神の権威

 「そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」
 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」(ヨハネ19:10-11)

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 神の権威は律法という文言に顕れている。
 ここでピラトは、この律法の下にいる者ではない。
 なのでそのピラトがイエスに命じても、その命令はイエスにとって根拠がない。

 一方、イエスをピラトに引き渡した人々は律法の下にいて律法を守ろうと励んでいる。
 それにもかかわらず律法に反してイエスを亡き者にしようとしている。
 だから彼らの罪は大きく、その大きさにおいて、神を仰ぎ見つつ神の律法に違反せざるを得ない私たちの肉もまた、変わるところはない。
 その肉を救うために、イエスは十字架に架かる。
 これが神の義、神の権威である。

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不条理

 「ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。
 しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」
 すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ。」と言った。このバラバは強盗であった。
 そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。」(ヨハネ18:38-19:1)

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 ピラトはイエスに罪(guilty)を認めないと宣言する。
 ところが群集が騒ぎ出すと、イエスを捕らえて鞭打ちに処する。
 罪がある(guilty)から鞭打ったのではなく、ピラトの立場からするとそうするしか事態の収拾のメドが立たないと判断したのだろう。
 お白砂の場がお白砂として最早機能せず、強盗の方が釈放されて、イエスは理不尽にも鞭打たれる。

 そのような理不尽さ、不条理を、ここで神の子イエスは甘んじて受けている。
 それは私たちが味わうそれら理不尽さ、不条理と全く同じ類のもので、私たちは、法に触れているわけでもないのに鞭打たれることがままある。
 神の子イエスは今、人間のその不条理を体験してくださっている。
 私たちも、その類のことを甘んじて受けよと言っているかのようだ。

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guilty と sin

 「そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。
 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」
 彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。
 しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」(ヨハネ18:37-39)

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 総督ピラトのイエスへの尋問。

 ピラトの尋問は、イエスがローマ法に照らして有罪(guilty)か無罪(not guilty)か、ということだけである。
 「それでは、あなたは王なのですか。」という尋問は、カイザルに対する反逆罪の可能性を調べている。
 イエスが公生涯において焦点を当て続けてきたアダムの肉の罪(sin)とは、全く異なる事柄についてのことだ。

 イエスは、王国の王である。
 罪なき者イエスと、罪がないとみなされた者達による王国。
 すなわち「真理に属する者」の王国、その王がイエスである。
 その王国は、この世にはない。
 この世の権力者ピラトには、このことがまるで分からず、「真理とは何ですか」とイエスに問う。

 ピラトはイエスに罪はない(not guilty)という心証を抱いている。
 しかし、guilty - not guilty でしか判断しないピラトは、過越祭の慣例を持ち出して「あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか」と群集に問う。

 このイエスとピラトとのすれ違いは、突き詰めると、天の者と世の者とが分かり合うことができないことを象徴しているのではなかろうか。

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[付記]
 本日の記事は、2008年5月3日付記事に筆を加えたものです。

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イエスの国

 「ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」
 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」
 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(ヨハネ18:35-37)

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 ピラトがイエスを尋問する。

 イエスの国はこの世のものではないと、イエスは言う。
 十字架と復活によって罪から解放された人々が、このイエスの国に集っている。
 この世のものではないから、もうこの世の何かによって再び罪とされることはない。
 だから、恵みによってイエスの国に行き着いた者が、そこから出るとか、あるいはアダムのように出されるということも、もうないのである。

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醜き肉

 「シモン・ペテロともうひとりの弟子は、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いで、イエスといっしょに大祭司の中庭にはいった。
 しかし、ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いである、もうひとりの弟子が出て来て、門番の女に話して、ペテロを連れてはいった。
 すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と言った。ペテロは、「そんな者ではない。」と言った。
 寒かったので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこに立って暖まっていた。ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。」(ヨハネ18:15-18)

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 ペテロは問い詰められて、自分はイエスの弟子ではない、そう否定する。
 これは人間の肉の性質である。
 にもかかわらず、人々はペテロを裏切り者と非難する。
 つまり、肉は裏切るものなのであり、そのように非難するのもまた、偽善という人間の肉の性質の一つである。
 この醜き肉に赦しを与えるために、罪のない肉を持つイエスは十字架に架かるのである。

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剣を抜く罪

 「シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
 そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」(ヨハネ18:10-11)

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 剣を抜いて敵の耳を切り落とすペテロ。
 そのことの証人は、被害者当人でもあるしもべマルコス。

 もし私がペテロの立場であったら、同じことをするに違いない。
 それどころか、喉を狙いさえするだろう。
 これは立派な律法違反だ。証人もいるので、逃れようがない。
 なにより神がご存じだ。

 この律法違反を行うのは私の理性というよりは、肉の部分だろう。
 私やペテロは、肉が犯す罪から逃れることがどうしてもできない。
 どこまでいっても、律法違反という罪、神の秩序への反発がつきまとう。

 これから十字架に架かり復活するイエスがもたらす救いとは、そのような私やペテロがそのままで赦されている、私の肉は十字架によって死んだがイエス同様復活したのだ、ということが分かることである。
 このことは、文字面から納得する類のことではない。
 文字面の意味をはるかに越えて、恵みによってみことばが救いへの扉を開くのである。

 仮に剣を抜いて、地上で刑法上傷害罪に問われたとしても、そういうわけで天の律法からの責めからは解放されているのである。

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アガペー

 「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」(ヨハネ17:25-26)

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 イエスの祈りが終わる。

 御父が御子を愛しているというのなら、なぜ御子を凄惨な十字架に架けるのだろう。
 復活が約束されているとはいえ、途方もなく辛いわざには違いない。
 御父は愛する者を、わざわざ辛い目に遭わせるのだろうか。
 というよりも、ここでいう御父の愛とは御子への絶対的な信頼ということではないだろうか。

 同じように、御父はアダムの肉を持つ人間をも、絶対的に信頼している。
 正しいのはただお一人、御父だけである。御父が唯一の権威だからで、律法もまた完全に正しい。
 その律法をまったく守ることのできないアダムの肉は、御父の正しさからするとあまりに罪深い。
 そうであるにもかかわらず十字架の御子イエスをいけにえとして送って下さり、そこまでして人間を罪から救い出そうとされているのである。
 人間への期待、というか、罪を悔い改めることについての絶対的な信頼を御父はお持ちだ。
 そのための御子の犠牲こそ、御父の人間への愛なのではないかという気がする。

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一つのもの

 「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」(ヨハネ17:21-23)

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 思いつきを記す。

 私たちは、物理的にはもちろん離ればなれなのであるが、イエスを介して御父を愛するという点において完全に一つである。いわば、想いにおいてイエスの下に私たちは完全に一つなのである。それは、宙に浮かんだ星のようにこの地上から遙か離れてあるのかも知れない。

 一方、世は御子イエスを分からなかったが、それはイエスと同一の本質である御父を世は知らないということに他ならない。
 その世においてこの一つのものは、星のように輝いている。
 かつて私はその輝きを見て、イエスを知ろうと渇望した者である。

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『この世のものでない』人々

 「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。
 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」(ヨハネ17:14-20)

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 イエスの祈り。

 「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」
 彼ら、すなわち弟子たちは、この時点ではまだ世のものに属している。
 後に復活のイエスという真理が彼らを聖別して、弟子たちもこの世のものではなくなる。

 それは、「彼らのことばによってわたしを信じる人々」、すなわちイエスのお姿を見ておらず、ただ聖書越しに想像するしかない私たちについても当てはまる。
 イエスのお姿を見ていなくとも、このイエスに出会って聖別されるということが、ある。 その結果として、恵みによってイエスを信じることとなる。
 するとその人は、もはやこの世のものではなくなる。
 この世で生きていながら、この世のものではなくなるのだ。
 それで世は、その人を憎む。
 世がイエスを憎んだからだ(参/ヨハネ15:18)。

 イエスは、これら「この世のものでない」人々を、「この世から取り去ってくださるように」父に願うことは、けっしてしない。
 イエスは、人間に安楽な逃避をさせるために十字架にかかるのではない。
 かえってイエスが与えた「いのち」は、世の憎しみその他諸々を引き受けて世を全うし、イエス同様世に打ち勝つ、そのためのものなのだ。
 それでイエスは、「悪い者から守ってくださるようにお願い」して下さる、つまり愛し応援して下さるのである。

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[付記]
 本日の記事は、2008年4月27日付記事に筆を加えたものです。
 「聖別」という用語を用いたことには、少し違和感を覚えています。

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回復

 「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。
 わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。」(ヨハネ17:9-10)

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 この世界は、2つのうちのどちらかだ。
 神に属するか、世に属するか、この2つである。
 神の子イエスは、神であるにもかかわらず、世へと来られた。
 世にいる人を救って、神と彼との関係を回復させるためである。

 彼がイエスの十字架を信じてその回復を果たしたとき、イエスもその回復によって栄光をお受けになる。

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