「すべてのもの」を恵んでくださる神

 「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:30,32)

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 ロマ書のまとめのような箇所。

 神は、御子イエスを十字架につけて処刑した。
 その御子は、神から「すべてのもの」を恵んでいただき、よみがえる。
 そうであれば、私たちのために御子をも惜しまなかった神は、御子に恵んだのと同じく「すべてのもの」を私たちに恵んでくださる。
 私たちが肉に死んで御霊によみがえるのは、この神の愛ゆえである。

 そのように、「神はあらかじめ定めた人々をさらに召」すのである。

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苦しみをとおして見える栄光

 「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:17-18)

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 「子ども」とは、神の子。
 前回、大略次のように書いた。
 「恵みによって十字架のイエスに出会った人は、肉に頼らず御霊に導かれる。そのとき、私たちは神の子という関係が、この御霊を通して結ばれている」。

 さて、この世はアダムの肉の原理で動いている。
 一方、その罪深きアダムの肉が身代わりの十字架によって赦された私たちは、「いのち」という、肉の原理とは異なる原理で動いている。
 その「いのち」は罪からの解放という素晴らしい自由を私たちに与える一方で、肉の原理で動く「世」とは葛藤が生じることになる。
 私たちは、今は依然として「世」に身を置いているので、必然、この「世」で苦難、苦しみが発生する。
 それは、この世で頻繁に起こる苦難、苦しみの類とは別種のものであり、この世にいて異なる原理で動く者が味わう苦難、苦しみなのである。

 しかし、この苦しみを通してこそ、「将来私たちに啓示されようとしている栄光」が見えてくる。
 それは端的に天の御国であり、あまりに素晴らしく、この苦しみなど「取るに足りない」ほどのものである。
 言い換えると、「いのち」の先には栄光が見えているので、当座の居場所である「世」で必然生じる苦しみを、しっかり受け止めることができるのである。

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神の子ども

 「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(ローマ8:14-16)

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 アダムの肉は、その肉を律することができない。
 律法は、いわば「人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊」であった。
 守ろうにも、決して守ることが出来ないという恐怖である。
 だが、十字架によってその肉に死んで、イエスの復活によってよみがえる、このような原理が導入された。
 アダムの肉を十字架につけてしまった後に私たちの体を動かすのは、その肉ではなく神の御霊である。まさしく、「神の御霊に導かれる人」とは、このことを指す。
 言い換えると、(肉の努力によってではなく)恵みによって十字架のイエスに出会った人は、肉に頼らず御霊に導かれる。
 自力ではなく、他力になる。

 そのとき、私たちは神の子という関係が、この御霊を通して結ばれている。
 「私たちが神の子どもであること」は、他人にはまったく分からない。
 行ないや立ち振る舞いといった「肉」の部分が、御霊によって変わるわけではないからだ。
 だが、その御霊の内住、みちあふれる「いのち」は、自分自身には自明ともいえるほど明らかなのである。

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肉と御霊

 「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ8:13)

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 アダムの肉にしたがって生きる者は、かならず死ぬ。
 この肉にあがなおうとしても、また、律しようとしても、律法に従うことはできず、かならず死ぬ。
 肉によって肉を律することは、できないのである。
 一方、キリストを信じる私たちは、その十字架の死によって、「キリストとともに葬られた」(ローマ6:4)。

 しかし、キリストと共に葬られた私たちを生かしているのは、私たち自身の力によってではなく、キリストを十字架の死から復活させた御霊によってである。
 「からだの行ないを殺す」のは、自身の肉の努力などによってではできず、この御霊がそのように働いてくれるのである。
 そのような類の御霊による働き、自分自身のものではない生かす力を、「いのち」というのだろう。

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からだは罪のゆえに死んでいても

 「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。」(ローマ8:10-12)

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 私たちは、アダムの肉の罪深さのゆえに、霊肉共に生を見ない者であった。
 けれども、復活のキリストとの出会いは、私たちを義としてくださった。
 「いのち」が与えられたのだ。
 死んでいた霊が、今は生きているのである。
 これは、「活力」とか「元気」とか「勢い」いうものとも、全く違う。
 その人の内に、礎石が据わったようなものである(マタイ7:24-25)。

 そのように恵みによってこの復活のキリストから「いのち」をいただくのだが、この「からだ」が死んでいることには変わりない。
 アダムの肉に対して私たちは今もあまりに無力なのだ。
 だが、義とされた私たちは、もはや「肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません」。
 すなわち、肉で肉をコントロールするという、今まで通りの無理な努力をする必要がない。
 肉で肉をコントロールするという原理は、もはや過ぎ去った死の原理なのである。

 今もって「からだは罪のゆえに死んでいても」、前と違って、今はキリストの「いのち」に預かって真に自由に生きている。

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 [付記]
 「肉」と「からだ」とがでてきてややこしいのですが、かなり意訳をしていると思われる英語聖書TEVでは、「肉」を"human nature" すなわち「人間の性質」としています。ちなみに「からだ」は、"body" で、これは他の英語聖書もそうです。
 「肉」についてのTEVの解釈は、個人的には妥当だと思います。

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肉の思いは神に敵する

 「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。」(ローマ8:6-7口語訳)

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 アダムの肉が指向する方向は、どこまでも神に敵する。
 「神の律法に従わず、否、従い得ないのである」。
 神に敵していては、平安であろうはずがない。
 また、生きてはいても死んでいる。

 そのようなアダムの肉にとって必要なことは、なにより、この神との和解である。
 その和解を成就するために御子キリストが受肉して来られ、十字架に架かり復活された。
 キリストは、罪の肉を私たちの代わりに処分したのである。
 このキリストのわざを、恵みによって信じる私たちは、神と和解することが叶う。
 そのとき、私たちははじめていのちを得、平安を知る。
 私のアダムの肉は、罪赦されて解放されたのだ。

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十字架という処分

 「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:3-4)

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 神は御子イエスをこの世に遣わした。
 イエスは、私たちを罪から救うためにこの世に来られた。
 その私たちの罪に処罰を与えるのである。
 「罪深い肉と同じような形」、すなわち、イエスとは罪なき肉、来るべきアダム、であった。
 一方私たちは、罪深きアダムの肉を持つ者である。
 私たち罪深きアダムの身代わりに、罪なき肉イエスが極刑の十字架に架かって、罪をはらむ肉そのものを処分してしまう。
 律法はアダムの肉に、このような処分を下せない。
 というより、アダムの肉の前に、律法は機能停止していた。

 処分された罪なき肉は、三日目に復活する。
 処分が神によって承認されたのだ。
 ここに、死んでよみがえる、という道が、イエスによって拓かれた。
 それで恵みにより、私たちは律法に死に(罪に死に)、今度は御霊によって生きる。
 御霊によって生きるとは、キリストに贖われて義とみなされる(ローマ3:23-24)ということである。
 義とみなされた者は、そうであるゆえ、「律法の要求が全うされ」ているとみなされている。
 これが、キリストによる、アダムの肉の救済である。

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律法に死に、キリストに生きる

 「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ7:24-8:2)

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 7:24-25は再掲。

 「だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。
 律法は、その人を罪に定め、このように死に追いやる。
 だが、この死がなくては、イエスの復活と同様の復活もまた、ありえない。

 律法に死に、キリストに生きるのである。
 そのとき、その人は「罪と死の原理」から解放されて、「いのちの御霊の原理」に生きるようになる。
 それはなぜかというと、「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決して」ないからである。
 このことを言い換えると、死んで生き返った結果、罪赦されたということなのだ。
 罪赦されてはじめて、「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている」という、一見矛盾したあり方を獲得できるようになる。

 律法に死に、キリストに生きて、罪赦される。
 それは、律法に接ぎ木されていたその人が、救われてキリストに接ぎ木されたからである。
 その人を支配する原理は、「罪と死の原理」から「いのちの御霊の原理」へと、がらりと変わる。
 そのためには、恵みによって律法に死ぬことが、どうしても必要になってくる。

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律法と回心

 「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:22-25)

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 なぜ「私は、ほんとうにみじめな人間」なのだろう。
 それは、律法(「心の律法」)によって照らし出された罪の肉(「罪の律法」)に絶望してしまったからである。
 「この死の、からだ」とまで、思い詰め、憔悴しきってしまう。

 しかし続いて、唐突に「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」とくる。
 この唐突な変化が何であるのかというのは、行間に書かれている。
 行間とは、主イエスの恵みが回心へと導き、「この死の、からだから、私を救い出してくれ」た、ということだ。
 回心でも新生でも、ことばは何でもいい。
 それを経て「いのち」に預かるので、このことは新約聖書の核心なのだ。

 回心を経て、「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法(「罪の肉」)に仕えている」という地点に立つ。
 アダムである以上、律法を喜びつつも罪から逃れることはできない。
 だが、主キリスト・イエスを通して神から罪赦されているので、その肉の罪が責められることがない - これが「いのち」であり自由であり救いである。

 「だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と憔悴しきるまでに追いつめられるならば、その人は神から見放されてはいない。
 その道は、既に十字架のイエスが通っている。

 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。」(マタイ7:13)

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