わたしが与える水

 「あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
……
 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」
 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。」(ヨハネ4:12-14,18-19)

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 スカルの井戸端にて。

 「渇き」というとき、まず、喉の渇きを思いつく。
 このスカルの女も、またイエスも、その点では同様であった。
 その渇きは、水を飲めばいっときは収まる。

 イエスが言う「渇き」とは、それとは全く異なる。
 5人の男と結婚しては離婚し、今はまた同棲中、このような底なし沼の欲望の渇きを指している。
 「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」。
 イエスが与える水とは、すなわち「いのち」である。
 動力源のようなもの、とでも言えばいいのだろうか。いや、その動力源に投入するエネルギーが渇かないのだと思う。
 そしてそれは根源からの治療なので、いったん与えられたならば、もう渇くことはない。
 別の言い方をすると、罪の赦しは1度で完了する。
(2度も3度も罪赦されるというようなことは、こと救いについてはありえない。)

 イエスが来られたのは、この、一度飲むともう渇かない水を与えて私たちを救うためである。
 それゆえに、十字架に架かり、神によって復活する。
 肉の処罰が赦されてよみがえる、これが救いに他ならない。
 だからイエスの与える水とは、とどのつまり、この十字架と復活に帰するのである。

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[付記]
 本日の記事は、2008年12月30日付記事に筆を入れたものです。

[おわび]
 昨日の記事が一部抜けていたため、理解しにくいものとなってしまいました(修正しておきました)。おわびします。

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求めよ

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)

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 イエスの約束。

 私たちは一体、何を求めているのだろうか。
 かつて「ヤベツの祈り」というのが流行ったことがあるが、「地境」云々というような現世利益を求めているのではない。それでは単なる御利益宗教にすぎない。
 十字架に架かって肉を処分し三日目に復活したイエス、このイエスに求めるものは、その復活であり「いのち」である。
 宮清めを断行したイエスに御利益を求めても、相談窓口が違っている。

 イエスは恵みによって「いのち」を与えてくださる。
 そのとき私たちにお会い下さる。
 だからその救いが実現するように求め続け、捜し続け、たたき続ける。
 与えられ、開かれることを、私たちを恵んでくださることをイエスは約束している。

 カナン人の女は、しつこいまでにイエスに食い下がって、異邦人であるにもかかわらずイエスに娘を癒してもらう(マタイ15:22-28)。
 「娘の癒し」は型で、つまり救いの型である。
 それくらいまでしつこく求め続けた果てに、大いなるイエスの恵みに預かることができる。

 求め続けた私たちにヨブの苦しみ、アウグスティヌスの苦しみが襲ったとき、それでも求め続ければやがてアウグスティヌスの喜びが訪れるはずだ。
 そのとき私たちは、こう叫ぶだろう。

 「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)

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イエスのあかし

 「上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。
 この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。
 そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。」(ヨハネ3:31-33)

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 「あかし」とは、どのような内容だろう。
 「見たこと、また聞いたこと」というよりも、イエスが天から来られ十字架に架かって死に、三日目に復活したことだろう。

 私たちを救うこれらの事々を受け入れることのできる人は、確かに多くはないのかも知れない。
 受け入れる、というと少し違い、受け入れざるを得ない、というニュアンスかも知れない。
 恵みによってイエスに出会うことで、そのあかしを受け入れることとなる。
 罪とは。
 十字架とは。
 そして復活とは。
 これらがパッケージングされて渡され、それを受け取りあかしを了解する。

 そのとき人は罪赦されて神を知る。
 すなわちこれが、「見たこと、また聞いたこと」なのである。

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闇から光を待つ

 「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ3:18-21)

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 光が来ている。
 逆にいうと、今まで光はなく、闇の中にあった。

 闇の世界での「悪いこと」、「真理」。
 光の世界での「悪いこと」、「真理」。
 イエスは裁きの席で、「十字架につけろ」と世界中から罵られる。
 あの狂騒の集団心理が、闇の真理、肉の真理である。
 一方、その十字架を全うし三日目に復活して肉を救うこと、これが光の真理である。

 様々な立場があるのかもしれない。
 だが、さばくことができるのは神だけであり、つまり光の側には「さばく」という最も強い権限に裏打ちされている。
 ここでは、イエスを信じないことが悪いことであり、イエスの十字架と復活を信じることが真理である。
 たとえば隣人を愛せないことが悪いこと、光を憎むこと、なのではない。

 そうすると一体、信じるとはどういうことだろう。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)

 イエスだけが罪深い肉を持つ私たちを救うことを信じること、イエスによる救いを求め続けることに尽きるのではないか。
 悪くない行ないといったら、その光がどこかにあることを信じ続けることくらいではなかろうか。どこに光があるか、今は分からないのだ。

 イエスの約束通り、求める私たちは恵みによって光照らされるときがやがて来るのである。

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新生とやり直しの違いについて

 「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:1-8)

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 イエスと議員ニコデモとの問答。
 聖書に出てくる(イエス以外の)人物の中では、私はニコデモが一番好きだ。
 そのニコデモは、悩みのさなかにいる。ノイローゼなのかも知れない。
 人目に付かないように、夜にイエスを訪れる。

 ニコデモの話を遮るかのように、イエスは言い放つ。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
 対するニコデモは、「もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」などと抜かす。

 ニコデモの言っていることは人生をやり直すということ、その究極として、もう一度胎内から出てくることを言っている。
 だが、イエスが言っていることは、やり直しではない。全く異なる。
 新しく生まれることである。
 やり直しではなく、新しく生まれること、これが「いのち」である。

 やり直しはメッキであり、こすればはがれて、元と同じ「地」が顔をのぞかせる。
 肉がやり直しをしても、所詮は罪深い肉で変わるところがない。
 一方、産みの苦しみを経て新しく生まれるときには、表は全く変わらないのだが、礎石がしっかりと据え付けられる(参/マタイ21:42)。
 このとき肉は赦され、霊が生かすようになる。

 そして、そのようなことは「風」が起こす。
 「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない」。
 このようなつかみ所のない風、自分ではどうすることもできない風が、ただ神の御恵みによって自分に吹くときに「御霊によって生まれる者」とされるのである。

 やり直すことと新しく生まれることは全く違うし、自力でできるか風頼みかということも全く違う。

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神殿

 「そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。
 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。」(ヨハネ2:18-22)

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 ユダヤ人が言う「このようなこと」とは、イエスの宮清めのこと。

 神殿とは、そもそもどのようなものであろう。
 神を礼拝する場所だろう。
 単に礼拝する、というよりも、定められた各種捧げもの(罪のためのいけにえ等)を神にささげる場である。
 ヘロデ大王が四十六年掛けて建立した神殿は、しかし、神を礼拝する場所としてふさわしくなかった。
 捧げものを売る商人や両替商が、おそらくはサドカイ人のような宗教支配階層と癒着して、宮中で堂々とコンビニエントな商いを営んでいた。

 腐敗の象徴のようなこの神殿は、神の礼拝のためには壊してしまって一向に差し支えない。
 その代わりに、イエスは「自分のからだの神殿」というものを三日で築き上げた。
 この三日とは、十字架に死んでから復活するまでの三日のことである。
 イエスの十字架と復活を受け入れることのできる人にとって、このことは神からの罪の赦しによる解放である。
 解放されたので、もはや毎年ことある事に捧げる必要のある捧げものをコンビニエントに入手して捧げる必要はない。

 「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:33)

 このエレミヤ書の預言はイエスによって成就され、これからは内住なされる神を宿す人間がそのまま神殿なのである。
 そして、その人は「霊とまことによって」、その神殿で絶えず礼拝する(ヨハネ4:24)存在となる。
 神と人との間の垣根が、イエスによって取り外されたのだ。

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[付記]
 本日の記事は、2008年12月27日付の記事に筆を加えたものです。

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御利益宗教

 「それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2:1-4)

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 イエスの母は、言外に「どうにかしよろ」とイエスに催促している。
 それに応えて、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう」とイエスは言う。

 10年ほど前、あるキリスト教書を読んだことがある。
 牧師さんが車に乗っていて事故を起こしてしまった。
 そのときその牧師さんは、「出発時にきちんとお祈りしたのに…」と途方に暮れた、そんな内容だったと思う。

 どうか結婚式が無事に終わりますように、交通事故から護られますようにという願い(祈り)は、御利益宗教以外の何物でもない。
 「あなたは神です」と持ち上げておいて、その「神」の力をもっぱら利用しようというもので、これでは人が神を使役する形になってしまう。
 人の方が神よりも上にいるこの構造が、御利益宗教の特徴である。
 
 イエス・キリストは、御利益宗教ではない。
 罪にまみれて死んでいた私たちに、「いのち」を与えてくださるお方、それが、十字架の死から復活したイエス・キリストなのである。
 わたしたちのあるじ、主なるお方だ。
 わたしたちがこの主に求めるのは、「いのち」以外の何であろう。

 結婚式をどうにかしてくれという御利益の願いには、そういう願いだとあなたとは関係がない、とイエスは母に言う。
 言った先から水をぶどう酒に変える奇蹟を起こすことには、イエスのあわれみを感じる。「それはそれとして……」ということなのだろう。

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『メシヤに会った』

 「イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。
 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。」(ヨハネ1:38-41)

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 バステスマのヨハネのもとを離れイエスに弟子入りしたアンデレ。
 そして実兄弟のペテロに言う。
 「私たちはメシヤに会った。」

 アンデレは一体、何を根拠にそう言うのだろう。
 イエスの容姿だろうか。会話だろうか。魅力だろうか。
 アンデレは、どうしてイエスを救い主だと確信したのだろうか。
 この時代、おそらくメシヤ待望論がこの地に湧き上がっていたのではないかと思う。
 それにしても、さすがにこれは早合点だろう。
 このときのイエスは、まだ自身が誰であるかを誰にも知らせていないし、見せてもいない。
 いや、確かにアンデレはキリストに相対してはいるのだが、「会った」のではない。

 十字架と復活を経て、イエスは私たちに、恵みによってお会い下さる。
 こちらから行って会うことはできない。
 イエスと出会ったことはその人には明確に分かり、聖書の一節一句に目を開かれるようになる。
 イエス・キリストとはどのようなお方か、十字架とは、復活とは等。
 この救い主と人格を越えた出会いをして、私たちは罪を赦される体験をするのである。

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私たちはこの方の栄光を見た

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)

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 「ことばは人となって」は、「ことばは肉となって」とも訳せるとのこと(新改訳聖書の注釈欄より)。
 個人的には、後者の方が分かりがいい。

 イエスが肉をまとっておられた頃(いわゆる公生涯)、イエスに会った人、イエスにあわれんでもらった人、イエスに敵対した人、イエスの弟子になった人、ともかく、さまざまな立場の人たちがイエスを知っており、言葉を交わしていた。
 しかし、ヨハネ福音書の記者は「私たちはこの方の栄光を見た。」と書き記す。
 イエスの中に神を見いだいたのである。
 そのような人々は、当時でもごく一部であったろう。
 対照的に、イスカリオテ・ユダはどうであったか。

 十字架で肉を処分して復活したイエスは今も、「私たちの間に住まわれ」ている。
 そして、(わざによってではなく)恵みによってイエスが私たちにお会い下さり、イエスの栄光に圧倒される。
 そのとき突然、覆い被されていたものが顕わになって、聖書の一節一節を了解できるようになる。十字架の意味、復活とは、等。
 それは人知によるものではない。
 まことに「この方は恵みとまことに満ちておられた」のである。

 聖書は、この栄光に出会って救われるために、もっぱら存在する。

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