観念ではない信仰

 「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:8-10)

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 信じる、とはどのようなことなのだろう。
 観念的な確信ではない。
 昔日私が教会にいた頃、上のローマ10:10の通りに口で告白したので自分は救われるという旨のことをやっていた人たちをよく見た。
 しかし、ここで問われているのは、何を告白するかだろう。

 むしろ、信じるというよりは、イエスによって信じさせられるのである。
 そのとき、私たちはイエスの十字架での死とよみがえりをくぐりぬけさせられる。
 「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、」とあるが、これは観念論なのではなく、そうだからこそ今の自分があるのである。

 1日に聖書を3章読むとか、暗唱聖句とか、こういう営みは、石ころの表面に金メッキをつけてゆくのと同じで、そのメッキの厚みをどれだけ増しても、石ころであることには変わりはない。
 しかし、イエスによってねじ伏せられるかのようにして与えられる信仰はそうではなく、石ころそのものが金に変わるのである。よみがえったのだ。

 「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」というのは、暗唱したものがいつでもすらすら出てくるというのではなく、自分自身がみことばの本質なのである。
 「口で告白して救われる」というよりも、石ころが金になったので、口にする内容が異なってくるのである。

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あわれんでくださる神による

 「神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:15-16)

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 ことわざに、「天は自ら助くる者を助く」というのがある。
 そのとおりだ。この世で生きるためにはそれ相応の努力が必要であり、その努力は必ずや実を結んで報いられる。

 しかし、今日の聖書箇所にある「事」というのは、上のことわざのようなことではない。
 すべてアダムの肉を持つ人間に必要な、魂の救いのことを指す。
 その救いは、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と仰る神に全ての決定権があるのであり、人間の側の何らかの努力やわざの結果ではない。
 これが神の恵みである。「あわれんでくださる神による」のである。
 人間としては、恵みを祈り求めること以外に何ができるだろうか。

 この世のことはもっぱら自力で行う必要があっても、救われることについては全てを神の御手に委ねるのである。

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[一版]2011年11月 3日
[二版]2015年 7月20日(本日)

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圧倒的な勝利者

 「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)

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 自分語りをする。

 数々の困難、患難に遭うとき。
 自暴自棄になりそうなとき。
 そういうときにふっと私が思い起こすことがある。
 それは、「私はイエスから『いのち』を与えられたほどに特別に愛されているのだ」という事実である。
 そしてこのことに思い至ると、こんなことでくじけるなんてイエスの『いのち』に照らして何と勿体ないことか、そういう思いが働いて気を静めることができるようになる。
 「キリストの愛から引き離す」というよりも、困難の時にこそキリストの愛を再確認できるというのが個人的な実感だ。
 上の聖書箇所は迫害の激しい時代だったので、こういう書きぶりになったのだと思う。

 私たちが「圧倒的な勝利者」なのは、あのキリストの愛を知っているからに他ならない。
 十字架と復活を通して、御父との和解を取りなしてくださって下さった、御子のわざ。
 これほどのイエスの愛のおかげで、私たちは創造主と平和な関係を回復し、自然との間の調和を取り戻すことができた。
 この『いのち』に預かって救われたことこそ、私たちの勝利なのである。
 いいかえると、勝利、といっても、これはきわめて個人的なものなのである。

 このイエスは私たちを、根底のところで支えてくださっている。
 日頃はほとんど忘れていても、いざというときに思い出される。
 表向きイエスを棄てることが、もしかするとあるかもしれない。
 だがイエスを信じる者にとっては、表向きはともかく根底のところで、イエスの方からなおも愛し続けてくださっていることを実感するはずだ。

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[一版]2011年10月30日
[二版]2015年 7月19日(本日)

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『益』とはなにか

 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ8:28-29)

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 「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」とあるところの「益」とは、誰にとっての益だろうか。
 専ら自分自身にとってのものではなく、神および神の秩序にとっての益である。
 もし私たちが「神のご計画に従って召された人々」なのであれば、神および神の秩序にとって益なことは、自分自身にとっても当然に益である。
 私たちは、イエスを長男とする家族なのである。

 このことについては、モーセの一生を思い出すとよく分かる。モーセは順風満帆にリーダーになったであろうか。そうではなく、彼には、きわめて不遇な時期が長く続いたのである。しかし、その時期を抜けたときに、すべてのことが、神とモーセ自身の双方にとって益として働いた。

 益となる、ということを専ら自分自身についてのことと考えるならば、聖書は単なるご利益宗教に堕してしまう。
 それどころか、そのような読み方というのは、自分に都合の良い言葉をあちこちから拾い集めて我田引水の解釈を施しているだけで単に聖書を利用しているのであり、聖書に接するというのとはまるで違う。
 この聖書に対するスタンスの違いも「神のご計画に従って召された人々」に関することで、その読み方を変えてくださるのは御子なのである。

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苦しみをとおして見える栄光

 「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:17-18)

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 「子ども」とは、神の子。
 前回、大略次のように書いた。
 「恵みによって十字架のイエスに出会った人は、肉に頼らず御霊に導かれる。そのとき、私たちは神の子という関係が、この御霊を通して結ばれている」。

 さて、この世はアダムの肉の原理で動いている。
 一方、その罪深きアダムの肉が身代わりの十字架によって赦された私たちは、「いのち」という、肉の原理とは異なる原理で動いている。
 その「いのち」は罪からの解放という素晴らしい自由を私たちに与える一方で、肉の原理で動く「世」とは葛藤が生じることになる。
 私たち「いのち」の原理による者ではあっても、今は依然として「世」に身を置いているので、必然、この「世」で葛藤、苦難、苦しみが発生する。
 しかし、この苦しみを通してこそ、「将来私たちに啓示されようとしている栄光」が見えてくる。
 それは端的に天の御国であり、あまりに素晴らしく、この苦しみなど「取るに足りない」ほどのものである。
 言い換えると、「いのち」の先には栄光が見えているので、当座の居場所でしかない「世」で必然生じる苦しみを、しっかりと受け止めることができるのである。

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[一版]2009年11月28日
[二版]2015年 7月11日(本日)

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肉のはたらき

 「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」(ローマ8:12-13新共同訳)

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 上の新共同訳に、「わたしたちには一つの義務がありますが、」とある。
 一体、どんな義務なのだろう?
 文脈を無視して唐突に出てくる義務。
 ちなみに、このローマ8:12は、他の聖書では次のようになっている。

 「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。」(新改訳2版)
 "Therefore, brethren, we are debtors-not to the flesh, to live according to the flesh." (NKJ)

 おそらく原典には全く書かれていない「義務」という概念を、何らかの意図をもってねじ込んでしまうこと、これこそが肉の性質なのである。
 そのような肉のはたらきによって、その人は生きる屍となってしまう。すなわち、私たちの姿である。
 私たちは、肉に従う責任を、確かに肉に対しては負いようがない。
 この、肉に従う責任は、もっぱら神に対して負っているのであり、そのことを罪という。
 その罪ゆえに、私たちは神の御前に死んでいる。いや生きてはいるのだが、それは生物体としてのそれ以上のものではない。

 しかし、イエスの十字架と復活が私たちの身に起こると、私たちは信仰を獲得し、罪赦され、義と認められる。
 そのとき私たちは、御父の思いの通りに思い、考え、動くようになる。強いられるのではなく、変えられたのである。
 こうして、神とともにある本来的な生を回復されてゆく。

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