みなし義人

 「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(ローマ5:6-11)

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 「神の怒り」という語句が出てくる。
 アダムの肉への怒りだろう。
 その意味では、新約時代であっても神はお怒りだと思う。
 ただ、その「怒りの神」と和解することができる。
 その和解の道を神の側から差し伸べてくださったことこそ、神の愛だ。
 怒りの神でもあり、同時に愛の神でもある。

 その神の愛とは、「キリストが私たちのために死んでくださった」ということだ。
 ここにいう「私たち」とは、「まだ罪人であった」という存在としての私たちだ。
 罪人だったのだ。
 今も、アダムの肉を身にまとった罪深い存在であることには変わりはない。

 ただ、「キリストの血」、十字架のキリストが理屈を越えて内に入ったとき、「罪人であった」とみなされる。
 過去形とされ、罪赦される。
(このことを「いのち」と書き続けている。)
 いまだ罪深く義から程遠い。
 そしてかつては罪人だったが、いまは義人とみなされる。
 いわば「みなし義人」。
 このことは、キリストの復活が担保する。

 神は「みなし義人」と和解している。
 彼はこの和解に心底安んじていて、もはや彼の上には神の怒りはない。
 今はこの神を喜んですらいる。じっさい「神は愛」だったのだ。

 それだから、この死んで復活したキリストと出会うことが、唯一かつ全てなのだ。

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[付記]
 本日の記事は、2007年11月29日の記事に若干の修正を施したものです。
 もう少しデフラグ作業が続きます。

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