薄い信仰

 「そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。」(マタイ14:31-33)

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 お調子者のペテロがおぼれかけたのを助けたイエスのひとこと、「信仰の薄い人だな」。

 信仰は、あるかないかのどちらかしかない。
 だが、信仰心の類の全くない者が、どうやって信仰に至るのだろう。

 私事になるが、かつての私もまた、神を知らず聖書を知らず、全てのことは自力でできると過信していた。
 だがそれは完全に行き詰まってしまい、窮まった私は教会というところに行き聖書を求めた。
 つまり、その過信していた頃の私の中にさえ、信仰へのとっかかりめいたものがあったのだと思う。そうでなければ、教会とか寺とかいう発想自体が出て来ようがない。

 薄い信仰。
 取税人は、自分の薄い信仰に照らして自身に罪を認め、それを悲しんでいた。
 ペテロも薄い信仰によって、湖の上を渡ろうとした。

 それは信仰そのものとは全く異なる。信仰は、あるかないかのどちらかしかない。
 「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)とあるとおりだ。
 しかし「薄い信仰」というとっかかりを人は誰しも持っているので、信仰の方へと歩むことができる。
 言い換えると、人は神を知らないわけではない。
 神が人をお造りになったからだ。

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悲しむイエス

 「彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。
 イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。
……
 そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」(マタイ14:10-14,19-23)

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 ヘロデ王によって、バステスマのヨハネは首をはねられた。
 その報を聞いたイエスは、「舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた」。
 ただ一人の地上での理解者を失って、ほんとうに悲しかったと思う。
 しかし、群衆はそんなことはお構いなしに、このイエスに群がる。
 ほんとうはイエスは、ひとり寂しい所で祈りたい。ひとりだけのところで、悲しみたい。
 だがイエスは彼らを深く憐れみ、病を癒し、五千人の給食の奇跡までなさる。イエスは群衆達に、御自身の悲しみを見せなかった。
 イエスはこのとき悲しみにくれていたので、悲しみと病を負う群集に、いつも以上に共感できたのかも知れない。

 ところで私は前々から不思議に思っているのだが、給食の奇跡によって空腹を満たした群衆は、実にあっさりとイエスから離れてくれる。四千人の給食(マタイ15:32-39)でも、全く同様に、あっさりイエスから離れる。
 イエスが与えたいものは「いのちのパン」(ヨハネ6:48)であって、マナのような、それを食べて空腹はしのげても死からは逃れることのできない(ヨハネ6:49)ようなものではない。
 五千人(四千人)の給食というのは、いわばマナを与えるようなものだ。
 応急措置にすぎない。
 ところが群衆は、この応急措置を受けて、すっかり満足しきっておとなしく帰る。
 次から次へと飛び出るパンには喜んでも、「いのちのパン」を与えてくれるイエスのしるしの意味には全く目が行かない。

 話を元に戻すと、満腹した群衆はあっさり引き返してくれたので、イエスはようやく山に登ってひとり祈り始められた。
 バステスマのヨハネの死、地上での唯一の理解者の死。
 ひとり祈る中で、イエスは思う存分、悲しさを父に訴えられたと思う。
 不安ものもあったかもしれない。
 イエスはこのとき肉をまとっているので、私たち同様悲しむし、不安もあっただろう。

 復活のイエスが私たちの肉の弱さを理解できるのは、かつて肉をまとっていたからであり、だからこそ、キリスト・イエスは神と私たちとの間を取りなす大祭司(ヘブル7:24-25)たりえるのである。

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[付記]
 一版:2007年 7月22日
 二版:2010年 7月13日
 三版:2012年 4月28日(本日)

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隠された宝

 「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)

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 私はカネを求めていたかのようで、そうではなかった。
 人からの栄誉を求めていたかのようで、そうではなかった。
 ほんとうに求めていたもの、それが実に、聖書にあった。
 「 わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)
 まさしくイエス御自身こそが、いのちのパン、わき出る泉(ヨハネ4:14)、また永遠のいのち(ヨハネ6:27)そのものであったとは!

 今の私は、特に何かを失ったわけでもない。
 明日も、今まで通り、ごく普通に売り買いするだろう。今まで通りに、怒り、泣き、笑うだろう。ストレスも、依然として大きいだろう。
 人としての営みには、さほどの変化があるとは思えない。
 けれどもなんといっても、イエス、この宝を見いだした満足感の大きさといったらない。

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[付記]
 本日の記事の履歴は以下の通り。
  [第一版]2006年 9月 2日
  [第二版]2008年 8月 2日
  [第三版]2010年 7月12日
  [第四版]2012年 4月22日(本日)

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からし種への御恵み

 「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、
 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」(マタイ13:31-32)

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 からし種のたとえ。

 どんな種よりも小さいからし種であっても、いったん蒔かれて芽を出せばどんな木よりも大きくなる。
 これは信仰ということのたとえで、信仰はあるかないかのどちらかしかない。
 小さなからし種のままか、それが全てであるほどに大きな木かの、いずれかの状態しかない。
 0か100かのどちらかしかない。

 最初は、どの人もからし種だ。
 そのからし種の生長は、それを畑に蒔いてくださる神の恵みによる。
 自力で大きな木になるわけではない。
 もし自力でそうなるのなら、イエスは不要で律法遵守だけで十二分に信仰へと至っていたことだろう。

 こうして、いったん御恵みによって蒔かれた種は、たちまちのうちに大きくなる。
 このことについて、人々は回心とも新生とも言っている。
 それによってはじめて人は信じることになるので、信仰はあるかないかのどちらかしかないのである。

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種は蒔かれ続けている

 「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイ13:19-23)

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 種まきのたとえの、イエスご自身による解き明かし。

 4つのタイプの人が登場する。
 この区分けそれ自体は、比較的どうでもよい。
 どの人にも、種は蒔かれているからだ。
 蒔かれ続けている。
 その種が、恵みによってわたしたちの中で実を結ぶこと、それも「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実」を結ぶこと、これだけが大切なことである。
 これはあくまで恵みによる。
 自分の力で地質改良して種よ実を結べよ、とやることは不可能なのだ。
 むしろ、蒔かれ続けている種が、わたしたちの中の良い地の部分に、恵みによって落とされたか、ということが大切なことなのだろう。

 道ばたに種が落ちようとも、岩地に落ちようとも、また、いばらに落ちようとも、大切なことは種が蒔かれ続けているという神のあわれみなのである。

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[付記]
 本日の記事は、2010年7月10日付記事に筆を加えたものです。

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持てる者と持たざる者

 「イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」(マタイ13:11-12)

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 自分の昔話をする。しかも聖書とは関係がない。

 私は物理が、分からないながらも好きで、それにしても全く分からなかった。
 高校2年の一番最初に学ぶ運動方程式F=maをどう理解すればよいのかさっぱり分からず、途方に暮れ続けていた。
 そのF=maの意味がはっきりと分かったのは高校3年生の夏、家で勉強していたときで、突然分かったそのときにはまるで天が開けたかのような感動を覚えた。
 それだけでなく、このF=maが理解できたことによって、物理全体が一挙に理解できるようになった。
 つまり、F=maが分かることは、物理学の全体が分かるということだった。

 聖書もそれに似て、十字架と復活がはっきりと分かるか分からないかは、持てる者と持たざる者との分水嶺となる。
 このたったひとつのことを分かっている人は、知れば知るほど確信と信仰が強くなる。
 この世でやってゆける力を、聖書が与える「いのち」からくみ出すことが出来る。
 しかし、「持たない人」にとっては、知れば知るほど、かえって振り回されてしまうと思う。

 事は十字架と復活が分かることに帰結する。
 そしてこれは、因果関係ではない。恵みなのだ。
 勉強を重ねたから分かるとか、ごみ拾いを毎日したから救いに預かるというような短絡的なものではない。
 だが、求めれば必ず与えられるのであり(参/マタイ7:7)、恵みは誰にも預かりうる。
 持たざる者から持てる者には変わることができる。

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まむしのすえたち

 「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。
 良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。
 わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。
 あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:34-37)

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 イエスのパリサイ人批判。
 だが、「まむしのすえたち」という射程は私たちにも及んでいる。

 人はその肉に、よい倉も悪い倉も宿しており、良い物も取り出せれば悪い物も噴き出す。
 もし良い物しか出ないとすれば、それは罪なき肉を持つ神の子だけだろう。
 ともかく私たちの肉は悪い倉を宿している。
 ことばによって罪に定められるのならば、その肉ゆえにことばで失敗する人間はいないので、肉を持つ全ての人間が神の御前に有罪なのである。
 神の子は、そのような肉のある存在がさばきの日までに救われて欲しいと福音を伝えている。

 まず、私たちはその肉ゆえにそもそもが罪深いのだと気付かされる。
 そして、その罪から逃れて天の御国に適う者となることは、自力では到底できないことに絶望する。
 そのときイエスの十字架にはりつけにされてイエスと共に死に、そして復活のイエスと共に復活する。
 その過程で私たちは罪に死んだので、依然として罪深い身でありつつもその罪が赦された。
 私たちは罪深いものだが罪から自由になったのである。
 罪を罪とも気付かないパリサイ人の放縦とは、似て非なるものだ。

 イエスから「まむしのすえたち」と言われて、それが自分を指していると気付くことがスタートラインになる。

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イエスのくびき

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)

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 この世に疲れきった人々、また重荷を背負ってしまった人々への、イエスのメッセージ。

 真に得たいものは一体、この世のマテリアルなもの(マモニズム)なのか。
 それとも、魂の平安なのか。
 もし魂の平安であるならば、この世のくびきではなくイエスのくびきを負ってゆくことをイエスは勧めている。

 くびきとは、ごく簡潔に書くと、2頭の牛の首にかけて耕す(引っ張る)ための道具(というように聞いた)。
 イエスが片側を、わたしたちはもう片側を、それぞれ首に掛ける。
 そうして、二人で荷物を引っ張ってゆく。
 イエスが力添えしてくれるくびきは、世のくびきに比べて負いやすく、そして軽い。
 そのようにしてこの世にあって、イエスと二人三脚して歩んでゆく。

 ちなみに、このイエスのくびきというのは、言い換えると「イエスの焼き印」(ガラテヤ6:17)となる。

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[付記]
 記事履歴
 [1版]2008年 8月 1日
 [2版]2010年 7月 6日
 [3版]2012年 4月 1日(本日)

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