの道を歩むということ

 「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(1ペテロ2:20-23)

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 十字架に架かって死んで、三日目によみがえったイエス・キリストは、そのイエスを信仰するにとっての模範である。
 どういう意味での模範かというと、イエスがはじめて切り開いたその道を、イエスによって救われた私たちはその後ろから歩んでいる、そういう意味での模範である。

 ここでペテロは途方もなく大きな勘違いをしているが、耐え忍んでいるのではなく耐え忍ぶ以外の何もできないのである。
 ののしり返さないのではなく、ののしり返すことすらできないのである。
 もし、口答えできるのだがあえて忍耐しているのだとしたら、それはその人がまだ十字架に死んでいないからで、この道の入り口にも達していない。
 全てに受動的になって、無力化してしまう。口答えなど、そもそもできない。
 つまり、幼子に退化してしまうのだ。

 「しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」(マタイ19:14)

 このとおりであり、幼子に退化してしまうのは、世間ではやりづらくとも、この道を歩む上での必然であり、むしろ御国に適うために望ましい変容なのだと思う。

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クリスチャン

 「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
 キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。
 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」(1ペテロ1:18-21)

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 「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々」。
 この人々をキリスト者、つまりクリスチャンと定義づけた方が、使徒行伝の一節によるよりもより適切だろうと思う。
 この一文には十字架と復活が不足なく備わっているからである。

 「傷もなく汚れもない子羊」が、罪深い私たちの身代わりに十字架に架かって死に、そして三日目によみがえって現れたイエス。
 このイエスに出会って「いのち」を受けて新しく生きる人がクリスチャンである。
 だから、クリスチャンになるというより、クリスチャンにさせられるという方が近い。
 自力、金銀、行ないでどうこうなるものではなく、ただ恵みによる。
 恵みによって、むなしかった生活からこの新しい生活へと切り替わるのである。

 だから、他人からその様をどう呼ばれるかということは、信仰の有無とはまったく無関係なのである。

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悲しみと喜び

 「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、
 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(1ペテロ1:6-9)

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 生きていると、喜怒哀楽いろいろなことがある。そのこと自体は、誰であれそうだろう。
 信仰というのはあるかないかのどちらかしかないが、恵みにより信仰している人にとってもまた、喜怒哀楽いろいろある。
 信じたら悲しみがなくなるとか、そんなことは全くない。
 むしろ逆かもしれない。それが、信仰のゆえの悲しみであり、あるいは迫害という形で顕れるかも知れない。

 そうした悲しみに覆われている時でも、根底には喜びが潜んでいる。
 ただ、その潜んでいる喜びに気付きにくいだけで、悲しみの中にあっても、根底にあるものは救われた喜びである。
 ここで救いとは、十字架と復活を信じることができたという神の御恵みに他ならない。
 私たちには、このたましいの救いに基づく喜びが根底にあって、その上で生きてゆく上での喜怒哀楽を日々味わっている。

 そういうわけで、悲しみに覆われているときには聖書をひもとく。
 聖書に書かれていることについてあれこれ思いを巡らせているうちに、根底に隠されている喜びが顔をのぞかせてくるからだ。
 私たちは世俗の手垢にまみれた者であるが、聖書のことばがその手垢を拭い去って、地の喜びを思い起こさせてくれるかのようである。

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[付記]
 本日と同じ聖書箇所について、以前に同じタイトルで書きましたが、本日の記事はそのときとは全く異なるものです。

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天という資産

 「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」(1ペテロ1:4)

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 天に蓄えられている資産とは、何だろう。
 それは天に行きそこで報われるという事に他ならない。

 天に行くことができるというのは、確信というよりは自明の理の類のもので、根拠を伴っている。
 その根拠とは、キリストの十字架と復活だ。
 キリストの復活があるから、その罪なき肉の死と復活に恵みによってあずかった私たちは「いのち」をいただくことが叶い、それで終わりの日にもこころ安らかなのである。

 それはもはや自明のことなので、朽ちることも消えることもない。
 また、汚れようもない。
 どんな逆境であっても天が見えなくなることはない。むしろ逆境の時にこそ、その希望が強い支えとなる。

 十字架と復活は私たちに、このような資産を与えてくれる。
 その資産はほかのものとは交換不能であるから、お金では手に入らない。
 労働、行ないによっても、手に入らない。
 それは神の御恵みによってのみ、与えられる。

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福音の全て

 「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」(1ペテロ1:3)

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 ペテロの手紙第一から。
 ずいぶんとひさしぶりに、昨日開いた。
 すると、書き始めからとてつもない事を書いてくれていることに気付き、あらためてペテロに驚いた。いや、失礼なのは承知しているのだが、……ペテロというのは基本的にはダメなのだ。
 ガラテヤ書2:11-21に事の顛末が書かれているが、特に「私(註:パウロ)はみなの面前でケパ(註:ペテロ)にこう言いました。「あなたは、……、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。」(2:14)とあり、ペテロはパウロからもお叱りを受けてしまう。

 ところが、このダメペテロが上の聖句を書いたりする。このことが素晴らしい。
 ペテロは、福音の全てを、たったの一行で書いてのけてしまうのだ。

 「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」

 これが福音の全てで、必要にして十分だと思う。
 しばしばヨハネ3:16が聖書の中の聖書と言われるが、このペテロの一行も、聖書の中の聖書と言いたい。
 イエスが十字架に死に、三日目によみがえって、それで私は「新しく生きる」のである。
 それまでは死んでいたのだが、全ては御父の恵みによるのである。
 ペテロもそのように、新たに生まれた。
 新たに生まれたからといって、だめなところが変わる訳ではない。
 だが、救われたことは、上の引用聖句をさらっと書いてのけることからしても明らかだ。

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[付記]
 本日の記事は、2007年8月3日付記事を、大幅に書き直したものです。

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罪についての権限

 「イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(ヨハネ20:21-23)

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 罪を赦す権限は、御父だけがお持ちのものだ。
 だが御子はその権限を、「聖霊を受け」た人たちに与えてくださる。

 罪がそのまま残るがどうかということは、最後の日にどうなるかということなので、この権限はあまりに大きい。
 御父は御子にこの権限を与えてこの世に遣わした(参/マタイ9:1-8)。
 どのような事物にもこの権限は使用され、空腹のイエスはいちじくの木を枯らしてしまったほどだ(マタイ21:18-22)。

 今、復活のイエスは「平安があなたがたにあるように。」と仰っている。
 平安こそ、もっとも価値のあるものなのだろう。
 であれば、自分の平安のために、この絶大な権限を使えばよい。
 他人をいたずらに貶めることで自分の平安が保たれることはまずないだろうから、「聖霊を受け」た人たちがこの権限が濫用することもないだろう。

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聖書の目的

 「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。
 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(ヨハネ20:30-31口語訳)

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 ヨハネ伝の結び。
 聖書というものが書かれ、編まれた目的について。

 それはもっぱら、「イエスは神の子キリストであると信じるため」である。
 それ以外の目的は、ないといっていい。
 イエスが救世主キリストである、ということは、聖書を通してのみ分かることだ。
 だが、ただ聖書を何回も繰り返して読めば、例えば百回読めば分かる、というものでは全くない。
 「百回読む」ではわざなのであり、それでは肉の努力によって肉を救うということになってしまう。
 暗唱聖句云々も同様で、救いのためには全く意味はない。
 肉で努力しても、ついに罪の肉から解放されなかったというのが、旧約の歴史だった。

 そこで神は、キリストという莫大な恵みを遣わした。
 イエスがキリストであると分かれば、「イエスの名によって命を得る」、すなわち「いのち」を得て救われる。
 そして、そのように救われるというのは、わざではなく恵みである。
 頭やからだによる理解ではなく、恵みによる出会いなのである。
 出会うためには、ギリシャ語もなにも、そういった知識や努力は全く不要だ。
 聖書は、あるときその人に語りかけてくるのである。
 み言葉によって語りかけてくる。
 これが恵みによるキリストとの出会いである。
 聖書は、そのようにしてキリストと出会っていのちを得るために、もっぱら書かれている。

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[付記]
 本日の記事は、2009年7月20日付記事に筆を加えたものです。

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『信じる』ということ

 「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:26-20:29)

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 懐疑主義的な弟子トマスと復活のイエスとの出会い。
 自分の不在時に復活のイエスが現れたと聞いたトマスは、自分はそんなことは信じないと言い張った(20:19-25)。
 そのような者にも、ただ恵みによってイエスは出会ってくださる。
 誰にでも機会はあるのだ。

 トマスが復活のイエスを信じたのは、イエスのからだのあちこちを点検できたからでも、また、イエスを間近に見たからでもない。
 復活のイエスと出会ったからである。
 今、わたしたちは復活のイエスを見るということはない。
 だが、イエスは来てくださって、イエスと出会うことができるのである。
 そのときに信じずにはいられないということは、トマス同様だ。

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[付記]
 本日の記事は、2009年7月19日付記事に筆を加えたものです。

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ラボニ

 「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」
 彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」
 彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。」(ヨハネ20:11-16)

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 マグダラのマリヤに復活のイエスが現れる箇所。

 マグダラのマリヤは、誰もいない墓で泣き続ける。
 これは、イエスに対する思慕の情であって、イエスを信じてのことではないだろう。
 そこに復活のイエスが現れるのだが、マリヤにはそのイエスが分からず、園の管理人だろうかと思っている。
 復活のイエスは人間の肉を既に十字架で脱ぎ捨てたので、マグダラのマリヤがイエスをイエスと分からなくとも、あるいは無理からぬ事なのだろう。
 繰り返すと、復活のイエスは今ここにいるのだが、マリヤにはちっとも分かっていない。
 だがイエスが「マリヤ」と声を掛けた途端、マリヤははっと分かってイエスを信じる。

 信じるということは、この過程をたどるようだ。
 復活のイエスはここにいるのに、私たちはあちらに向かって祈り、そちらで善行を行ってみる。
 そうしている間にイエスに出会うことはけっしてない。
 だが、ある時聖書のどれかの御言葉がその人にぱっと入る、ということがある。
 イエスが「マリヤ」と声を掛けたのと、全く同じだ。
 その時、その人は復活のイエスとはっきり出会うことになる。
 そしてマリヤと同様、その人はイエスに「ラボニ」と仰いで信じるのである。

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[付記]
 本日の記事は、2008年5月13日付記事に筆を加えたものです。

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渇き

 「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:28-30)

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 人間の肉は、いったいどれだけの渇きを覚えるのだろうか。
 喉の渇き、飢え、心の飢え乾き。
 金銭欲、名誉心、見栄。
 挙げていったらきりがない。

 罪のない肉を持つイエスは、極刑の十字架上で、この肉の処分を行っている。
 そのイエスが、「わたしは渇く」という。

 渇きを知ることなく、かえってサマリアの女を潤わせたイエスが、十字架上で人間と同じ渇きを体験する。
 そしてぶどう酒を受け取ると、おそらくその渇きは癒えたのだと思う。
 罪のない神の子が人間と同じ苦しみを実体験して、十字架のわざを完了する。

 今もキリストは、私たちのこの渇きをご存じだ。

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