信ずるに足る根拠

 「またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。
 私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』
 私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ1:32-34)

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 バステスマのヨハネは上の聖書箇所で、イエスがキリストであることを確信し、またそのことを言い表している。

 イエスをキリストだと表明する人は、数多い。しかし、彼らがそのように言う根拠はなんであろう。
 彼らを責めているのではない。もし根拠がないのならば、分からない何者かをやみくもに信じているわけであるから、何も信じないよりも更に虚しいことだと思うのである。
 旧約聖書の伝道者の書(コヘレトの言葉)でも、神を見いだすことのついになかった老ソロモンの虚無感が、あからさまに記されている。
 信仰は、この虚しさ、虚無感から、解放してくれる。
 そのためには、信ずるに足る根拠が必要になってくる。

 宗教学者の岸本英夫は、体験について、次のような共通の特徴があると書いている。
1.特異な直感性
2.実体感、すなわち無限の大きさと力を持った何者かと直接に触れたとでも形容すべき意識
3.歓喜高揚感
4.表現の困難
(神谷美恵子「生きがいについて」からの孫引き)

 これはものすごく大きな体験で、錯覚のようなものとは全く違い、ごまかしようがない。
 サウロに起こったことと同種の体験なのである。

 だから、自分で自分をごまかすことはやめよう。地球の裏側の人の心配よりも、まず自分自身の心配をする方が先のはずだ。
 イエスも言うように、求めればかならずその人の根拠は与えられる(マタイ7:7)。

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神を知らしめるイエス

 「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)

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 信仰とは、見たことはないがよく知っているところの神と共にあるということだ。
 御子イエスが、私たちに直接、神を知らしめたのである。
 それ以前、神と私たちとは、私たちの肉の罪のために関係が断絶していた。
 しかし、十字架と復活の主イエスを介して、私たちは義と認められた。
 そうして今は、以前とは違って、御父と共にいるという大きな安らぎの中にいる。
 私たちは、もともとの在り方に戻ることができたのである。

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恵みに代えて恵みを

 「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネ1:16-17)

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 「恵みの上にさらに恵み」という箇所は、「恵みに代えて恵みを」とも訳せるとのこと(新改訳聖書2版の注釈欄より)。文脈のつながりを考えると、個人的には後者の方が分かりがいい。

 私たちの肉は、御父のいいつけにも拘わらず善悪と知識の実を食してしまう。
 このことが、というよりこのようなことをする肉そのものが人間の原罪であり、私たちはこの肉ゆえに神の怒りを買っている。
 しかし、私たちをお造りになった御父は、私たちに救いの手、和解の手を何度も差し伸べて下さった。
 とりわけて大きなものが、モーセを介して与えられた律法、それから御子イエス・キリストを世に送って下さったこと、この2つだ。

 律法とは神のルールで、それ自体を私たちに教えて下さった。これは恵みであり恩寵である。
 仮に肉が律法を全うすることができれば、その肉は神と同じようになるので確かに救われる。だが、不完全きわまりない人間は神とはまるで違う。
 では完全には守れもしない律法など遵守しなくともいいのかというと、それは全く違う。
 どこまでも律法を突き詰めていって、それでも神の要求水準からはほど遠いということを身をもって悟るのでなければ、一体誰が本当の救いを求めるのだろうか。
 だから律法が養育係というのは、確かなことなのである。

 そして御子イエス・キリストが、養育係からその肉を引き継ぐ。
 十字架と復活という「まこと」が肉を処罰し、恵みによって人に赦しを与える。
 私たちの肉が処罰されるのではない。御子のかりそめの肉が、十字架という極刑に身代わりに架かるのである。
 律法を遵守できない私たちの肉が極刑に値するのに、神は御子を通して私たちを逆に赦し、和解へと導いて下さった。

 律法を授けて下さったこと、それから御子を世に遣わしてくださったこと、この2つは神の私たちへの大きな愛、差し伸べた握手の手なのであり、特に御子については「恵みに代えて恵みを」与えて下さったのである。

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[一版]2014年 5月 5日
[二版]2016年12月24日(本日)

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キリストの栄光

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)

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 「ことばは人となって」は、「ことばは肉となって」とも訳せるとのこと(新改訳聖書の注釈欄より)。個人的には、後者の方がずっと分かりがいい。

 イエスが肉をまとっておられた頃(いわゆる公生涯)、イエスと会った人、イエスにあわれんでもらった人、イエスに敵対した人、イエスの弟子になった人、ともかく、さまざまな立場の人たちがイエスを知っており、言葉を交わしていた。
 しかし、ヨハネ福音書の記者は「私たちはこの方の栄光を見た。」と書き記す。
 このことを言い換えると、イエスの中に神を見いだすのである。
 そのような人は、当時でもどの程度いただろう。

 十字架で肉を処分して復活したイエス・キリストは、今に至るまでずっと「私たちの間に住まわれ」ている。
 そして、わざによってではなく恵みによってイエスが私たちにお会い下さり、そのとき私たちはイエスの栄光に圧倒される。
 今まで被さっていた覆いが一気に取り除かれ、聖書の一節一節を了解できるようになる。
 そして十字架の意味や復活などの「まこと」を了解する。それは人知によるものではない。
 そのまことによって、私たちは「いのち」を得ることができた。
 まさに「この方は恵みとまことに満ちておられ」るのである。

 聖書は、この栄光に出会って救われるために、もっぱら存在する。

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[一版]2010年11月 6日
[二版]2014年 5月 4日
[三版]2016年12月23日(本日)

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神によって生まれるとは

 「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:11-13新共同訳)

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 私たちはどうしてイエスを信じイエスを受け入れているのだろう。
 それは、神が私たちをそうしてくださったからだ。
 血筋によってそうなったのではない。
 ましてや、自分の意志や努力の類によってそうなったわけではない。
 私がなりたいというのでそうなるわけではないのである。
 私がイエスを受け入れるのではなく、むしろ、私はイエスに受け入れさせられる。
 その過程で、私はイエスによって死に、そしてイエスによって復活する。
 そのことが、「神によって生まれた」ということなのである。

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[一版]2014年 4月29日
[二版]2016年12月18日(本日)

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イエスは何を与えるのか

 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4-5)

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 イエスが与えてくださるものが何かということについて。

 このイエスは、「いのち」という光を宿している。
 そしてイエスは、多くの人を救うため、その「いのち」の光を恵みによって分け与える。
 その「いのち」に預かった人は、信仰に至る。
 人が本質的にもっとも必要なもの、それをイエスは与えてくださるのである。

 いま、人々は、カネ、モノその他物質的・物理的なものばかりをもっぱら追い求めている。マモニズムそのものだ。
 カネやモノが人を救うのだろうか。生物体の生存維持のためならば、大いに救うだろう。そのためにカネはないよりあったほうがいいに決まっている。
 しかし、大切なことは「いのち」であって、生存の維持ではない。
 だから物質的・物理的な満足感と精神的な満足感とは、往々にして全く異なる。
 その言葉を用いるならば、イエスが与えるものはもっぱら精神的な満足であり、マモニズムが与えるものとは全く異なる。マモニズムは、虚無に陥ってしまうのだ。

 今のこのマモニズムという闇の中にも、イエスの「いのち」の光は輝いている。
 だから、こころを、魂を自由にするこのイエスの救いには、マモニズムにどっぷり浸かって虚無に陥った人をはじめ、誰もが預かることができるのである。

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[一版]2014年 4月28日
[二版]2016年12月11日(本日)

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ことば

 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

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 ことばにはそれ自体に意味があり、ことばの連なりがまた意味を生む。
 このことばによって、人から人へと意味が伝わる。
 聖書のことばも、もっぱら文字面の意味で理解される。

 ところが、「ことばは神」としかいいようのない出会いが、聖書にはある。
 文字面の意味をはるかに超えた聖書のことばが飛び込んできて、読む者に「いのち」を与える、そういうことがあるのである。
 アウグスティヌスにとってのそれは、「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:13-14)であった。
 これは、大きな苦悶のさなかにいた彼がこの聖書箇所に接して、「そうだ、主イエスを着ればいいのだ!」と気付いた、ということではない。全く違う。
 そうではなく、ことばであるところの神が、この聖書箇所のことばを通して彼に出会ってくださったのである。この出会いによって、苦しみ抜いたアウグスティヌスは回心をとげる。

 文字面で考えること自体は、可能だろう。たとえば、ことばが神と共にありことばが神であれば、はじめから神はいらしたのであるから、「初めに、ことばがあった。」となる、など。
 しかし、そういう文字面の解釈よりも、聖書のことばが文字面の意味など突き破って人に「いのち」を与えるものであること、そのことの方がずっと大切なことだ。

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[一版]2010年 5月19日
[二版]2010年10月11日
[三版]2012年 8月25日
[四版]2014年 4月27日
[五版]2016年12月 4日(本日)

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