救いの型

 「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ7:23-8:1)

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 ロマ書7章には、「キリスト」という言葉は、たった一箇所、上の「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」の箇所しかない。
 「ほんとうにみじめな人間」が律法の下、みじめさのどん底でのたうっていたのが、全く唐突に、キリストの故に神に感謝する。

 ここに救いの型がある。
 救い、という言葉は、回心でも新生でも聖霊でも、何でもよい。
 つまり、キリストに出会って赦され、「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている」ことがのみこめて、「罪に定められることは決して」ないと安んじることができるのである。
 これは一瞬の出来事である。

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[一版]2008年10月 6日
[二版]2015年 5月31日(本日)

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罪をあぶり出す律法

 「では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」(ローマ7:13-17)

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 山上の説教でのような厳格な解釈をほどこした律法、そのどれ一つでも、人間は守ろうと思っても守ることができない。そもそもその山上の説教は、その守れないということを言っている。
 この律法とは、もっぱら肉の罪をその人に指弾するために存在する。
 では、律法などそもそも守ろうと努力する必要はないではないか、というと、そうではない。
 むしろ、罪を自覚するためにこそ、律法をどこまでも追い求める必要がある。そうしてこそ、アダムの中で「罪として明らかにされ」るのである。
 そのときに私たちは、「私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっている」との思いに駆られ、それが救われたいという切実な思いにつながってゆく。
 律法は罪を浮かび上がらせ、イエスによる救いを求めさせるための「養育係」(ガラテヤ3:24)なのである。

 だから、自分は律法を遵守できていると思っているとしたら、その人は自分に罪を認めないのであるから、救われるためのとっかかりがない。
 律法を遵守していると言い張るパリサイ人、律法学者とイエスとが対立するのは、当然のなりゆきであった(マタイ23章参照)。
 逆に、よく「私は罪人です」とこぼす人は、なにゆえに自身を罪人だと思うのだろうか。

 「もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです」。
 律法が罪をえぐりだすのであるから、「律法は良いもの」なのであり、そしてアダムは、律法があぶり出したその罪に死ぬ。
 罪なきイエスは、身代わりに極刑の十字架に掛かって下さっている。
 そのイエスが復活したように、罪に死んだ人もまた、イエスと同じ道を通って、赦されて復活するのである。

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[一版]2009年10月25日
[二版]2015年 5月24日

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律法は罪なのでしょうか

 「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
 それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ローマ7:7-12)

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 「律法は罪なのでしょうか。」というのは、律法によって自罰の念にかられるのだから律法こそが悪いのではないか、くらいの意。
 しかし律法に非があるのではなく、私たちの肉に非があることを律法は指摘してくれているのである。
 律法を知らなかった頃、私たちは好き勝手に暮らしていて、そのことを何とも思わなかった。「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう」とあるとおりである。
 そして、その好き勝手ぶりが神の秩序に反し神の怒りを買い続けていること自体、知りもしなかった。
 この神の怒りに気付かせてくれるのが、神の完璧な秩序たる律法である。
 律法という神の基準が、私たちの内に潜む肉の罪をあぶりだす。
 私たちの肉に内在するあらゆる罪が、律法によって容赦なく指弾されるのである。
 この罪深さの自覚が苦しいので、「律法は罪なのでしょうか。」とも口から漏れる。
 まさに「戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺した」のだ。

 神との良好な関係を志そうとする私たち、それによって、神との平和を得て救われたいと願う私たちは、どうしてもこの罪深い肉が処理される必要がある。
 肉の処理、その初穂が、罪なき人であるイエスの十字架であり、私たちはそのあとを恵みによってついてゆけばよい。復活もまた、イエスに続くことになる。
 律法が私たちに肉の罪深さを自覚させ、そのあまりの罪の重さにイエスの死と復活に預かるのであるから、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いもの」というのは、まさにその通りなのである。

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[一版]2011年 9月25日
[二版]2015年 5月17日(本日)

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アダムを追い込む律法

 「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。
 しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(ローマ7:5-6)

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 私が聖書を手にしてまもなく、山上の説教での次の聖句を知った。

 「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)

 そのころ、たまたま入ったコンビニのレジにいた若い女性が非常に可愛らしく思え、と同時に、上の「すでに心の中で姦淫を犯した」が思い出された。
 そのとき私の心の中には、レジの女性を可愛いと思ってしまうということ自体がいけないことなのかという不安がふつふつと湧き上がっていった。対人恐怖症の始まりである。
 もし私が聖書を、律法を知らなかったならば、そのように不安に陥ること自体、なかったはずだ。可愛い女の子ラッキー、くらいで済んだと思う。
 このことは、知って間もない律法が私の肉の罪を容赦なく指弾したということにほかならない。

 律法はこのように、アダムの肉の罪をその人自身に気付かせる役割がある。
 イエスの山上の説教に至っては、律法は突き詰められ、律法を遵守することなど誰一人できない、ということが説いている。上の「姦淫」の箇所もそうだ。
 そうして律法群は、アダムの肉を死へと追いやってゆく。

 ではなぜ、律法群はアダムを死へと追いやるのだろうか。
 それは正に、死に至らしめるが為である。
 イエスという初穂は、自らの肉を十字架に架けて処分し、三日目に御父によってよみがえられた。
 そのイエスの歩みと同様に、律法が私たちの肉を殺し、キリストが私たちをよみがえさせる。
 よみがえらせるためには、まず死ぬ必要があり、よみがえったときに「私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだ」、「新しい御霊によって仕えている」こととなる。
 いいかえると、「いのち」に生きるためには、その前に律法という神の掟によって死ななくてはならないのであり、その道を最初に切り開いたのがキリストである。

 今も律法は厳然と存在するが、私たちは既に律法から解放された。
 というのは、もう既に、律法に死んだからだ。
 今はキリストが下さった「いのち」に生きている。
 ちなみに私は今も対人恐怖症がきれいに治癒したわけではないが、これは言ってみれば「とげ」(2コリント12:7)のようなものであり、そんなものとは比べものにならないものをいただいたと思っている。

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[一版]2009年10月18日
[二版]2011年 9月24日
[三版]2015年 5月10日(本日)

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恵みと律法

 「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
……
 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:15,23)

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 律法とか恵みとかとは、そもそもなんであろうか。
 それらは共に、神が差し伸べた救いの手だてに他ならない。
 アダムの肉を持つ罪深い人間を、その肉から救うためのものである。

 律法は、罪の基準であり、神の完全な秩序の体現である。
 キリストが十字架に架かった後であっても、人に罪を自覚させるのは、この律法だけなのである。
 罪の自覚をもたらすのが律法であれば、救いをもたらしたのが、イエスの十字架そして復活である。
 言い方を変えると、律法という「てこ」なしには、アダムの肉から救われようとする動機そのものが生じないのだから十字架にすがろうともしないだろう。

 この十字架そして復活は、ロマ書6章で、死んで生きる、という言葉で繰り返され(例えば7節)、この、死んで生きるということが、恵みによる救いの手段である。
 ここにいう恵みとは、上の聖句に言う「神の下さる賜物」に相当するので、恵みの主権は神にあり、人間の好き勝手とは全く関係がない。
 だから、「恵みの下にあるのだから罪を犯そう」というのは、恵み、という言葉を完全にはき違えている。
 そもそも律法と恵みとは、対立する概念ではないのである。

 この恵みによって救われてもなお、私たちはアダムの肉のままであり、律法を守り行えないことにはかわりはない。
 ただ、恵みによって死とよみがえりを通り義とみなされたということが全く異なり、そのことが救いであり、よみがえりであり、永遠のいのちなのである。
 好き勝手とは全く違う真の自由が、神との和解の中で実現するのである。

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[一版]2009年10月12日
[二版]2015年 5月 5日

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キリストの死と復活に預かる信仰

 「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:8-11)

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 罪そのものが悪い、というと少し違う。
 律法に照らして罪と判断されざるを得ないアダムの肉、これが糾弾され続けているのである。
 キリストが、人々の罪を一身に受けて、極刑の十字架に死んで、そしてよみがえった。
 罪は処理され、私たちは「キリストとともに生きることにもなる」という信仰に至った。
 それはまさに「私たちがキリストとともに死んだ」からである。

 信仰以前、私たちは、罪の肉を宿し神に対して死んだ者であって、自分を創造したお方から断絶していた。自然界との整合がまるで取れていなかった。
 だが、キリストの死と復活に預かる信仰に至った私たちは、「罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者」となった。
 神が和解してくださり、その神がお造りになった自然界との整合性がとれるようになったのだ。

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罪からの解放

 「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ6:5-7)

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 罪とは神の律法に対する違反であり、それはアダムの違反以来人間を拘束し続けてきた。
 私たちは、神のよかれというものを何一つできず、かえって神の意志に反するアダムの肉に不自由にされている。

 「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
 これがたいせつな第一の戒めです。
 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37-40)

 神を愛し人を愛せよ。
 アダムの肉を持つ人間にとって、これが一体どれほど難しいことか。
 その、あまりに難しいことが、律法の要諦なのである。
 この律法が人間の肉を罪に定めるのであるから、私たちは罪の奴隷となってがんじがらめにならざるを得ない。

 人間のこの状態を救ってくださったのが、イエス・キリストである。
 恵みによって、キリストの十字架の死と同様私たちは罪に死に、キリストの復活と同様私たちは新たにされる。
 聖書は徹頭徹尾、この救いについて記されている。
 新たにされた私たちにとっても律法は存在し続けるので、私たちは罪を相変わらず犯し続けるが、今や罪赦されて罪から解放されているのである。

 キリストが与えてくださる自由の本質は、神との和解とそれに由来する罪からの解放にある。

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[一版]2011年 9月17日
[二版]2015年 5月 3日(本日)

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死にあずかるバステスマ

 「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:1-4)

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 上の聖書箇所で書かれている「罪」 ( sin ) は、日本語でいう「罪悪感」とは全く関係がない。
 だからクリスチャン、イコール、品行方正というような偽善者的図式など、ぶっ壊してしまって良い。
 「罪悪感」、「悪いこと」には、 guilty が当てはまる。
 今ここで扱っているのは、どこまでも sin としての罪だ。
 つまり、アダムの肉が内在する罪、人が人である以上持っている罪、つまり神が人間を指弾する罪のことであって、人様から指さされたり手錠を掛けられたりということとは関係がない。
 「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」。
 これは、悪いことをしてはいけないという意味とは全く異なる。

 神の怒りであるところのsin に気付くや、七転八倒のたうち回る。
 のたうち回った挙げ句、恵みによって「キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです」とあるところの、その死にあずかるバステスマによって、私たちはイエスと共に死ぬ。
 これが「罪に対して死んだ」ということである。
 「悪いことをしなくなりました」ということでは、まったくない。
 「どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」、その通りに、 sin は処理された肉と共に埋葬されてしまった。
 そして、「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをする」のである。

 共に死んでくださったイエスによって悔い改めたので、復活のイエスと共によみがえって新しい歩みが始まる。
 外見上、何一つ変わっていない。
 欠点のひとつでも直ったわけでもない。一見全く変わっていない。
 しかし、真のバステスマを受けて、見えなかった重しが取れて新しく歩むことができるようになるのである。

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[一版]2007年 6月 3日
[二版]2007年 7月 3日
[三版]2011年 9月10日
[四版]2015年 5月 2日(本日)

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