神の子とされる特権

 「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:10-13)

---

 世はイエスを知らなかったし、イエスがいらしてからも、世はイエスを知ろうともしなかった。
 だがそれでも、イエスの御名を信じることのできる人はいる。

 信じようとしてそうなる類のものではない。
 イエスによっていやが上にも信じさせられるのである。
 例えばサウロ(パウロ)がそうであるように。
 神によって生まれた人とは、このような人を指す。

 もとは血に基づいた、肉の欲求や人の意欲によって神の子とされてきた。
 イエスが復活した今は、もっぱら恵みによって神の子にさせていただける。

---

[付記]
 本日の記事は、2008年12月25日付記事に筆を入れたものです。タイトルも変えました。

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

神が解き明かされる

 「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)

---

 神が解き明かされるとは、どういうことであろうか。
 エレミヤ書には次のようにある。

 「見よ。その日が来る。その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。
 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:31-33。「主の御告げ」を省略。)

 「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」ので、人は神を、それも内住の神を知り理解する。
 復活のイエスによって神が解き明かされるのである。

 私たちは律法にがんじがらめになってしまって、その律法に基づき罪人とされていた。
 しかし、イエスの十字架が肉を処分し、そしてそのイエスが復活したことで、私たちはキリスト・イエスから復活のいのちをいただける。あるいは神に御内住いただけるようになる。
 そのいのちはとても力強く、生来の自分にはなかった生命力が湧く。
 神がまとった肉の処分によって罪赦され、解放されたからだ。
 このような神の解き明かしに必要だったのが、イエスの十字架そして復活である。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

律法と恵み

 「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネ1:16-17)

---

 キリストから恵みを受けた者はみな言う。
 「この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」と。
 これからという人も、たくさんいるに違いない。

 律法を遵守することによる救いというのは、終わりを告げた。
 ただ、律法が分からなくては罪も分からない。律法に照らして、何が罪かが示されるからである。その罪に気付かない人は、キリストとは全く無縁である。
 律法を到底遵守できない罪人であることことにうちひしがれた人の下に、救い主イエスが恵みによってお会い下さる、そういう新しい時代が到来したのである。

 つまり、罪の肉にうちひしがれ、どうすることもできないアダムに、十字架に死んで復活したイエス・キリストは救いの光を照らしている。
 その光は、この闇の中をいつも照らしており、恵みとは、その光が自分に照射されることに他ならない。
 そのとき、私たちを縛っていた罪という鎖はほどけ解放され、満ちあふれた「いのち」をいただけるのである。
 その「いのち」がなくなることはない。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

神によって生まれる

 「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。」(ヨハネ1:11-13口語訳)

---

 「彼」とはイエスのこと。

 世はイエスを受け入れない。相容れないといっても良い。
 だが、この世にあっても、そのイエスを信じることのできる人がいる。
 その信仰は、血筋にはよらない。つまり、異邦人かどうかは問われない。
 また、その信仰は、信じようとして信じたのでもない。
 というか、信じようとして信じることのできる類のことではない。
 神がその人に、イエスを知らせイエスを信じさせたのである。
 これが恵みである。信仰はわざによるものではない。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

いのちを与える光

 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4-5)

---

 「いのち」を与える光、それは確かにこの闇の中を通っている。
 「やみはこれに打ち勝たなかった」。
 聖書はもっぱら、そのことを約束するために編まれたものだといえる。
 光とは、ここではイエスを例えている。
 イエス・キリストが放つ「いのち」を与える光は、どんな闇にあっても消えることがない。

 その光は、探そうとして探すことのできる類のものではない。
 恵みによって当たったときに、はじめてそうとわかる。
 だから、光を探し続ける忍耐というより、光という恵みを待ち続ける忍耐が信仰ではないかという気もする。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ことば

 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

---

 ことばにはそれ自体に意味があり、また、ことばの連なりが意味を生む。
 そのことばは、人から人へと、意味が伝わってゆく。
 聖書のことばも、もっぱら文字面の意味で理解される。

 ところが、「ことばは神」としかいいようのない出会いが、聖書にはある。
 聖書のことばが、単なる文字面の意味をはるかに超えて、読む者に「いのち」を与える、そういうことがあるのである。
 アウグスティヌスにとってのそれは、「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:13-14)であった。
 苦悶のさなかにいた彼がこの聖書箇所を見て、「そうだ、主イエスを着ればいいのだ!」と悟った、ということではない。全く違う。
 ことばであるところの神が、この聖書箇所を通して彼に出会ってくださったのである。このことによって、彼は回心をとげる。

 このように、ことばが神と共にありことばが神であるのであれば、その神はアルファなのであるから、「初めに、ことばがあった。」となる。
 しかし、そういう文言の解釈そのものよりも、ある人のある局面において、たとえば「初めに、ことばがあった」という「ことば」が、文字面の意味をはるかに越えて人に「いのち」を与えることがある、そのことの方がずっと大切なことだろう。

---

[付記]
 本日の記事は、2010年5月19日付記事に筆を加えたものです。

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

神の子を何によって認めるか

 「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
 そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。
 百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。」(マタイ27:50-54)

---

 肉の死の苦しみをごまかさずに受け止めて、イエスは息を引き取った。
 神殿の幕は裂け、地震が起き、岩が崩れる。
 墓から死人が生き返る。

 百人隊長達は言った。「この方はまことに神の子であった」。
 しかし、彼らがそう言ったのは、イエスの死によって様々の恐ろしいことが起こったからにほかならない。
 それは、菅原道真が死んで祟りが起こったので今度は天神様として信仰したというのと全く同じことで、実際にイエスが神の子だと分かったわけではない。
(菅原道真について、こちら。)
 つまり、イエスが神の子であるということを何によって認めるか、という、信仰の根本のところが問われる。
 百人隊長達はイエスを信じてなどいないので、彼らなりの認識でいい。

 イエスは復活して、ごく一部の人々、弟子にお会いになられた。
 その後も、イエスを待ちわびる人々に、戸の外に立って叩いて、恵みによってその人を訪れ続けている。
 私たちはこの復活のイエス、訪れて出会って下さったイエスを信じているのである。
 超常現象が起こったから信じるのではなく、会って触れ合って「いのち」を与えてくださったから信じている。
 それはきっと、聖書のたった一節によってである。
 イエスがその人に応じて与えて下さった「いのち」の一節だ。
 今まで意味が分からなかったその一節が突然輝きだし、輝いたその一節によって全体が解き明かされる。
 死んでいた私が、イエスに続いて復活したのである。
(このことは、アウグスティヌスの「告白」にも記されている。)

 私たちは、肉を処理した復活のイエスを知っている、ということによって、イエスを神の子として信じている。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

『十字架から降りて来い』

 「道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
 言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」(マタイ27:39-40)

---

 十字架にはりつけにされたイエスは、あらゆる人々から罵声を浴びせられる。
 それは、集団心理といっていいかもしれない。ともかくイエスは、全世界からの憎しみを買っている。

 ある人は言う。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」
 全世界は、イエスをそう罵る。
 だがイエスは、このように罵る人々を罪から救うために、十字架にかかっている。

 私たち人間はアダムの違反以来、神の意志に沿うことのできない存在、律法の何一つ守ることのできない罪深い存在である。
 神からは遠く離れてしまった。
 それでも私たちを愛する神が私たちに送って下さったのが、ひとり子イエスである。
 イエスは、人と同じ肉をまとってはいるが、その肉には罪がない。私たちとは異なり神であり、律法を完全に遵守できるのだから。
 その罪の全くない肉を、十字架につけて処分し(いけにえとしてささげる)、そして復活することによって人間の肉に赦しをもたらし、神との関係を取り持つ。
(十字架での処分が承認される。)

 イエスにとっての救いとは、このような神と人との間柄の修復のことを指す。
 それを十字架から降りて来てしまっては、一体何のために肉をまとって地上にこられたのかが、まるでわからなくなってしまう。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

まったくのたまたま

 「こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。
 そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。」(マタイ27:31-32)

---

 イエスのゴルゴダへの道。
 たまたまそこにいたクレネ人シモンに、ローマ兵が無理矢理十字架を背負わせる。

 イエスをはりつけにするための十字架を、ローマ兵は誰かに運ばせちまえと考えた。
 そのローマ兵の目にたまたま目に付いたのが、クレネ人シモン。
 シモンがこの十字架を背負うはめに陥るのは、まったくのたまたまでしかない。

 この「まったくのたまたま」というのが、つまり恵みである。
 ただ、ローマ兵のきまぐれと神の御恵みとは全く異なるし、シモンが背負う十字架は、いわば使用前のもので価値はない。
 だから、シモンが恵まれたというわけではなく、やはりシモンにとっては単なる災難にすぎない。

 それでも、このローマ兵のきまぐれは、神の御恵みとはどういうことかを(結果的に)よく表していると思う。「型」といっていいだろう。
 神の御恵みは、善行の数量に応じて降り注ぐものではなく、全くのランダムに「まったくのたまたま」に降り注ぐ。
 神の御恵みは「まったくのたまたま」だ。
 善行をしなくてもよい、というつもりは毛頭ない。
(むしろ善行は自分のためだろう。「情けは人のためならず」とも言う。)
 ただ、善行を積めばそのご褒美として恵みに預かれる、という因果関係が果たして成り立つのか、ということで、聖書にはこう書かれている。

 「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。……。 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:20-22)

 アダムの肉を十字架で処理し終えて3日目に復活したイエス、このイエスを救世主と理解できる信仰は、「すべての信じる人に与えられ」る。この信仰こそ神の義である。
 そもそも、信じたこと自体が、私たちが主体的に信じようとして信じたのではなく、「まったくのたまたま」に”信じさせられた”のであり、そこに神の御恵みが働いている。

 クレネ人シモンが災難に遭ったのと同じように、聖書の世界は「まったくのたまたま」に満ちている。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )