イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
羊飼い
「イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。
しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:25-28)
---
イエスの羊はイエスの声を聞き分ける。
ほかの羊たちは、ほかの人の声を聞き分けるだろう。
イエスの羊はイエスを知っているので、イエスの後を着いてあの狭い道に入ってゆく。
この狭い道は入り口が見あたらず、入ろうと思って入れるものではない。
ところが、イエスは羊たちを、いつの間にかにこの狭い道へと誘導している。
道のりは険しく苦しいが、イエスは自分の羊たちを先導し続ける。
一方、ほかの羊たちは広い道をにぎやかに歩いている。道の両脇には見せ物小屋や土産屋などが立ち並んでいる。
---
[一版]2019年 1月13日
[二版]2020年11月29日(本日)
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しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:25-28)
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イエスの羊はイエスの声を聞き分ける。
ほかの羊たちは、ほかの人の声を聞き分けるだろう。
イエスの羊はイエスを知っているので、イエスの後を着いてあの狭い道に入ってゆく。
この狭い道は入り口が見あたらず、入ろうと思って入れるものではない。
ところが、イエスは羊たちを、いつの間にかにこの狭い道へと誘導している。
道のりは険しく苦しいが、イエスは自分の羊たちを先導し続ける。
一方、ほかの羊たちは広い道をにぎやかに歩いている。道の両脇には見せ物小屋や土産屋などが立ち並んでいる。
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[一版]2019年 1月13日
[二版]2020年11月29日(本日)
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捨てる権威、それをもう一度得る権威
「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(ヨハネ10:17-18)
---
十字架と復活、その予告。
ただ、イエスの話しているこのことを理解できる人はいなかった。
イエスは十字架を、御父の命令であると説明する。
具体的には、罪人の救いという命令である。
罪人を救うために、律法に照らして何の罪もないイエスが極刑を受ける。
そして、それにもかかわらず「自分のいのちを再び得」ることで、身代わりに背負った罪を処分する。
これは救いの型であり、イエスがはじめて切り開いた狭き道である。
恵みによってこのイエスの道に入り込んだ罪人は、苦しみの果てに死んだのちに、イエスと同じくいのちを再び得る。
このときにはじめて上のイエスの言葉を了解できる。
自分の経験してきたものだからである。
---
[一版]2011年 2月12日
[二版]2019年 1月 6日
[三版]2020年11月23日(本日)
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だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(ヨハネ10:17-18)
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十字架と復活、その予告。
ただ、イエスの話しているこのことを理解できる人はいなかった。
イエスは十字架を、御父の命令であると説明する。
具体的には、罪人の救いという命令である。
罪人を救うために、律法に照らして何の罪もないイエスが極刑を受ける。
そして、それにもかかわらず「自分のいのちを再び得」ることで、身代わりに背負った罪を処分する。
これは救いの型であり、イエスがはじめて切り開いた狭き道である。
恵みによってこのイエスの道に入り込んだ罪人は、苦しみの果てに死んだのちに、イエスと同じくいのちを再び得る。
このときにはじめて上のイエスの言葉を了解できる。
自分の経験してきたものだからである。
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[一版]2011年 2月12日
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間違いのある神
「イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。」(ヨハネ10:6)
---
イエスのしたたとえ話は、どうも理解されなかった。そこでイエスは話を仕切り直す。
受肉した神イエスは、間違うこともあるのである。
間違うこともある神、というよりもそれは肉を持つ者の不完全さの顕れなのだろう。
まして、アダムの肉の子孫である私たちが間違いひとつないなど、あるはずがない。
いったい今まで私は、どれだけの間違いをし続けてきたことだろう。どれだけ多くの人を傷つけ、悲しませたことだろう。
それにもかかわらず、周りからどれだけ許され続けてきたことだろう。
だが私には、どうしても許すことのできない人が1人いる。
こんな私の大きな間違い、どうにもならなさをも、イエスは理解してくださる。ご自身にも間違いのあった神なのだ。
そして完全な存在である復活のイエスは、ただ恵みによって私を救ってくださった。
上に書いてきたことからして、私が救いに預かるような者とは到底言えないにもかかわらずである。
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[一版]2017年 5月 7日
[二版]2019年 1月 5日
[三版]2020年11月22日(本日)
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イエスのしたたとえ話は、どうも理解されなかった。そこでイエスは話を仕切り直す。
受肉した神イエスは、間違うこともあるのである。
間違うこともある神、というよりもそれは肉を持つ者の不完全さの顕れなのだろう。
まして、アダムの肉の子孫である私たちが間違いひとつないなど、あるはずがない。
いったい今まで私は、どれだけの間違いをし続けてきたことだろう。どれだけ多くの人を傷つけ、悲しませたことだろう。
それにもかかわらず、周りからどれだけ許され続けてきたことだろう。
だが私には、どうしても許すことのできない人が1人いる。
こんな私の大きな間違い、どうにもならなさをも、イエスは理解してくださる。ご自身にも間違いのあった神なのだ。
そして完全な存在である復活のイエスは、ただ恵みによって私を救ってくださった。
上に書いてきたことからして、私が救いに預かるような者とは到底言えないにもかかわらずである。
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見えるようになったことについて
「盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。
イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(ヨハネ9:32-39)
---
イエスによって目が見えるようになった人を、パリサイ人たちは尋問した挙げ句に追い出してしまった。追い出された彼を、イエスは探し出す。
そしてイエスは彼に言う。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです」。 イエスを見て拝した彼は、こうして信仰者となった。
このように、信仰とはイエスが会いに来てくれて、それで信じさせられるものであり、自分で選ぶようなものではないのである。
そのことは、「目の見えない者が見えるようにな」るのが専ら他者によることからも想像することができる。
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もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。
イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(ヨハネ9:32-39)
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イエスによって目が見えるようになった人を、パリサイ人たちは尋問した挙げ句に追い出してしまった。追い出された彼を、イエスは探し出す。
そしてイエスは彼に言う。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです」。 イエスを見て拝した彼は、こうして信仰者となった。
このように、信仰とはイエスが会いに来てくれて、それで信じさせられるものであり、自分で選ぶようなものではないのである。
そのことは、「目の見えない者が見えるようにな」るのが専ら他者によることからも想像することができる。
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気まぐれ
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:1-3)
---
生まれつきの盲人を見かけた一行。
「神のわざがこの人に現われるためです。」とイエスは宣言して、この人の盲目を癒すのであるが、ほかにも病気を抱えた人は周囲に大勢いただろう。
なぜ、イエスは特にこの人を癒したのであろうか。
それは、イエスが彼をいやそうと思ったから、これが理由のすべてである。
この盲目の人が誰より気の毒そうだったとか、そういうことではなく、たまたま、この人をいやしてあげようとイエスが感じたのである。
そして、この人、であることに、理由はない。
この人の病状の重さも、生まれつきであったことも、理由ではない。
言ってしまえば、気まぐれであり風が吹いたようなものである。
だから、神の救いは因果関係ではない。
善行をどれだけ積んだかとか、断食祈祷をしただとか、施しをしただとか、そういうことが直ちに恵みにつながるわけではない。
また、本人に罪があるとしても、両親に罪があるとしても、それらが恵まれないことにつながるわけでもない。
そのような因果関係とは関係がないがゆえに、逆に、誰もが救いに預かる可能性を秘めている。それだから恵みなのである。
---
[一版]2014年 8月 5日
[二版]2017年 5月 4日
[三版]2020年11月 8日(本日)
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弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:1-3)
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生まれつきの盲人を見かけた一行。
「神のわざがこの人に現われるためです。」とイエスは宣言して、この人の盲目を癒すのであるが、ほかにも病気を抱えた人は周囲に大勢いただろう。
なぜ、イエスは特にこの人を癒したのであろうか。
それは、イエスが彼をいやそうと思ったから、これが理由のすべてである。
この盲目の人が誰より気の毒そうだったとか、そういうことではなく、たまたま、この人をいやしてあげようとイエスが感じたのである。
そして、この人、であることに、理由はない。
この人の病状の重さも、生まれつきであったことも、理由ではない。
言ってしまえば、気まぐれであり風が吹いたようなものである。
だから、神の救いは因果関係ではない。
善行をどれだけ積んだかとか、断食祈祷をしただとか、施しをしただとか、そういうことが直ちに恵みにつながるわけではない。
また、本人に罪があるとしても、両親に罪があるとしても、それらが恵まれないことにつながるわけでもない。
そのような因果関係とは関係がないがゆえに、逆に、誰もが救いに預かる可能性を秘めている。それだから恵みなのである。
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偽り者
「けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。」(ヨハネ8:55)
---
「この方」とは御父のこと。
イエスは御父を知っているので、もしも御父を知らないというならば、あなた方同様に自分は「偽り者」となる、そう言っている。
自分が偽り者だという気付き。
自分が殺す者だという気付き。
律法という囲い込みによってそれらの気付きに至るとき(それは経験したことのない程の苦しみであるはずだ)、私たちは復活のイエスを介して御父を知ることとなる。
それはただ恵みにより、断食とか滝に打たれるとか、そのような自発的な行ないではどうにもならない。
偽り者が、恵みによって偽らない者となるのではない。
殺す者が、恵みによって全く殺さない者に変えられるのではない。
偽り者が偽り者として赦され、殺す者が殺す者としてありのまま赦されるのである。
そのためのスタートラインとして、まず、自分は実は偽り者なのだと気付くことが必要となる。
---
[一版]2011年 1月23日
[二版]2014年 8月 4日
[三版]2017年 5月 3日
[四版]2018年 1月 2日
[五版]2020年11月 1日(本日)
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「この方」とは御父のこと。
イエスは御父を知っているので、もしも御父を知らないというならば、あなた方同様に自分は「偽り者」となる、そう言っている。
自分が偽り者だという気付き。
自分が殺す者だという気付き。
律法という囲い込みによってそれらの気付きに至るとき(それは経験したことのない程の苦しみであるはずだ)、私たちは復活のイエスを介して御父を知ることとなる。
それはただ恵みにより、断食とか滝に打たれるとか、そのような自発的な行ないではどうにもならない。
偽り者が、恵みによって偽らない者となるのではない。
殺す者が、恵みによって全く殺さない者に変えられるのではない。
偽り者が偽り者として赦され、殺す者が殺す者としてありのまま赦されるのである。
そのためのスタートラインとして、まず、自分は実は偽り者なのだと気付くことが必要となる。
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[一版]2011年 1月23日
[二版]2014年 8月 4日
[三版]2017年 5月 3日
[四版]2018年 1月 2日
[五版]2020年11月 1日(本日)
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