聖書の目的

 「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。
 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(ヨハネ20:30-31口語訳)

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 ヨハネ伝の結び。
 聖書というものが書かれ、編まれた目的について。

 それはもっぱら、「イエスは神の子キリストであると信じるため」である。
 それ以外の目的は、ない。
 イエスが救世主キリストである、ということは、聖書を通してのみ分かることだ。
 だが、ただ聖書を何回も繰り返して読めば、例えば百回読めば分かる、というものでは全くない。
 「百回読む」ではわざなのであり、それでは肉の努力によって肉を救うということになってしまう。
 暗唱聖句云々も同様で、救いのためには全く意味はない。
 肉で努力しても、ついに罪の肉から解放されなかったというのが、旧約の歴史だった。

 そこで神は、キリストという莫大な恵みを遣わした。
 イエスがキリストであると分かったならば、「イエスの名によって命を得る」、すなわち「いのち」を得て救われる。
 そして、そのように救われるというのは、わざではなく恵みである。
 頭やからだによる理解や努力ではなく、恵みによる出会いなのである。
 出会うためには、ギリシャ語もなにも、そういった知識や努力は全く不要だ。
 なぜなら、聖書は、あるときその人に突然語りかけてくるからである。
 字義通りの意味をはるかに超えて、み言葉によって語りかけてくる。
 これが恵みによるキリストとの出会いである。
 聖書は、そのようにしてキリストと出会っていのちを得るために、もっぱら書かれている。

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[一版]2009年 7月20日
[二版]2011年 6月 9日
[三版]2014年12月30日(本日)

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赦す権限

 「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(ヨハネ20:22-23)

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 復活のイエスからのメッセージ。

 罪の甚だ多く神の怒りの下にあった私たちは、この復活のイエスを通して神の赦しをいただき、その神との和平状態に置かせていただいている。
 ここで罪とは、神の律法に違反することである。
 この律法にトライしようとしても、肉ある身としてどうしても違反を犯してしまう。
 何度やってもだめなのだ。
 私たちは、神の律法を守り得ないゆえに、神は私たちを受け入れず、神の怒りの下にいた。

 それでも神は御子を受肉させて世に送り、律法を守ることのできないこの肉そのものに処罰を与える。そのことを成し遂げた御子は、三日目に復活する。
 この十字架と復活のイエスへの信仰が恵みによって与えられ、御父の赦しを知り、そして赦されたことを実感する。
 御父には、罪を罪のままとする権限もあれば、罪を赦す権限もあるのである。

 大切なことは、この全能の御父に、恵みによって罪赦していただいたことだ。
 アダム以来断絶していた創造主と、和解できたのである。
 私たちがアダムの肉を未だ持っているにも拘わらず、だ。
 そのアダムの肉を持つ私たちは、誰かを赦すとすれば、赦すだけの根拠がなくてはなかなか腹の底からは赦せないものだ。
 御父が私たちを赦す根拠は、十字架と復活のイエスを遂に受け入れたかどうかということだ。

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わたしは渇く

 「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:28-30)

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 十字架のイエスを描写する箇所。

 イエスは常々、人々にこう呼びかけてきた。
 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)
 渇ききっている人々に呼びかけ続け、枯れない水が内から流れ出ることを保証した。

 その、満ち満ちていてそれを分け与えることのできるイエスが、十字架の上でこう言った。
 「わたしは渇く」。
 十字架の上で、イエスはこころの飢え乾きを覚えた。
 それは、人々が抱えているこころの飢え乾きと全く同じものだ。

 今、神が死のうとしている。
 あくまでアダムの肉をまとった人間として、死に往こうとしている。
 このアダムの肉自体を処罰するためだ(ローマ8:3)。
 そのことが、人を救い渇きを癒す。
 その処罰が「完了」して、肉としてのイエスは死ぬ。
 そしてイエスの復活は、そのアダムの肉を処罰してなお生きるということの初穂、また、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)とイエス御自身が言ったことの成就である。

 神の子イエスは、人として死ぬ間際に、人間の味わう様々な辛さを実体験している。
 「私は渇く」は、その最たるものだろう。
 だからこそ、復活のイエスは、人間の弱さと苦しみを、我が身を持ってご存じなのである。
(「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」ヘブル2:18)

 復活のイエスは、人間の渇きを実体験した上で、今も「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と呼びかけている。
 渇きを癒す道は、イエスによって既に切り開かれている。

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[1版]2007年12月 6日
[2版]2008年 2月28日
[3版]2009年 7月 5日
[4版]2014年12月28日(本日)

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ゴルゴダへの道

 「彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。」(ヨハネ19:17)

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 ここでいう「十字架」というのは、極刑に処するための道具。
 その道具を、極刑になる当のイエスが担がされて、死刑場へと歩いている。

 神の子イエスが受肉して世に来られたのは、人を救い世を救うためである。
 そのために、自身が極刑に処され、そして復活する。
 この道が唯一、極刑に処されるべき肉を持つ人を救う道だからであり、言い換えると、人が救われるためには、その人は死んで復活する必要がある。
 イエス・キリストは、その道を切り開いたのであり、また、救いの型を示したのであった。

 私たちは、その型のとおりに、かつてあの苦しい道を歩いた。
 とにかく、経験したこともない苦しみが、長く続くのである。
 そして、その苦しみに死に、復活して、私たちは救われた。
 ゴルゴダへの道というのは、知識ではなく体験であり通過点なのである。
 「あの慈しみ深いイエス様がおいたわしい」と、他人事のように受け取るのならば、一体十字架とは何なのだろう、ということになってしまう。

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非理性的で不合理

 「そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語でガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
 その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」
 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。」(ヨハネ19:13-16)

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 ここはイエスの反逆罪について裁く法廷である。
 「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」は、狂騒状態の中で飛び出た出まかせ。
 この、あまりの狂騒状態にピラトは審理を放棄してしまい、反逆罪かどうかを問うことなくイエスを極刑にしてしまう。
 イエスはローマ法によってではなく、律法によってでもなく、人間達のその場の感情だけで極刑となってしまった。

 今の私たちは、イエスが十字架につけられたというので、ピラトを責め、狂騒した人々を責める。なぜ理性的なきちんとした裁判が行われなかったのかと。
 もし、人間の理性が肉に引きずられない完全なものだったら、確かにそう責められるべきだろう。
 だが、実際に人間はそんなにきちんとした生き物などではなく、しばしば感情に、肉に引きづられる。

 ところで個人的な話になるが、仕事でかなり大きな失敗をしてしまった。
 それは初歩的なもので、しかも取り返しが付かなかった。
 別件の仕事での電話対応で相手がいきなり怒鳴りだし動揺してしまい、その日の仕事全体がどうしようもなく投げやりで非理性的だったために発生したミスだった。
 私は肉に引きずられてしまって、それで大きなミスを犯してしまったのである。
 「十字架につけろ」とあまりにも騒々しいと、合理的に事を進めることが困難になり(というより投げ出してしまい)、ピラトはあっさりとイエスを十字架につけてしまう。
 これも人間の肉の性質なのだろう。
 イエスを取り除こうとする勢力の狂騒もまた、肉の性質そのものだ。
 ところが当のイエスは、そのような人間の肉に赦しを与えるために(罰ではない)、自ら十字架に架かりに行っている。

 理性的、合理的なところとは掛け離れた行動を、人間はしばしば行う。
 私は仕事上の失敗について(それはおととい発覚した)、その不合理さに自分を責めるしかなかったが、そのような非理性的な仕事を行ってしまう私の肉を、十字架のイエスは赦して下さっている、と、この聖書箇所を読むとそう思える。
 イエスを信じるとは、神の御目に見た肉のだめさという罪が十字架と復活ゆえに解放されたということの確信であり、私たちの、このどうしようもない肉は、信仰ゆえに赦されているのである。

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[一版]2011年 6月 5日
[二版]2014年12月14日(本日)

 多忙のために更新が滞ってしまっています。
 ちなみに、3年前の大失敗というのがなんだったのかを、今はまるで覚えていません。

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