「キリストの死にあずかるバプテスマ

 「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:4-6)

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 キリストが復活したという事は、「キリストの死にあずかるバプテスマ」を受けてどうなるか、ということについて、その道を切り開いたということである。
 そのバステスマを授かった者は、「いのちにあって新しい歩みをする」。
 「いのちにあって」というのは、妙な記法で書くと「in いのち」、すなわち「いのちのなかで」くらいのニュアンス。

 キリストは復活する前、葬られていた。
 同様に、このバステスマは「死」へと向かわせ、かくして「私たちの古い人」は葬られる。
 何が死んで葬られるのかというと、アダムの肉だ。
 キリストが復活するのと同様、「いのち」というものの中での新しい歩みが始まる。
 その新しい歩みというのは、「罪の奴隷」という境遇からの解放である。

 そのためには、「キリストの死にあずかるバプテスマ」という恵みを授かる必要がある。

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[付記]
 本日の記事は、2008年1月28日の記事に若干手を加えたものです。

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