神を知らしめるイエス

 「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)

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 信仰とは、見たことはないがよく知っているところの神と共にあるということだ。
 御子イエスが、私たちに直接、神を知らしめたのである。
 それまでは、神と私たちとは、私たちの肉の罪のために関係が断絶していた。
 しかし、十字架と復活の主イエスを介して、私たちは義と認められた。
 そうして今は、以前とは違って、御父と共にいるという大きな安らぎの中にいる。
 私たちは、もともとの在り方に戻ることができたのである。

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[一版]2016年12月30日
[二版]2018年 9月30日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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キリストの栄光

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)

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 「ことばは人となって」は、「ことばは肉となって」とも訳せるとのこと(新改訳聖書の注釈欄より)。個人的には、後者の方がずっと分かりがいい。

 イエスが肉をまとっておられた公生涯において、イエスと会った人、イエスにあわれんでもらった人、イエスに敵対した人、イエスの弟子になった人、ともかく、さまざまな立場の人たちがイエスを知っており、言葉を交わしていた。
 しかし、ヨハネ福音書の記者は「私たちはこの方の栄光を見た。」と書き記す。
 このことを言い換えると、イエスの中に神を見いだしたのである。
 そのような人は、当時、どの程度いただろう。

 十字架で肉を処分して復活したイエス・キリストは、今に至るまでずっと「私たちの間に住まわれ」ている。
 そして、わざによってではなく恵みによってイエスが私たちにお会い下さり、そのとき私たちはイエスの栄光に圧倒される。
 今まで被さっていた覆いが一気に取り除かれ、聖書の一節一節をはっきりと了解できるようになる。
 そして十字架や復活などの「まこと」を了解する。それは人知によるものではない。
 このまことによって、私たちは「いのち」を得ることができた。
 まさに「この方は恵みとまことに満ちておられ」るのである。

 聖書は、この栄光に出会って救われるために、もっぱら存在する。

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[一版]2010年11月 6日
[二版]2014年 5月 4日
[三版]2016年12月23日
[四版]2018年 9月24日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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神の子

 「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:11-13新共同訳)

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 御父は万物を造り人を造った。
 しかし、多くの人々は御子を受け入れなかった。
 そうすると、御子を受け入れなかった人々は御父から断絶していることに気づきもしなかったことになる。
 一方で、御子を信じる者もおり、彼らは御父から断絶していることをも受け入れた。

 「神の子となる資格」とは、御父との関係性を回復できる可能性のことである。
 「神の子」は、人間の血肉的なものに由来せず、正に神から生まれた者のことであり、彼はルーツが変わり、アイデンティティーも変更される。
 「神の子」は、自分をお造りになった御父と和解でき、自然さを取り戻す。

 御子を受け入れなかった人たちはどうであろう。
 少し前に、少女が乗った自転車が車にはねられたときに、どうして誰も少女を助けなかったのかというニュースを見たが、自分には全く意外感がなかった。なぜなら、東京の人間は厄介事には素知らぬふりをするということをよく知っているからだ。

 「神の子」は、自身の内奥に神の律法を宿している。
 もちろん肉をまとっているので誤ちは多いが、少女がはねられれば脊髄反射ですぐ動ける。
 しかし、他の人がどうであるかより、まずは、そのように動けることを喜び、そのように回復させてくれた真の父に感謝しよう。

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 健やかな一日をお祈りします!

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イエスが与えるもの

 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4-5)

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 イエスが与えてくださるものが何かということについて。

 このイエスは、「いのち」という光を宿している。
 そしてイエスは、多くの人を救うため、その「いのち」の光を恵みによって分け与える。
 その「いのち」に預かった人は、信仰に至る。
 人が根源的にもっとも必要なもの、それをイエスは与えてくださるのである。

 いま、人々は、カネ、モノその他物質的・物理的なものばかりをもっぱら追い求めている。マモニズムそのものだ。
 確かにないよりあるに越したことはないが、いったいカネやモノによって救われるだろうか、心満たされるだろうか。刺激ならば確かにあるだろう。
 だから物質的・物理的な満足感と精神的な満足感とは、別種のものなのである。
 イエスが与えるものはもっぱら精神的な満足であり、マモニズムが与えるものとは全く異なる。マモニズムは、人間にどうしても必要な精神的満足を見失ってしまうのである。マタイはどうであっただろうか、レビはどうであっただろうか。

 今のこのマモニズムという闇の中にも、イエスの「いのち」の光は輝いている。
 だから、こころを、魂を自由にするこのイエスの救いには、マモニズムにどっぷり浸かって虚無に陥った人をはじめ、誰もが預かることができるのである。マタイもレビもそうであった。

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[一版]2014年 4月28日
[二版]2016年12月11日
[三版]2018年 9月22日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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ことば

 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

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 ことばにはそれ自体に意味があり、ことばの連なりがまた意味を生む。
 このことばによって、人から人へと意味が伝わる。
 聖書のことばも、もっぱら文字面の意味で理解される。

 ところが、「ことばは神」としかいいようのない出会いが、聖書にはある。
 文字面の意味をはるかに超えた聖書のことばが飛び込んできて、読む者に「いのち」を与える、そういうことがあるのである。
 アウグスティヌスにとってのそれは、「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:13-14)であった。
 これは、大きな苦悶のさなかにいた彼がこの聖書箇所に接して、「そうだ、主イエスを着ればいいのだ!」と気付いた、ということではない。
 そうではなく、ことばであるところの神が、この聖書箇所のことばを通して彼に出会ってくださったのである。この出会いによって、苦しみ抜いたアウグスティヌスは回心をとげる。

 文字面の意味を考えること自体も大切だ。
 しかし、そういう文字面の解釈よりも、聖書のことばが文字面の意味など突き破って人に「いのち」を与えるものであること、そのことの方がずっと大切なことだ。

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[一版]2010年 5月19日
[二版]2010年10月11日
[三版]2012年 8月25日
[四版]2014年 4月27日
[五版]2016年12月 4日
[六版]2018年 9月19日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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善行について

 「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
 ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」(ガラテヤ6:9-10))

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 善とは何であろうか。善を行なうとは、たとえば何をすることだろうか。
 もしも「時期が来て、刈り取る」ための行ないだとすれば、善を行うとは、もっぱら自分のための行為であって、相手のことなど実はこれっぽっちも考えていないということになるだろう。
 この場合、善というよりは独善的でひとりよがりに陥りやすい。
 誰からも嫌がられる、あのおせっかいにもなりやすい。

 そうではない善がある。
 相手に喜んでもらえることである。
 このとき、「時期が来て、刈り取る」ことなど、頭から消えている。
 善を行なったこと自体、忘れてしまう。
 そしてやがて時期が来て、喜びが訪れるに違いない。

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 健やかな一日をお祈りします!

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『罪のリスト』

 「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。
 前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(ガラテヤ5:16-21)

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 私が受洗したとき、おせっかいなおじいさんが「不品行、汚れ、好色、……」の箇所を「罪のリスト」と言うからこれを守りなさい、と私に教えてくれた。
 世間一般でもそのように言われているのかを、私は知らない。
 ただ、思うのだが、話の順序が逆ではないか。
 「不品行、汚れ、好色、……」というのは肉の性質の諸相様々であって、肉の罪深さをあぶりだす単語たちだ。
 そのように罪が罪としてあぶりだされることによって、自分の罪深さをいやでも自覚し、救いの求めへと結びつく。
 まさに律法は養育係なのだ。
 だから、自分はこの罪のリストのどれ一つ破っていないという人がいるとしたら、その人は神か、あるいは、神から完全に見放されているかのどちらかだろう。パリサイ人がまさに後者だった。
 それから、この罪のリストにせよ律法にせよ、これらのものは、昨日は守れなかったが今日は守れた、というような類の日々のチェックシートとも違う。
 昨日は大丈夫だったが今日は不品行をしたとしたら、それはその人の肉それ自体が罪深いことの証左で、不品行な肉を毎日抱え続けているということなのだ。昨日も今日も明日も関係なく、本質的に不品行な肉の持ち主なのであり、むしろ、そのことに気付いて悔いて欲しいので、こういったものが存在する。

 だから、「神の国を相続することはありません」というのも、その人をぎりぎりまで追いつめ、さらにダメ押しをするためのものである。神の国を相続して欲しいのだ。

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[一版]2008年 6月 1日
[二版]2015年 8月30日
[三版]2018年 9月17日(本日)

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イエス・キリストに対する信仰

 「とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。
 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。
 信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」(ガラテヤ3:21-26)

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 律法は、「すべての人を罪の下に閉じ込め」、すべての人に自身が罪深いと悟らせる。
 この罪深さはアダムの肉に由来し、性質として備わってしまっているものなので、律法を守り行なおうとして救われることはないし、それ以前にこの律法を守り通せるものではない。

 このアダムの肉の罪から解放するのが、「イエス・キリストに対する信仰」である。
 むしろ、律法で追い込んで罪を自覚させ、十字架がその人をその罪から解放する、というところだろうか。
 律法なくして十字架はなく、十字架なくして律法に意味はない。
 「イエス・キリストに対する信仰」とは、端的に、イエスの十字架と復活への信仰なのだ。
 この信仰は、アダムの肉が赦されて義とされたというものであるから、もはやこのアダムの肉を責め立てていた律法は不必要になる。「私たちはもはや養育係の下にはい」ないのである。

 そうすると、私たちはこの「イエス・キリストに対する信仰」をどのようにして獲得できるのだろうか。
 それは、私たちの意志によるものではない。
 恵みによって与えられるもの、信じさせられるものである。
 復活のイエスが訪れてくださって、信じさせられる。
 そこが、律法によって自ら義を立てようとする営みとは全く異なるところである。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)

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[一版]2010年 3月 6日
[二版]2015年 8月23日
[三版]2018年 9月16日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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割礼

 「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」
 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。
 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」(ガラテヤ2:19-3:2)

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 律法、特に割礼によって、人は神と契約関係に入る。
 ところが、その割礼についてパウロに言わせると、それを受けるとキリストとは無関係になる(5:2)。
 旧約時代、人々はみな割礼を受けた。
 だが、割礼を受けた人の中で誰か救われただろうか(2:16)。
 なかでも救われなかった典型が、伝道者の書(コヘレトの書)を書かざるを得なかったソロモン王だろう。
 そして、預言によって示されて、誰もがキリスト(メシア)を待ち望むようになった。

 そのさなか、罪深い私たちの肉と同じ肉をまとった御子イエスが世に来て、その肉を処断するために十字架に架かり、その処断、罪のあがないが認められて、イエスは復活する。
 律法を行なう義に絶望し復活のイエスによりすがる人は、正に、律法を守れないという極刑によって、イエス同様、十字架に架けられる。
 「神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました」というのは、だからもっともなことだ。
 このようにして、私たちは、肉を律しようとする律法に死んだのである。

 そうすると、十字架につけられ律法に死んだ私たちにとっては、かつて神との契約として行っていた割礼に対しても死んでいる。
 そもそも、罪とは、神の律法によって規定されるが、その律法を守れないという罪が、イエスの十字架と復活によって赦されたのであるから、割礼についてももちろん免責していただけるのである。

 踏み込んで書けば、新約時代の割礼とは、「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示され」るということなのだ。
 それが、恵みによる神との契約である。
 それにしても、ガラテヤ人は復活のイエスに出会っているにもかかわらず、律法を遵守しようとする。それで、「ああ愚かなガラテヤ人」となってしまう。
 本当に復活のイエスと出会っていれば、迷いようがない。イエスとの出会いによって、自分を罪に定める律法から自由になったことが分かるはずだからである。

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[一版]2008年 1月16日
[二版]2009年 8月 8日
[三版]2010年 2月21日
[四版]2015年 8月16日
[五版]2018年 9月15日(本日)

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事は成就した

 「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
 また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。
 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示21:3-8)

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 これだけの大きな苦しみの後、遂に事は成就する。

 この世では涙を流すことの多かった者に対しても、神は慈しんでくださり、私たちの涙をすっかりぬぐい取って下さる。
 違う言い方をすると、少なからぬ者にとってこの世はまさに涙の谷、嘆きの谷なのだった。
 だが今は、「渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませ」てくださる。
 私たちはここで神と共に永遠のいのちに生きるのである。

 そして、上に書かれていることは世界の救いについてのことであるが、私たち一人一人もまた、この世界の救いと同じようにして世にあって救われる。
 これだけの大きな苦しみの後、イエスによって遂に事は成就する。
 世にいる限り涙の谷であることに違いはないのだが、いのちの水の泉から価なしに飲むことができるようになるのである。

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[一版]2014年 4月13日
[二版]2018年 9月12日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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