和解

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」(2コリント5:17-19)

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 神の和解の手、それが十字架のキリストだ。
 「和解」?
 そう、今までは神とは常に対立関係にあり、神は怒りの内にあられた。
 それは何より、私たちの「違反行為」のためだ。
 「違反行為」そのものが、私たちを責め立て続ける。

 神の愛とは、それにもかからわず私たちと和解しようと試み、その和解をするために、十字架のイエスを送って下さったことだ。
 しかも、「違反行為」の処罰を、このイエスは身代わりに一身に受けられたので、私たちはその処罰を受けなくて済む。

 だから、このキリストのうちに入ったその瞬間、「和解」の世界へと突き進み全てが新しくなる。
 だんだんに、というのではない。これは瞬時に、しかも、全てが新しくなる。
 和解したので、「違反行為」からの責めは、もうない。
 ただ、このことはこの世の中でやりやすくなるとか、そういうことを意味するわけではない。
(むしろ逆だ。)

 この和解は、例えばパウロが受け入れろと迫って「はい」と応えれば成立する、そんな類のものでは、全くない。
 そんな人間の意志の働きなどは、全く関係がない。
 ではパウロの働きが全く無意味だったかというと、そのようなことは全くない。

 「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(1コリント1:23-24)

 「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」ことを特にパウロがしてくれたから、2000年後の今もなお、和解のための十字架のキリストを受け取ることが可能なのである。
 今ももちろん、神からの和解の手は差し伸べられ続けている。

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[付記]
 本日の記事は、2007年12月17日の記事に小変更を施したものです。
 もうしばらく、デフラグ作業をさせてください。

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