人の子は、思いがけない時に来る

 「だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」(マタイ24:44)

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 このイエスの言葉は、2つに分解できる。

 まず1つ。
 人の子は、私たちのもとに来られるのである。
 これは、確かに来られるのであり、これこそ福音が約束することである。

 もう1つ。
 その来られるときが、思いがけないとき、つまり、いつ来られるのかは全く分からないのである。

 つまり、復活のイエスは確かに私たちの会いに来られるのだが、それがいつかは全く分からない。
 イエスが来られることを備えていたならば、この復活のイエスに出会って「いのち」に預かることができる。
 だが、備えがなかったならば、仮にイエスが来られても、そうとは気付かずにやり過ごしてしまう。もしやりすごしてしまったら、次のチャンスはあるのだろうか(私はそのことを知らない)。
 イエスが来られるときは、門の外側から戸を叩く(黙3:20)ようにして来られる。
 そうすると、気を抜いているとノックの音に気付かないということがままあるだろう。

 イエスは、全く思いも掛けないときに来られる。
 そうであれば、私たちは日頃、罪の赦しを得るためには、どう過ごせばよいだろうか。

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備え

 「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。
 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。
 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。
 まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」(マタイ24:42-47)

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 「その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」というのは、創世記でヨセフがファラオから総理大臣に任ぜられたような権限委譲の類を言うよりは、主人からほんとうに大切なものを預かった、というニュアンスだろう。
 ほんとうに大切なものというのは、「いのち」ではないか。
(そう解さないと、偉くなることが大事なことになってしまう。)

 復活のイエスは、あるときその人のところにやってくる。
 いつ来るのかは、全く分からない。
 そのときその人に備えが出来ているならば、復活のイエスがその人と出会って「いのち」を下さる。
 逆に、飲んだり食べたりしていて(49節)備えがないと、門の外側から戸を叩くイエスとしても(黙3:20)、どうにもやりようがない。
 だから、目を覚ましていること、備えていることは、アダムの肉から解放される上で非常に大切なことだ。

 もし、絶えず善行をし続けよということが備えなのであれば、山上の説教でイエスが語ったことと相反してしまう。
 人間のこのアダムの肉には善行をするだけのものはない。
 そのアダムの肉から解放されたいのに、逆にアダムの肉によって善行するというのはそもそも無理があるのではないか。
 第一、何に照らしての善なのか。

 だから備えとは、律法に照らして自分が罪人であることに気付いていること、そしてそこから救われたいとキリスト・イエスを待ち続けていること、いつでも戸を開ける準備の出来ていることではないだろうか。

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イエスのことば

 「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:35-36)

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 イエスのおことばは普遍的なものである。
 このことばこそ、すべてのものの中でもっともさきに存在していたものである(ヨハネ1:1)。
 そして、永遠のいのちを持ったことばなので、滅びない。
 それは時が至ると、絶対的な力となってその人に働き、救いへと導く。

 この天地の滅びがいつかは、誰にも分からない。
 それと同じように、いつ時が至るのかということも、その時が来るまでは誰も知らない。
 明日かも知れないし、はるか先かも知れない。
 とすれば、日々をどう営むか、ということについて、ただ「目を覚ましていなさい」(マタイ24:42)、そうイエスが仰る通りである。

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[付記]
 本日の記事は、2008年8月18日付記事に筆を加えたものです。

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最後まで耐え忍ぶ者は救われます

 「そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」(マタイ24:9-24:14)

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 イエスの黙示。

 聖書的には、この世に存在するのは次の二種しかいない。
 救われて信じるか、それとも、そうではないか。
 イエスが上の聖書箇所で「あなたがた」と言っているのは、無論前者である。後者は単に「人々」と言っている。

 「あなたがた」は救われたゆえに、「人々」とは色々と異なってくる。
 言うことやちょっとしたしぐさ、行い、そういったことで、かなり異なってくる。
 そうすると、メジャリティーの「人々」側は「あなたがた」を苦しめ、憎しむ。
 なぜかというと、そうするのが楽しいからだ。端的に、楽しい。
 「あなたがた」をいけにえ(スケープゴート)にして、「人々」の結束を更に固める。「人々」にとって、この世は楽しい。

 では、「あなたがた」はどうするのだろう。
 「最後まで耐え忍ぶ者は救われます」とイエスは言う。
 つまり、「最後」がある。
 聖書は一貫して、「終わりの日」のことを書いている。
 この日、この世の終わる日に、この世の原理に従っていた「人々」は「あなたがた」から取り分けられ、キリスト・イエスは「あなたがた」をすくい取ってくださる。

 「あなたがた」は、この日を希望にして、行き続けるのである。
 「最後まで耐え忍ぶ」ことは、たやすい。実にたやすい。
 なぜなら「あなたがた」は、復活のイエスからいただいた「いのち」によって生かされているからである。

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白く塗った墓

 「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、
 あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」(マタイ23:27-28)

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 イエスの律法学者・パリサイ人批判より。

 私の内側は、偽善と不法でいっぱいだ。
 今も昔も変わらない。
 加えて言うなら、不法とは具体的に、殺人に姦淫に、数え上げたらきりがない。
 それは何に照らして判断するのかというと、律法に照らして、特にイエスの律法に照らしてである。
 山上の宣教でイエスが示した律法解釈の前に、偽善者でない者、不法のない者など、ただの一人もいなくなってしまう。
 なので私は、神の御前に罪深い存在であると思わざるを得ない。

 パリサイ人達の度し難いところは、自分たちは神の御目に正しく、偽善者でもなければ不法を犯す者でもない、そう思って疑いもしないところにある。
 加えて、だから私たちに従えと人々を支配して、その人達をも迷わせる。
 正しい者としての外面をしているが、中は私たちと何一つ変わらない。
 外面を取りつくろっている分、自身が不法を犯し続けていることに全く無自覚であり、自分が罪深いなどとはかけらも思っていない。

 救われるとは、自分の内側の偽善と不法を認めざるを得なくなることから始まる。自分の罪深さへの自覚、気付きといってよい。
 その罪とは、アダム以来肉に宿ってしまったもので、判断基準は律法である。
 イエスはこれから十字架に架かって、自らの肉を処断する。
 そのイエスは復活して、その処断が御父に認められる。
 このイエスの肉の処断を恵みによって信じることができれば、その人は罪赦されて「いのち」を賜る。

 それを、汚い内側を隠そうと外側を白く塗ったくっても、何の解決にもならないではないか。

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主客転倒

 「忌わしいものだ。目の見えぬ手引きども。あなたがたはこう言う。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
 愚かで、目の見えぬ人たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。
 また、こう言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
 目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。」(マタイ23:16-19)

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 イエスの律法学者・パリサイ人批判。後半を省いた。

 神殿が大切なのか、それとも神殿の黄金が大切なのか。
 もちろん神殿が大切で、黄金はその神殿を権威づけている飾り以上のものではない。
 ところが、黄金の方に重きを置いてしまう。
 まさに主客転倒。
 彼らが「愚かで、目の見えぬ人」なのは、この我田引水ともいえる主客転倒さにある。
 そしてたちが悪いことに、彼らはその愚かしさを人にも押しつけ一緒に迷わせてしまうのである。

 聖書で大切なこと、おそらくただ一つの大切なことは、「いのち」である。
 もう10年近く前だろうか、詩篇119篇を暗記した女性がそれを披露する場に出くわしたが、いったい聖書というのは暗記力を試すための書物なのであろうか。
 何のために聖書に触れているのかを確かめることは、とても大切なことではないだろうか。

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天の御国をさえぎる者

 「しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。」(マタイ23:13)

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 パリサイ人批判のマタイ23章より。
 律法学者、パリサイ人とは、当時の宗教的指導者層。

 今回は、これ以上はあえて書かないでおこう。

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自分を低く

 「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」(マタイ23:12)

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 低く(高く)されるお方は、神であり、鼻っ柱が強いと折られしまう。
 目立たないところで地道にやっていれば、そのうち陽が当たる。
 このように、処世訓に解することもできる。

 しかし、このみ言葉はマタイ23章にある。
 そうすると、「自分を高くする者」とはパリサイ人、律法学者を指すことが明らかだ。
 なにしろ、この23章というのはパリサイ人たちへの悪口を一箇所に編集したような箇所なのだ。

 一方、「自分を低くする者」というのは、彼らとは対極の階級だろうから、取税人や遊女のような存在であろうか。
 実際イエスは次のように仰っている。

 「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」(マタイ21:31-32)
(「あなたがた」は、ここでは祭司長、長老たち、パリサイ人(21:23,45)、「ヨハネ」はバプテスマのヨハネ。)

 引用聖句は、この箇所とつじつまが合う。
 確かに信じるというのは、一種降伏させられるところがある。
 取税人、遊女だって、周囲からゴミ扱いされ状況に押しつぶされ、それでいの一番に神に降伏した。
 だから「自分を低く」とあると謙遜さの類を感じるけれども、それよりも神の御前に「自分を低くせざるを得ない」という方が近いのではないだろうか。
 「自分を低く」することを自覚してかみしめると、「高くされます」、神は上へ上げてくださる。
 山上の説教の第一声、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3)も、つじつまが合う。
 心の貧しさを自覚しないことには、つまり低くなければ、はじまらない。

 私は、「自分を低く」は、一般的に言うところの謙遜の意味ではないと思う。

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[付記]
 本日の記事は、2007年9月19日付記事に筆を入れたものです。

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聖書の力

 「その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問して、
 言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない。』と言いました。……
 すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」
 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」(マタイ22:23-24,28-29)

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 支配者階層サドカイ人がイエスに議論をふっかける。
(ちなみにサドカイ人が引用した律法は申25:5。)

 聖書というのは、力である。御言葉の力と言っていい。
 さらに言うなら、「初めに、ことばがあった。」(ヨハネ1:1)というところの「ことば」である。
 その力は、死人を一瞬にして生き返らせる。それほどのものである。
 聖書が与える「いのち」とは、このようなものだ。
 聖書以外の文字で、そのような力を持つものを、私は知らない。

 だから、このようなくだらない言葉遊びのために聖書を用いるサドカイ人を、むしろ心底同情する。
 「かわいそうなやつだなあ」と。
 イエスが言うように、とんだ思い違いをしている。
 支配者階級にまでなって、聖書のなんたるかが全く分からない。
 むしろ、だからこそ支配者階級になれたのだろう。

 恵みによって聖書のことばが正に飛び込んできたとき、はじめて聖書の力が発揮される。
 上でけなして書いた支配者階級の連中にも、チャンスはある。
 それも膨大にある。

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